2-子どもの絵に表れた閉塞状況と自由への希求

★5,絵に表れた自由への欲求------------------------------------------
山の下にあるのは、何かが線でつながっている小さな四角い車庫と
その左側に大きな5鉢の植木。
その左側になにやら月を横にしたような印象的なモノがあって、
その左側にあるのが家だとのこと。
車庫や家に比べて鉢植えのとても大きいこと。
鉢植えにとても大きな意味があることがわかる。
(子どもの絵って心がそのまま表れているから楽しい♪ それを構図がおかしいとか大きさが変とか親は言うなかれ。その構図にも大きさにも全て意味があるのです。親の心を映しだす貴重な貴重な澄んだ鏡を歪めることになりますよ。ほんっと、技術なんてどうでもいいんだよ!って気になります。大人になっても、絵は思いのままに描きましょう!)
さて、鉢植えは玄関の外に沢山あったけれど書かれているのは5つ。
花は家とは逆、右上の方に向いているように見える。
5という数は、お母さんとお兄ちゃんと自分と犬2匹を現しているかもしれないね。本当は、みんな窮屈な家から外に出たいのかも。でも、鉢の中に足止めされているね・・。
また、鉢植えは、室内にも沢山の観葉植物を置いているAさんを表しているのかもしれない。つまり、山がお父さん。鉢植えがお母さんだね。
お母さんは社会に出たい(右上に向かいたい)のだが、お父さんが見事に通せんぼしているね。あるいは、山はただそこにあるだけなのに、そこにあることを理由にして、自ら鉢の中に足を突っ込んでいるのはお母さんかもしれない。
子どもは自分にとって大事なものを描き込む。
駐車場の右上に置いてあるのは自転車。
そうだね、そこにお母さんと二人で乗る自転車があったね。
この自転車が、山の端より外に描かれている。
つまり、衝立に邪魔されずにどこへでも行ける自由の象徴だ。
駐車場の中に車は描かれていなくて、車はBちゃんにとってありがたくはないもの(むしろ無くていいもの)、一方の自転車はとても大切なものであることがわかる。
★6,巨大な玄関が意味していること-----------------------------------
さて、「月」を横にしたような太い線で強く濃く描かれてあるもの
―これは一体何かと思いきや・・・な~んと、玄関。
「ドアが重くて、内側からは体重をかけて押し開けることができるんですけど、外からはのけぞって引っ張っても開かないんです」とAさんが説明してくれたが・・・な~るほど、そりゃ「関所」だ。
これが外界と自分を遮断するにっくき敵なわけね。
巨大な山門の向こうには、さらに山があるわけで、こりゃ、人里に行くには大変な苦労を要する。
Bちゃんにとってみれば、この巨大な山門は、自分を閉じ込める“天岩戸”というわけだ。
★7,「子宮としての家」の特徴----------------------------------------
玄関は立派だが家の中はとても貧弱(Bちゃんの心理的現実です)。
描き込んであるのは、左端の自分たちが寝る寝室とその下の兄の部屋。
これはBちゃんの話を聴いていてもわかることだが、
この2ヶ所以外に自分の居場所がないことを示している。
天岩戸に閉じ込められ、しかも、その空間の中に自分の居場所がない。
「子宮としての家」に行くとよくわかることだが、「境界」というものがない。わざわざ境界を設けない設計をしている家まであるが、建売で通例の間取りであったとしても、部屋の使い方にメリハリを持たせていない。漠然とした空間がそこにある。
(風水に凝って建てている家もあったが、存在不安の上に乗っかっているので、風水は結局アリバイにしか使われていない。いずれにせよ、家というものは「心」がそのまま表れている)
ここが自分の場というコーナーさえないので、子どもはうろうろと居所なく彷徨うことになる。これは、「自我を形成するな」という親からのメッセージであり、子どもはその通りに自我を形成できなくなっていく。
誰からのメッセージか?
一つはもちろん父親から。赤ちゃんである父親にとって、子宮は自分だけの居場所であるから、他の赤ちゃん(自我)はいらない。
そしてもう一つは母親からである。Aさんもまた存在不安が強いので、夫や息子の部屋の本棚にも自分の本が半分くらいあったり、自分が使うミシンなどの傍にBちゃんの玩具が置いてあったりする。
★8,「偏在」と「遍在」---------------------------------------------
さて、ここの事例でも存在不安を持つ男女の不安の埋め方の違いが表れている。
主張する赤ちゃん(夫)の居場所は居間や自室など特定しやすい。
気持ちを殺して生きている妻の居場所は台所以外には一見ないように見える。が、いろいろな所に妻の存在を示すモノがあり、家全体に散っている。
この事例に限らず、一般に次のように言えることが多い。
夫は、「偏在」する。(特定の場所に在る)
妻は、「遍在」する。(あまねくどこにでも在る)
“あまねくどこにでも在る”ものと言えば・・・そう、「神」。
妻のことを「山の神」とはよく言ったもので、そういう観点から見ても「神さん」なんですね。
まぁ、どんなに男が暴れたとしても所詮はお釈迦様の手のひらの孫悟空、
あるいは胎盤の中の赤ちゃんなわけで、
人が神にかなうはずもなく、
赤ちゃんが鬼にかなうはずもなく。
夫は「図」として見えやすいけれど、
そのように際立たせているのは妻(地)であるわけで。
「図」をどのように見せるかは、
「地」が決めているのです。
【塔の上のラプンツェル~「自由への扉」】
・子育て心理学:第5部 7)「家族自我像」を描いてみよう