ハラッサーのでき方
前項に続いて、ハラッサーのでき方も見ておきましょう(架空の事例をストーリー的に示したものです)。
★僕を不安にさせることを禁ず--------------------------------------
幼稚園のR君。
トリムの吊橋のところで、前に行く子供に言いました。
「前の人が渡ってる途中で行っちゃダメなんだよ」
この姿を見て、ルールを守る子なんだと思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、そういうルールはありません。では、なぜR君はそう言ったのでしょう。
R君は、前の子が渡り始めたときに橋が揺れるのを見ました。自分が渡っている最中に、自分以外の力で揺れたらどうしよう、と不安になったんですね。自分が渡るときに、そういう不安を感じたくありません。だから、自らルールを作ったのです。
そして、前の子に言う振りをして、実は自分の後に続く子に言い聞かせているわけです。冒頭の言葉を翻訳してみましょう。
「前の人が渡ってる途中で行っちゃ、僕が不安になるからダメなんだよ」
そして、「僕が渡っているときは来ないでね」と後ろにいる子に暗に禁止令を敷いたのです。
★人を支配する背景にあるものは「不安」----------------------------
はい、もうこの歳でハラッサーの芽が育っていますね。このR君も、大人になった時恋人や妻や家族を自分の思いに従わせようとするハラッサーになる可能性があるということです。
自分が不安を感じないですむように、周りを自分のルールに従わせる―そういうハラッサーは沢山います。
たとえば、時刻どおりに生きている人は、生活パターンが時刻からずれるだけで不安になるため、烈火のごとく怒ったりしながら、なんとしてでもそのパターンを守ろうとします。
・時刻依存症―定点で自己確認しながら生きる人々
・昭和一桁世代への鎮魂歌(2)-時間のモノサシ化
ルールで自分や他人を縛ることも、自分が不安を見たくないためなんですね。
・規律依存症―自律(内骨格)できずに規律(外骨格)で自他を縛る人々
つまり、人を支配する背景にあるものは「不安」だということです。
不安から逃げようとする人々が、つまり私たち自身が、このルールだらけで窮屈なハラスメント社会を作っているのです。
★不安を認めたらゲームをする必要はない----------------------------
もし、R君が揺れた吊橋を見て、「怖い」ということができたら、「前の人が渡ってる途中で行っちゃダメなんだよ」ということは言わなくてすんだのです。
なぜなら、すでに自分が不安であることを認めていますからね。もう「不安を見た」ので、「不安を見たくない」ための布石を打つ必要がないわけです。
次に来る言葉は、「僕怖いから、僕が渡っている間は渡って来ないでね」と、後ろにいる子どもにお願いするだけです。「うん、わかった」となればそれで終わり。ただ、それだけのこと。
けれど、「怖い」と言えない場合、不安を見たくないためにあらゆる仕掛けをするようになります。そのために脳みそは働き続け、ありとあらゆる理屈を用意し、さまざまなゲームを仕掛けるようになります。
そして、ツーカーで終わることに何週間も、何ヶ月も、何年も、時には一生かけることになります。そういう人生とは、一体なんなのでしょうか。
★不安の根っ子は親子関係の中にある---------------------------------
もう一つの観点からR君の背景を見てみる必要があります。
それは、橋が揺れるのを見て不安が出てきた―つまり、「橋が揺れるのを見た」ことは、不安が出てくるきっかけに過ぎないということです。
R君は、足が地に着かないような、宙ぶらりんで不安定で居場所がないような、そういう不安の中で日々を過ごしていました。子どもが不安感情を持つのは親が安全基地ではないからなので、親にその気持ちをいえないままに、自分でも無意識に封印したままに過ごしていますが、その不安感情は出所を常に狙っています。
そして、まさしく自分が感じている不安感情にピッタリのシチュエーションが来たときに、ここぞとばかりに出てくるのです。その時に感じた不安を自分が認めて、「怖い」と口にすることができれば、その不安は去ってくれます。が、表現できなければ、不安はますます強まっていくことになるわけです。
★怖いものは「怖い」と言うことで強くなれる-------------------------
意図的に(?)不安が振りまかれているこの社会。
まぁ、政策的にせよCMにせよ駅や街中のエンドレスアナウンスにせよ、社会の隅々にまで不安がまき散らかされています。
まぁ、不安の大安売り(大量販売)。
そして、私たちは不安の大量消費者というわけです。
実際、不安から逃れるための商品が大量に生み出され買わされています。
踊らされていることが、こうも明々白々だと、何だか馬鹿馬鹿しいですね。
(もう踊らされるのをやめにしませんか?)
まぁしかし、このような社会状況ですから、
不安じゃない人なんていません。
だから、
恐怖や不安を感じることは恥でもなんでもなく、当たり前のことなのです。
親自ら堂々と、不安を感じたら「あぁー不安だ」「あ~怖い」と言いましょう。言ってしまえばケロッとします。そして、ケロッとしていればいいんです。
その姿を見て子供は学びます。あぁ、「怖いものは怖い」―そう思っていいし、言っていいんだ、と。
すると、あるときR君が言ってくれるでしょう。
「おかあさん、僕はおかあさんがコワかったんだよ」と。
その言葉を聴くことができたら、私は言いましょう。
「おめでとう。母子共に解放されましたね」と―。
【Aqua Timez「決意の朝に」】