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ハラッシーハラッサーのでき方

2012/01/30(Mon) Category : 世代間連鎖
【はじめてここを読まれる方は、『ゼロポイントに戻ろう』を先に読まれた上でお読み下さい】



『おや、また異変が』の記事で、『物心ついたときには既に逃げ始めていますから、逃げていることが「常態」ですので、気づきようがないのです』と書きました。
気づかないでいると、どのような影響が子どもに出るでしょうか。その一例を示してみます(架空の事例をストーリー的に示したものです)。


★「レッテル貼り」の通りに育つ子ども-------------------------------

たとえば、友達にパシリに使われている小学校低学年の女の子E子ちゃんがいるとしましょう。お母さんは、なぜ毅然とした態度が取れないのか、嫌なことをイヤと言えないのか、そんな友人たちと付き合うことをやめられないのか、と悔しくて仕方がありません。

E子ちゃんも、お母さんにそう責められても、なぜか毅然とした態度をとることができません。が、その理由は自分でもよくわからないのです。

ここで大人は、E子ちゃんに対して「大人しい子」「自分の意見を言えない子」「煮え切らない子」などとレッテルを貼ります。一度レッテルを貼ってしまえば、その後似たようなことがあるたびに「この子は“自分の意見を言えない子”だから」と、レッテルのせいにできます。

一方のE子ちゃんは、「事実+レッテル」の繰り返しの中で、「自分は意見を言えない子」なんだという自己イメージ(自己概念)を固めていき、それが自分(性格)なんだと思い込んでいきます。こうして子どもは、親の貼ったレッテル通りに育っていくわけです。




★「真実を暴いてはいけない」という禁止令---------------------------

でも、よく考えてみると、そのレッテルは、親が外からE子ちゃんを見て勝手につけたもので、E子ちゃんの内面を表すものではありません。しかも、友達にパシリに使われていながら付き合っているという状況が何でそうなのかという「謎」は、親も本人もわからないままですね。

わからないまま
=わからないままに放置
=親が子をわからないままに放置する
=親がわからないままであることを維持する
ということです。

つまり、「わかってはいけない」ということですね。
だから、E子ちゃんはお母さんに聞かれても「よくわからない」以外の選択肢はないのです。

ここでE子ちゃんに禁止令が内在化します。
それは、
「謎を解いてはいけない」
「真実を暴いてはいけない」
「本質に迫ってはいけない」
という禁止令です。




★問題を自分から切り離す生き方-------------------------------------

真実は封印されました。
親もまたそのように生きているのです。問題未解決のまま、謎を残したまま生きていくことはとても苦しいので、新たに発生する問題は自分が関わらなくいいように排除していきます。

そこで行われるのが「レッテル貼り」です。
相手にレッテルを貼ることで、「相手の問題」にしてしまうことができ、自分はその問題から切り離されてラクになることができます。(それは幻想ですし、子の問題を自分から切り離したとき、親は成長するチャンスを自ら断ち切りブラックホールへの道を歩み始めることになります)

親は楽になりますが、E子ちゃんは苦しみの中に放置されることになりますね。ここでE子ちゃんに次の「生きる処方箋」が内在化します。

「問題が起きたら、レッテルを貼ってその問題を自分から切り離せ」
―これがお母さんの身につけた処方箋であり、それをE子ちゃんも実地体験の中で身につけていくことになります(連鎖しましたね)。




★空しい人生→人間の堕落------------------------------------------

こうして全ての問題を何かのせい―
自分の性格のせい、
親のせい、
誰かのせい、
社会のせい、
他国のせい、
資本主義のせい、
インナーチャイルドのせい、
霊のせい、
カルマのせい、
生まれたせい、
神のせい・・・
―にして生きていくようになります。

せいにする=何かを責め続けて生きるわけですから、苦しいですよね。
せいにする=人生の責任を自分で取れないわけですから、空しいですよね。

自由からの逃走―(2)人のせいにする心理





★人間の堕落→劣化していく社会の悪循環-----------------------------

「全ての問題は“関係性の問題”である」のが真実です。
が、そこを暴くことを禁じられたことが全ての始まり。
 ↓
それを禁じたのは、親が問題を引き受けたくなかったから
 ↓
そして問題(=発達課題)に取り組まずにレッテルを貼って誤魔化す
 ↓
こうして、自分と向き合えない人(=向き合うことを禁じられた人)がどんどんできていき、そういう人々が“社会”を形成していきます。
 ↓
すると社会がだんだんおかしくなっていきます。
・犯罪→個人を裁いて終わり
・心身の医療→薬を処方するための診断名をつけて終わり
 ↓
真実を封印した虚構の社会システムの上で生きるようになり、その虚構システムを維持しようとするようになります。
 ↓
たとえば、真実を暴こうとすると、「組織人としてあるまじき行為」などと本気でいう人間が出てくるのです。「虚構システム維持者としてあるまじき行為」と言い換えるとよくわかりますね。「裸の王様だ!」と叫ぶ子どもを排除していくのです。
 ↓
その組織が人を不幸に陥れることをしようとしていても、盲目的に従うようになります(あなたの所属する集団が、オウム真理教とは違うと言い切れますか?)。


社会がおかしくなっていくのは、誰かのせいではありません。

真実から目を背け続けている、
私たち一人ひとりの責任なのです。




★親の「受け皿」役は、人の「受け皿」役になる-----------------------

ところで、なぜE子ちゃんはパシリに使われていたのでしょうか。もっと言えば、そうまでされてなぜ、その仲間から離れなかったのでしょうか。

それは家に居場所がなかったからです。
親が問題を自分から切り離す生き方をしていますね。切り離された全ての問題は誰かに押し付けることになります。

社会からの要求があれば、その要求をそのまま子どもに押し付けることになります。社会が正しいとは限らないのですが(むしろ間違っていることが多くなっていますが)、全ての問題に責任を持てない親は、無批判に学校や地域や企業の要求を子どもに押し付けています。

子どもは押し付けられるばかりで、受け止めてもらうことがありません。E子ちゃんにとっては、親から要求されることよりも仲間から要求されることの方が、はるかにラクなのです。

家にいることができないので懸命に外に居場所を探そうとするわけですが、この時、自分の「役割」を果たせる場所を探そうとします。
E子ちゃんの役割は「受け皿」ですから、自分に指示命令をくれる相手を探します。そして、そういう素質のある仲間を見出して、相手をそのように仕向けていくわけですね。そのようにして、自分の居場所を確保、あるいは作っていくわけです。


なぜ、自分が苛められるのか、
なぜ、職場で自分ばかりが文句を言われるのか、
なぜ、ハラッサーの夫と結婚したのか(or夫のモラハラが酷くなっていったのか)
なぜ、親族の中で自分だけがバカにされるのか
・・・
そういうお悩みをお持ちの方、どうか自分の人生脚本に気づいて下さい。

もしかすると、あなたが「受け皿」の役割を果たすために、無意識に周囲に仕掛けているかもしれません。あなたの主観は「自分が道具にされている」と悔しがっていても、実は「自分が周囲を道具にしている」のかもしれないのです。








【小谷美紗子 「自分」】






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気持ちで動く。気持ちを言う。
そうすると、ものの見事に今まで付き合いのあった人は離れていった。
自分で仕掛けているのかもしれないけど、今も遠ざけられることや、嫌なこともある。
今は前ほど動じなくなった。あ~やっちゃったんだなぁと感じるだけ。
何より自分に無理させないことが大事で、今まで以上に一人を楽しんでいる気がする。
どんどん周りの価値観とは離れていくなぁと感じる。

 

勉強中さんへ

エピソードは違っても、確かに親の関係に近いものがあるかもしれないですね。

私も、たとえずれた愛情だったとしても、偽物かもしれなくても、今は亡き父からは、愛情をもらえたと思えて、涙がでてきました。

いつも私の心配ばかりしてウザいと思っていたけど、父は父なりの、愛し方がわからない愛情表現で、私と関わってくれました。

そして、当たり前の、「おかえり」「気を付けて行ってきな」の言葉はもう言ってもらえないけど、そんな小さな言葉も、実はとても大切でした。

母からはそういう小さな愛の言葉はほとんど言ってもらえないです。

父のずれた愛情だったけど、そのお陰で私は人を愛せる人間になれたよね。と思っています。

父にとっても、私だけは父を見捨てない唯一の存在でしたが、父はその事に気付きませんでした。残念でした。悲しくて悔しかった。

でも、母に見捨てられるのを恐れていた父が、
信じる相手を間違えていたとしても、それが父の選んだ人生なんだとわかりました。
自分の人生の責任をとれるのは、本人だけなんですよね。

お互い自分を救い出せるといいですね。

 

丁度この記事を目にする前に、いわゆるハラッサー的な人にこの上ない屈辱を受け。いくら落ち度のなきようにと振る舞っていても、その人は自分への反応欲しさに嫌みやら嫌がらせやら。私が何をしたって言うのよ!!って悔しい思いでイッパイでした。
タイミング悪かったようです。
色々な方のコメントや、その後の記事を読んで、内容を平面的に捉えすぎてたな…と。

 

匿名さん

ハラッサーは 誰でも会うと 被害者に特徴はないとこちらで学びましたよ?

↑言質をとるやり方。

自分が引き込んだんですごめんなさいではハラスメントは栄えますよ。

↑あなたの自己主張

その甘さに今だ!と踊り出てきます。

↑せっかく気付きがあった匿名人さんを不安にするように煽っているハラッサー

匿名さん、疑問さん、平和の祈りさんと同じだ。
ななしさん。は煽られたのか。

 

平和の祈りさん

受け皿役が社会を悪くしているのでしょうか?

↑そんなことはどこにも書いていない。あなたがそう受け取ったあなたの自己主張。

パシリなのに嫌だと出ていかない
モラハラ職場や家庭を去らない
これが 間違っているようですが
そもそも人をパシリにする人は居ていいの?
モラルめちゃくちゃな人は居るものですと認めちゃうの?

↑そういう風にこの記事を読み取って自己主張してる。

そんな人が浮いて恥をかく 相手にされない社会がまともな社会かと思います。
社会を悪くするのは
人を丁寧に大事にできない心。それは圧倒的にやってる側の心です。
パシリにしないで自分で動いたらどうよ?です。
イジメやすそうでも、実際やらない、しないと決めるのが普通です。
そうでないと
嫌なら出てきゃいいだろうが、ああそうよねぇ
で 暴力成立してしまいます。
受け皿体質の脚本はよく学ばなければいけないけど
頑張ってきたあかしです。そうやって守ってきた。偉いですよね。
その癖を察知して逆手にとり上手く利用しようとするエゴ。
俺をイジメるように仕向けたお前が悪い、利用したくせに。
この主張は
どんな時もイジメに走らない利用されない自分を目指したらいいです。
  
↑あなたの自己主張を社会問題にすりかえてから、この記事を批判しているやり方でハラッサーをしている。

匿名さんと同じ。

 

悲しい、嬉しい、怒った!、がっかりした。最近、色々と言ってます。

最近DVから逃げ出そうとしている女性と知り合いになって、彼女を応援したいと思って連絡をしていました。彼女は逃げた先で自殺予告&未遂をしました。
死にたいと聞いて、私はとても悲しかったから、悲しいと伝えましたが、「死なないで」とも「そうしたら」とも言いたくなかったので、最後まで言いませんでした。
私は彼女に自分を見ていたのだと気付いたのは、全てが終わってからでした。でも、自分を守って逃げた彼女はやっぱり素敵で、私は彼女のことが好きだったなぁと思っています。
私は彼女から離れました。彼女がいつかどこかで幸せになることを祈っています。

彼女と知り合ったきっかけは、私が彼女のダブルメッセージを読み取ったことだったのだと、この記事を読んでいて気付きました。
彼女は「私はDVに遭っているけど自分を見失ったりしない」と書いていたのです。
なるほどなぁと、思いました。だから、私と彼女は近付いたのだなぁと。
自分が人のマイナス感情に反応し易い自覚はありましたが、そういうことだったのですね。納得。

今回のこと、きっと彼女にはそれが必要で、私にもそれが必要だったのだと思います。
すごくショックで、悲しくて、とても頭に来て、やっぱり、とてもとても悲しかったです。
でも、渦中で私は人に助けを求めることが出来て、一緒に対処してくれる人が何人もいて嬉しかったし、その後、親しい人に気持ちを聞いて貰ったりもしました。
ICもIPもわらわらしてたけど、今は自分も彼女も責めたいと思わない。
彼女のことが好きだったなぁ、幸せになってくれたらいいなぁと思ってます。今の私は一緒にいられないけど。
私は私を幸せにしよう!と思いました。

 

先日部屋に一人でいたところ突然恐慌状態に陥ってそして突然持っていた漫画を売りに行ってしまいました。

売りに行く最中は怖かったりぐるぐると考えて売ってしまった後もすっきりしたのと後悔したのと両方で帰宅しました。

ところが家に帰ってきたら涙が出てきて大事な本だったのにと自分が泣き出しました。

そしてずっとめそめそと泣いていたところだんだんイライラしてきてめそめそ泣いている自分を自分が怒鳴りつけました。

驚きました。

怒鳴られた自分は今度は怒鳴られたことに更に泣き出してしまいわんわんと大泣きしました。

結局自分が自分に精一杯謝って抱きしめたところピタっと泣くのが止まりました。

自分はハラッサーではないと思っていたのですが自分もまたハラッサーだと自覚した出来事でした・・・。

はけ口が自分自身になっているというだけで私もハラッサーです。
そういう目で見てみるとご飯を食べさせなかったり薄着のまま寒いところにずっといたり汚い服を何日も着せたり服をほとんど買ってなかったり子供相手だったら虐待と言われそうなことを自分自身にやっています。
自分の子供だからじゃなく自分自身だからになってるだけだということに気が付きました。
たまに自分自身を痛めつけたい衝動にも駆られます。
正直怖いです。
自分自身すら道具としか見ていない自分。
でもずっとそれを我慢して受け続けてるのも自分。

漫画の一件があって以来自分も傷つける人間だということを知ってショックをうけた反面、自分にひどく愛されているなとも思いました。
本当はこの健気な自分を救わなくちゃいけないんですよね。

自分の中でとても衝撃的な出来事でどこかに表現したかったので場をお借りしました。
ありがとうございます。

 

umi #さんのコメント読んで、私と同じ境遇の人だあと。そして同じタイミングで私は次の記事にコメントしていました。なんか不思議。

ハラッサーはハラッシーよりも自分の問題に気づきやすい気がするんです。
父はハラッサーでしたが、自分の生きづらさに気づいていて、包み込むような深い愛情にはちゃんと答えられる人でしたが
ハラッシーだった母は、今でも自分の問題から逃げ続けていますし、包み込むような愛情もなかなか届きません。
非常に非常に難しいです、母のほうが。
今母は、、抱えきれなくなった感情を病人となった弱者の父に向けてハラスメントすることで憂さを晴らすようになりました。
父はハラッシーとなりましたが、それでも外に友人を作ったり、母に全く干渉しないという方法で折り合いを付けているようです。

私自身は幸い、ハラッサーでもハラッシーでもない転勤族の夫と知り合い(初めは夫のことが理解できず、勝手に一人不安になってましたが)人との距離感もつかめるようになりました。
そうすると、寄ってくる人も変わってくるんですよね。嫌なこと言う人が周りに全くいないんです。
以前はあんなに、人間関係でつらかったのに嘘みたいです。人と関わるって楽しい、人と話すって気持ちが楽になるって思えるようになりました。

 

私は参考になりました。

いつも「気付きの参考書」として拝見しています。

ハラッサーとハラッシー、どちらの方がいいとか悪いという事はないとわかりました。

どちらも同じレベルなのだと、私は思います。

誰でもハラッサーに出会ってしまうと思います。

でも、その後の相手との関係(親しくなってしまうのか、ただの通り過ぎ程度か)が、自分の問題と関係していると感じます。

私の場合は、父がハラッサー、母がハラッシーで、母を可哀想だと思い、いつもサポート役として、しっかり者として生きてきました。

しかし、謎が解けた今は、可哀想どころか、母はしたたかでさえあるとわかりました。

そして私は、頼られるという、自分の役割を捨てると決めました。
長年自分の役割に頼ってきたので、手放す事は、自分の存在意義を覆す事なので、辛いです。
怖いです。怯えています。

でもやるしかないと思っています。

なぜなら、本当に自由になりたかった相手は、父ではなく、実は母であったからです。
役割から降りない限り、私の心は自由になれないからです。

本当の自由を感じられるようになりたいと思います。

 

私は…わりと素直に読めてたと思う。

私自身の真実から逃げたがる部分、そのからくりを単純明快にしていただけた、そう感じた。
ありがとうございました。

地元はハラスメントのメッカだったから、染まりきってしまって、ハラッサーハラッシー両極を生きた。
前者は他人を締め上げるし、後者はかわいそう。
以前はハラッシーには同情的だったけど、今はそういう風には思えない。どっちも狡いと思う。
どっちの見方も出来るよ。だけどどっちの味方もしないよ。
私は私の味方をしたい。

しばらくコメ自体ひかえるつもりでしたが、その前にネームレスというハンドルネームを変えたくなりました。
今はこれに関わるトラウマが吹き出してきて、きつい。
これを相手にぶつけてしまえば、私がハラッサーになる。
相手をどうにかしようとしたら同じ土俵に上がるだけ。
昔から鬼ごっこはきらい。勝手にやってろ。

どさくさ紛れに吐き出しコメになってしまった。
投稿するの迷うなあ。
もうほんとにほんと、これを皮切りにしばらく書きません。ネット自体を絶って、自分と向き合うつもり。
エゴの負け!!
逃げるのやーめた。
脱ハラスメント体質宣言です。

 

受け皿がイヤなら黙ってその場から立ち去ればいいのでしょうけれど、ハラッサーはしつこいから、自分の玩具を取り戻さんとありとあらゆる方法で絡み付いてきます。一瞬の隙を見逃しません。隙を見せたら最後、ぐわっと畳み掛けるように襲いかかってきます。
だったら隙を見せなきゃいいんじゃない?って事になるんだろうけれど、それはそれでリラックスできなくて疲れますよね…。では、どうするか。彼らの事は考えない、はじめから存在しないものとする、関わらない。まぁ、完全には難しいでしょうけれど…それでもやってくるハラッサーとの遭遇は事故と一緒、そう思う事にしました。
関わるだけ時間の無駄。そいつのコトを考えるだけでエネルギーの無駄。だって私はイヤなんだもの、他の好きなことに時間もエネルギーも注ぎたいんだもの、でやんわり離れてあとは側によらない、話題にも触れない。
まぁ実際は、暫し苛ついて壁殴ってますが(^^;

読んでいてチョットスッキリしない記事でしたが、思ったのはハラッサーの視界に入らないようにしとこう、と。

 

ハラッサーは 誰でも会うと 被害者に特徴はないとこちらで学びましたよ?

自分が引き込んだんですごめんなさいではハラスメントは栄えますよ。

その甘さに今だ!と踊り出てきます。

 

最初にコメした者です。

そ~ゆう人が現れて凹んでしまう時、それは自分を(まだ十分に)大事にしてないんだよ~、ってメッセージなのね、と今日気付きました。というか思い出しました!


そしたら下記サイトにたまたまたどり着き、

http://gxc.google.com/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://homepage1.nifty.com/eggs/borderline.html
(ケータイ用に変換されたURLだからうまく表示されなかったら、ごめんなさいね)

境界型の色んなタイプにそれぞれ、あ、それやったことある、うん、それ思ったことある、ってほとんど全てのタイプに自分が少なからず当てはまってて、どのタイプの説明でも、自分で自分を見捨てていると再三言われ、あ~、冒頭で思い出したあたしの気付き、合ってた☆ と思いました

 

私はいじめられっこだったので、ハラッシー/ハラッサーの構造はよくわかる気がします。私の場合は、親に「いじめられなさい」と命じられて、親の言うなりになっていただけなんですけど。(大人になってからそのからくりに気づいた)
いじめる側から見たら、私は「いじめてください」っていう顔をしてたんだろうなーと思う。もちろん「私が悪い、相手は悪くない」ってことではないのですよ。
ちなみに私は軽~中程度の過食でしたが、ジャンクなものでも何でも食べたいと思ったときに好きなだけ食べる、と決めたらそのうちあまり過食しなくなりました。不思議なことに、食べてはいけないと思うほど食べたくなるんですよね。

 

パシリがイヤでその場から抜け出したら「お前は自分から逃げた」とかね。「お前は弱いんだ、未熟なんだ」と意味不明な事を言ってみたり。自分の箱庭に玩具をとり戻すためならどこまでも付き纏うし、何でも言いますよね、ハラッサーって。
私は彼らの受け皿にはなれないし、彼らを愛で包み込む事はそれ以上に無理。だって、調子に乗って、更なる欲求をしてくるんだもの。まるで、餓鬼のように。
私の理解が足りないのか、どうも、読後感が釈然としませんでした。

 

受け皿役が社会を悪くしているのでしょうか?

パシリなのに嫌だと出ていかない
モラハラ職場や家庭を去らない
これが 間違っているようですが
そもそも人をパシリにする人は居ていいの?
モラルめちゃくちゃな人は居るものですと認めちゃうの?
そんな人が浮いて恥をかく 相手にされない社会がまともな社会かと思います。
社会を悪くするのは
人を丁寧に大事にできない心。それは圧倒的にやってる側の心です。
パシリにしないで自分で動いたらどうよ?です。
イジメやすそうでも、実際やらない、しないと決めるのが普通です。
そうでないと
嫌なら出てきゃいいだろうが、ああそうよねぇ
で 暴力成立してしまいます。
受け皿体質の脚本はよく学ばなければいけないけど
頑張ってきたあかしです。そうやって守ってきた。偉いですよね。
その癖を察知して逆手にとり上手く利用しようとするエゴ。
俺をイジメるように仕向けたお前が悪い、利用したくせに。
この主張は
どんな時もイジメに走らない利用されない自分を目指したらいいです。

 

目を向けたがらない

最近親しくなりはじめた人と昨日初めてゆっくりお話をしたら
息子さんと娘さん、二人とも精神的に不安定だといいます。
しかしご本人は「夫が精神病だったから。娘は夫そっくりなの」で片づけようとしている・・・
そして「私は私のことが大好きなの!いいところしか見えないし」とも。

自己欺瞞の匂いを感じてしまいました。
いちおう私のカウンセリング体験を簡単にお話しましたが、
自分の不安にもコンプレックスにも目を向けたがらないようなので 
そのあとは そうですか、と 聞き流してしまいました。
ものすごいブラックホールさんでした。

私自身は カウンセリングを受けてだいぶ背骨ができつつあるな~ と思っていたのですが
ブラックホール的な人とばかり知り合うので(しかもどんどん強力になっているような気がする ><;) 
大丈夫か自分?と 少々心配になっています。

 

たびたびですが

食べることについて。
私は過食や拒食もしてました。
過食嘔吐も。
そのことや自分が太っていること、食に対する時の自分が正常じゃないことを責めて苦しんでいました。
でも気持ちが整理されていくにつれ、気付いたらそういうことをしなくなっていました。
だから自然と無くなっていくから無理に止めようと思わなくていいと今では思います。
体を壊さない程度に・・・というのはありますけど。
自分が本当に食べたいものは何かなって欲するものを欲した時に食べるようになりました。
そして今は玄米、味噌汁、漬物、煮物1品程度です。
そういうものが食べたいって感じて、美味しくて仕方なくて気付いたらそうなっていました。
玄米を食べるのがいいっていうことではありません。自分が欲してるものを食べるのがいいです。
だから私は甘いものには目がないので今でもお菓子はガツガツ食べてます。
それに食べたくなる時には体が変化する時でもあります。
心が変わると体も、体が変わると心も変わります。驚くほど変わります。
その変化の為に栄養が必要なんだなって思います。
体が変化したら食べたくなくなるので。
だから全部必要なことだって思って食べたくなったら積極的に食べるくらいに私はしてたし、今でもしてます。
こちらのブログを読んでいて、でもコメントはしてなくて拒食や過食で悩んでいる人も大丈夫です。
自分の心と体を信じていいです。
自分の心と体が大きく触れ幅をとりながらもバランスをとって自分を生かそうとしてくれてます。
私が経験したことだから。

 

何をやっても中途半端な私(^^;

何をやっても中途半端な私。達成感ないし、親には責められるしで、そんな自分が嫌で嫌で。
でも、ちょっと待って。資格の勉強とか、難しい本を読破するとか、それは本当にやりたかった事なの?って自分に問いかけてみると、微妙な答えしか返ってこない。もしかしたら、脚本かもしれませんね。(何でもかんでも脚本のせいにするのもよくないですが…)中途半端な性格というレッテルを貼られた私でも、ちゃんと完結させられるものは完結しているし。ちょっとその辺を、整理して考えられるようになればなぁ…と思いました。
まぁ、それはさておき、食に関連したコメントをたくさん目にし、何てタイムリーな!と思いました。私は極端な拒食か、程々な過食に走るタイプですが…今は過食に走ってますね。年末年始のムカムカで食い道楽。昨日も輸入食材のお店で飲み物やらお菓子やら、気づけばカゴ一杯でした…(ー_ー; 反省。

 

運気コントロール

運気を下げるのが必要な時は大食
UPなら小食

 

今でも道具

小学生低学年のころに男の子たちに集団暴行をされ、当然親にも知られるところとなったのだが、その時の対処が「被害にあった娘をいたわる」ことを優先せず、「周囲に事情を聴く」ことに終始した。それ以降、私にはトラブルメーカーというレッテルとともに、心に「問題を起こすな」という人生脚本が作られた。
そのせいかどうかはわからないが、今でも仕事で困ったことが起こっても、周りに相談できないという癖と、自ら道具になる癖が染み付いている。
私の慰めになっていたのは母親の温かさではなく、物を食べることになっていき、当然太っていって自信も失った。
あの時、親がくれたものが「世間体」による事情聴取ではなく、ただ抱きしめていたわってくれたら、人の道具にならずに済んだのかなぁ。

 

最近思うに(いや、前から思うに)

組織というのはどうしてもそういう形になってしまうのではないかということ。
仲間って本当にあるのか。
友達はあるかもしれないけど。
人と繋がらなくちゃいけないのか。
苛められたらいけないのか。
バカにされたらいけないのか。
ひとりはいけないのか。
孤独って価値観じゃないか。
すべてひとりで完結してるとか。
そんなものすごく冷めた目でまわりを見てる自分がいる一方で、
バカにされりゃあムッとする自分がいます。
にんげんだもの、なんちゃって。

 

食に救いを求めるで思い出した、私個人のはなし。

子どもの頃、私に無制限に許されていたのは「たべもの」でした。話は聞いてくれないし、受け止めてももらえないし、不安もわかってはくれないけれど、「たべもの」だけは潤沢にあった。それを食べることも許されていました。
だから…、結果として当然、デブだった訳です。デブで身が重いから行動が億劫になる。億劫でも家にいたら無制限のたべものがあって、かろうじてそれで(疑似)愛情のようなものが得られる。かろうじて居場所があるように勘違いができた。

長い間、自分が食べ物や食べることに執着している理由が、なかなかわかりませんでした。痩せていたいのにどうしても食べてしまう。疲れても食べてしまう。長い間アレコレ試して、理由を探って、「それは愛情に見せかけた拘束だった」のだとわかりました。
現在は標準体重でいます。実家とは少し距離を置くようにしました。自分や、なにものかと向き合う痛い思いもたくさんしました。愛情がどういうことなのかは、家族ではない人が教えてくれました。世代間連鎖は私で終わりです。

 

役割

脚本通りの役割を、いつの間にかやろうとしてる自分がいます。
やろうとしていたり、やりかけてしまっていたり。
その度に、ハッと気付いて、首根っこを捕まえてこちらに引き戻す。そんな感じです。既にやってしまったことも…。
恐るべし、自動実行。

 

食に救いを求める

 

このままだと、(脚本に気付けてない、自律できてない)お前が悪いんだよっ と責められた気持ちで凹んだままになるので、
できれば2010/10/01の丸1丸2丸3、みたいにこうすればいいんだよ~って処方も合わせて提示いただけると問題点は分かったけどそんなこと言われても…っていう置き去り感がなくなって、安心してこのブログを読めるかな~っと

 
    
 
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