原子の雲の下の事実―映画「ひろしま」エピソード
2011/10/24(Mon) Category : 戦争
藤沢市民会館の会場は立ち見、床に座り見が出るほどの超満員でした。
私たちも手前の床に2時間半座って見ましたが、主催者側もこれほどの反響があるとは思っても見なかったのでしょうね。


でも、ご年配の方が多く、もっと若手にも見てもらいたいと思います。学校教育の現場で扱っていい映画だと思います。以下は、プロデューサー小林一平氏のお話から。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に原爆投下。
1951年に子供たちの原爆体験手記を本にした「原爆の子―広島の少年少女のうったえ」
が発行されました。
1952年に上記の文集をもとに制作された新藤兼人監督による映画「原爆の子」が公開されます。
しかし、この映画を見た原爆体験者たち(「原爆の子」の手記を書いた子供たち)は、原爆のむごさはこんなものではない、本当の映画をもう一度作って欲しいと先生に訴えます。
その子供たちの訴えを先生が取り上げました。
1952年8月に日本教職員組合(日教組)が製作を決定し、50万人の先生たちが一人50円をカンパして資金を集めました。
9万人の市民が協力した映画は、オール広島の様相を呈します。
地元企業も協力し、マツダの敷地内にもセットが組み立てられたそうです。
子供たち3000人は、夜中の2:00に集められて、燃やして踏んづけてボロボロになった服を着、持参した灰をかぶって、まだ暗いうちから撮影。
死の行進では、朝5:00頃にまだ冷たい川の中へ入っていったそうです。
撮影の間は、市民の方々が泥だらけになるので、銭湯はすべて無料だったとか。まさに、市を挙げての協力でした。
しかし、米国や外務省から圧力がかかっていた時代です(今もそうですが)。広島出身の女優、月丘夢路さんは、「女優生命が終わるるかもしれないぞ」と脅されましたが、自ら申し出てノーギャラで出演。月丘さんのシーンが、下記のチラシになっています。

チラシには、こう書かれています。
『原子の雲の下の事実』を世界に伝えたい。
「原爆」という言葉、「ヒロシマ、ナガサキ」という言葉は世界に広がっている。けれど、その実体は拡がっていない。投下した側は、キノコ雲と更地と化した廃墟を見るだけです。
阿鼻叫喚の地獄を見れば、世界から核はなくなる―そういう信念で「奇跡への情熱」(核廃絶)プロジェクトを立ち上げた小林一平さん(父親が「ひろしま」の監督補佐)。この映画に描かれていないのは、「熱と臭いだけ」だと言われたエピソードを紹介されました。その地獄の様相のごく一部が、下記で語られています(02:42あたりから二人目の方)。
映画では、「被爆者が描いた絵」ほどの地獄が表現されているわけではありません。けれど、とてもリアルなものです。
戦後、何もかもをなくして自堕落になっていく青年の持つパチンコ玉を見て、友人の女性が「その玉が、いつかまた大砲の弾になるのじゃないの」と言うシーンが印象に残りました。
伝え続けていかなければ、語り続けていかなければ、また同じ過ちを繰り返すことを、福島原発の事故は教えてくれました。
私がこの映画を知ったのは、ある女性(Aさん)からです。
Aさんは導かれるように広島に行き、「原爆被爆者が語る 無料ガイド」という看板掲げて話している方に出逢います。お母さんが妊娠4か月の時に被爆した胎内被爆者で、三登さんという方でした(三登さんのブログ↓)。
・広島の視線 - 原爆・ヒロシマ・平和公園・無料ガイド・花
三登さんの話を聞いたAさんは涙が止まらなくなりました。何度も話しているはずなのに仕事のように無機的ではなく、その“思い”がストレートに伝わってくる。命をかけている。その生きる姿勢に打たれたそうです。
「逃げちゃいけないんだ、きちんと知らなければ、目を背けてはいけない」そういう思いが心の底から湧いたそうです。そして、勇気を出して、泣きながら「ありがとうございました」と御礼を言ったそうです。
Aさんも勇気をもらい、三登さんも勇気をもらったことでしょう。
そして、私も勇気をもらいました。
このような、一人ひとりの一歩を踏み出すささやかな勇気の連鎖が、IPに負けず、権力や圧力に屈せず、世界を変えていく力になっていくのだと思います。
そして、Aさんが旅行から帰って間もなく、自宅にお試しで入っていた「神奈川新聞」。そこに映画「ひろしま」が藤沢で上映されることが掲載されていたのでした。神様は面白いことをするよね(^^)。
福島原発で放射能被曝にさらされている現在だからこそのリアリティを感じた映画でした。
事実を見ないできたことが、放射能汚染という現実を作ってしまいました。まず、自分に関わる身近な事実=家族という事実から目を背けないこと―自分の内側から目を背けないこと―一人ひとりがそれを行う勇気を持てば、社会は自ずと変わっていくと思います。
私たちも手前の床に2時間半座って見ましたが、主催者側もこれほどの反響があるとは思っても見なかったのでしょうね。


でも、ご年配の方が多く、もっと若手にも見てもらいたいと思います。学校教育の現場で扱っていい映画だと思います。以下は、プロデューサー小林一平氏のお話から。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に原爆投下。
1951年に子供たちの原爆体験手記を本にした「原爆の子―広島の少年少女のうったえ」
1952年に上記の文集をもとに制作された新藤兼人監督による映画「原爆の子」が公開されます。
しかし、この映画を見た原爆体験者たち(「原爆の子」の手記を書いた子供たち)は、原爆のむごさはこんなものではない、本当の映画をもう一度作って欲しいと先生に訴えます。
その子供たちの訴えを先生が取り上げました。
1952年8月に日本教職員組合(日教組)が製作を決定し、50万人の先生たちが一人50円をカンパして資金を集めました。
9万人の市民が協力した映画は、オール広島の様相を呈します。
地元企業も協力し、マツダの敷地内にもセットが組み立てられたそうです。
子供たち3000人は、夜中の2:00に集められて、燃やして踏んづけてボロボロになった服を着、持参した灰をかぶって、まだ暗いうちから撮影。
死の行進では、朝5:00頃にまだ冷たい川の中へ入っていったそうです。
撮影の間は、市民の方々が泥だらけになるので、銭湯はすべて無料だったとか。まさに、市を挙げての協力でした。
しかし、米国や外務省から圧力がかかっていた時代です(今もそうですが)。広島出身の女優、月丘夢路さんは、「女優生命が終わるるかもしれないぞ」と脅されましたが、自ら申し出てノーギャラで出演。月丘さんのシーンが、下記のチラシになっています。

チラシには、こう書かれています。
『原子の雲の下の事実』を世界に伝えたい。
「原爆」という言葉、「ヒロシマ、ナガサキ」という言葉は世界に広がっている。けれど、その実体は拡がっていない。投下した側は、キノコ雲と更地と化した廃墟を見るだけです。
阿鼻叫喚の地獄を見れば、世界から核はなくなる―そういう信念で「奇跡への情熱」(核廃絶)プロジェクトを立ち上げた小林一平さん(父親が「ひろしま」の監督補佐)。この映画に描かれていないのは、「熱と臭いだけ」だと言われたエピソードを紹介されました。その地獄の様相のごく一部が、下記で語られています(02:42あたりから二人目の方)。
映画では、「被爆者が描いた絵」ほどの地獄が表現されているわけではありません。けれど、とてもリアルなものです。
戦後、何もかもをなくして自堕落になっていく青年の持つパチンコ玉を見て、友人の女性が「その玉が、いつかまた大砲の弾になるのじゃないの」と言うシーンが印象に残りました。
伝え続けていかなければ、語り続けていかなければ、また同じ過ちを繰り返すことを、福島原発の事故は教えてくれました。
私がこの映画を知ったのは、ある女性(Aさん)からです。
Aさんは導かれるように広島に行き、「原爆被爆者が語る 無料ガイド」という看板掲げて話している方に出逢います。お母さんが妊娠4か月の時に被爆した胎内被爆者で、三登さんという方でした(三登さんのブログ↓)。
・広島の視線 - 原爆・ヒロシマ・平和公園・無料ガイド・花
三登さんの話を聞いたAさんは涙が止まらなくなりました。何度も話しているはずなのに仕事のように無機的ではなく、その“思い”がストレートに伝わってくる。命をかけている。その生きる姿勢に打たれたそうです。
「逃げちゃいけないんだ、きちんと知らなければ、目を背けてはいけない」そういう思いが心の底から湧いたそうです。そして、勇気を出して、泣きながら「ありがとうございました」と御礼を言ったそうです。
Aさんも勇気をもらい、三登さんも勇気をもらったことでしょう。
そして、私も勇気をもらいました。
このような、一人ひとりの一歩を踏み出すささやかな勇気の連鎖が、IPに負けず、権力や圧力に屈せず、世界を変えていく力になっていくのだと思います。
そして、Aさんが旅行から帰って間もなく、自宅にお試しで入っていた「神奈川新聞」。そこに映画「ひろしま」が藤沢で上映されることが掲載されていたのでした。神様は面白いことをするよね(^^)。
福島原発で放射能被曝にさらされている現在だからこそのリアリティを感じた映画でした。
事実を見ないできたことが、放射能汚染という現実を作ってしまいました。まず、自分に関わる身近な事実=家族という事実から目を背けないこと―自分の内側から目を背けないこと―一人ひとりがそれを行う勇気を持てば、社会は自ずと変わっていくと思います。