「ニッポンの嘘」を撮り続けた阿修羅―福島菊次郎
2012/08/24(Fri) Category : 人物
★国民に「死ね」と言う洗脳国家----------------------------------
「軍国青年だった」という福島さん。
小学生のとき、中国人50人は殺さないと、と思っていたそうだ。
小学生が、そう思っているのだ。
教育とは、社会風潮とは怖い。
広島で招集された時、軍装はおろか靴の支給さえもなくサンダル。
着の身着のままの青年に国がさせたものは、爆雷を抱えて戦車に飛び込む自爆訓練だった。
なんと情けないことか。
国が市井に暮らす人々に爆弾を持たせて、「殺せ!」と言い、「死ね!」と言っている。
★「生きる」ことは恥--------------------------------------------
米軍上陸に備え、貨物列車で宮崎の海岸に送られて6日後。
広島に原爆が投下された。
原隊は全滅。
生き残った自分を恥じたという。
『命は天皇陛下からいただいたものだから、天皇陛下にお返ししなければいけないという固定観念があった。戦争で死ぬことと、敵を殺すしか考えなかった』というから、自分の命を使って天皇に何のお返しもできないまま敗戦してしまったことを恥じたのだろう。
地球に生かされていることに気づかず、資源収奪のために
殺し合いまでする愚かさこそが、人類の恥だというのに。
★雑草にもらった「生きてよい」許可------------------------------
1年後、草木も生えないといわれた広島―その原爆ドームに草が生えたという記事を見た青年菊次郎は広島に飛ぶ。

壊滅した大地に芽生えた命。それをたたえる新聞。
壊滅した部隊に生き残った自分―
彼は1本の草に自分の姿を重ねたのかもしれない。
福島さんは、人類が破壊した自然から、
「生きてよい」という許しをもらったんだと思う。
人の社会が与えた「死ね」という狂ったベクトルは、
自然界が与えた「生きろ」という宇宙のベクトルに変わった
★戦後もモルモットにされた罪なき人々----------------------------
ABCC(原爆障害調査委員会)―以下、映画のパンフより―
被爆者から多量の採血をした上、何枚もレントゲン写真を撮って、放射能を浴びせかけるという追跡調査だった。
検査は強制的で、拒否するとピストルを持ったMPが連行した。
ABCCは調査対象の被爆者が死亡すると葬儀の最中に現れた。
執拗に遺体の提供を求め、悲しみに暮れる遺族の感情を逆なでした。
ABCCは1948年から2年間だけで5千人をこえる人体解剖を実施した。
*ABCCは被爆者の治療には一切あたることはなく、米軍の核開発の資料とするのが目的。その実態について下記に書かれています。現在は、「放射線影響研究所」と名を変えて被爆者の追跡調査を行っています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#04
★真実を“恥部”として隠す「嘘っぱち」---------------------------
人をとことん道具にし尽くしていく「戦争」に対する深い怒り・・・
福島青年は、自分同様に残された人々を撮り始めた。
原爆スラムで暮らす人々
何の罪もない。原爆で家族を失ったただの一方的な被害者。
戦争を始めた国が責任を持って救わなければならない犠牲者の方々。
その国が何の責任も取らずに見捨てたとき、原爆スラムは「広島の恥部」と呼ばれた。
何が、恥部だ?
その人々を幸せにすることが、国への信頼と希望を紡ぐことだろう。
その嘘は、今現在、福島原発事故で繰り返されている。
あの事故は、日本が戦争から何も学んでいなかったことをさらけ出した
事実を直視しなければ、
気持ちを拾い上げることをしなければ、
そうやって思い知らなければ、
人は永遠に同じ事を繰り返していく
★加害者として向き合った戦争犠牲者-----------------------------
そのスラムで、中村杉松さんと出逢う。
撮ろうと構えたが、振り向いたその顔を見たとき、撮ることができなかった。そして、2,3年が過ぎたとき―
「ピカにあってこのざまだ。このままでは死んでも死にきれない。仇を取ってくれ!!」と、涙ながらに中村さんに頼まれ、撮り始める。
『仲の良かった同級生は上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをしただろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから』―その戦争犠牲者が目の前にいた。
目を背けずに向き合った10年―濃密な関わりである。
福島さんもまた心を病み、精神病院に入院し、その後、妻と別れた。

★「撮る」鬼となる決意の後ろにあるもの--------------------------
写真集が出て7年後、杉松さんは亡くなった。
弔いに行ったその日、「何しに来た!!」―息子に怒鳴られた。
頭が真っ白になったことだろう。
本人に頼まれたこととは言え、彼の周りには家族がいる。
福島さんは、ドキュメンタリー写真家を続けるかやめるか―
その瀬戸際に立たされたことだろう
しかし、彼の後ろにはスラムにいた罪なきチャイルド達がいる
やるしかなかっただろう
そして、やるならば、鬼となるしかなかっただろう
「撮ってくれ!!」と涙ながらに頼んだ杉松さん。
「何しに来た!!」と怒鳴って追い返した息子さん。
この2人が、福島さんの背骨に強靱な不退転のバネを与えたのだと思う。
★地球の主権者は、社会システムではなく「命」--------------------
福島さんは「現場」に向き合い続けた。
戦争孤児に「報恩感謝」「無我献身」を教え続ける「希望の家」
三里塚の老人からは、「俺たちは主権者なんだ」という言葉の重みを知った
その三里塚での機動隊と竹やりデモ隊の内戦
そのさなか、旗印の放送塔から突然流れた「ふるさと」
怒号が一瞬途絶え、嗚咽に変わり、「ふるさと」の大合唱になり、
その歌声を切り裂くように倒されていく放送塔
―そう、まるであの「アバター」で倒された巨木のように
★我が子からもらった「続けてよい」許可-------------------------
そして彼は、自衛隊シンパを装って広報写真家として潜入する
信頼を得たからこそ撮ることのできた現場
しかし、発表後、暴漢に襲われ尾骨と前歯を折られ、顔を十針。
家は焼かれた。
自分の母親からも嘆かれ、妻には去られ、さらに、もしこのとき我が子を失っていたら・・・このときも福島さんは、その強靱な背骨を折られる寸前だったと思う。
けれど、子ども達は生きていた。
しかも、高校生の娘がネガだけは運び出していた。
煤けたそのネガは日大芸術学部の学生が手分けして洗ってくれたそうだ。新聞報道でカンパも集まり、カメラを買うこともできた。
すべてを失って残った我が子とネガと人の心。
焼け跡の草が「生きろ」と言ってくれたように
焼け跡の我が子が「続けろ」と言ってくれた
その娘さんが、「お父さんはカッコイイ」と言っていた。
「娘には頭が上がらない」と言う―その娘さんが守り神だね。

★天皇と対決した個人--------------------------------------------
しかし、彼の舞台である『メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われなくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った』
“僕も一緒に腐ると思った”―この気持ちよくわかる。
これを実感したからこそ、私も会社を辞めたのだ。
62歳。彼は、瀬戸内の無人島にこもって自給自足を始めた。
翌年、紗英子さんが同居し始める。
66歳。胃がんの宣告。国への怒りは、彼の体をも蝕んでいた。
67歳。手術後に天皇の下血報道を聞く。
『このままトンズラされてたまるか』―自分なりの決着をつけたいという思いが、写真パネルの自費制作に向かわせた。
「天皇の戦争責任展」―かつての軍国青年は各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。が、報道により全国から申し込みが殺到した。
無言電話や脅迫電話、「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」という罵声の中、彼は苦しまずに死ねるように青酸カリを忍ばせて巡回した。
★心身の最終決戦を支えた女性-------------------------------------
巡回が終わったとき、生活は底をついた。
紗英子さんが、国民の権利だから生活保護を受けることを勧めたとき、
『この国を攻撃しながら、この国から保護を受けることができると本気で思っているのか』と、紗英子さんを追い出した。
けれど、“国”というのは、私たちが助け合い、生活を守るために税金を出し合って成立している。私たちは、その税金を社会が助け合いに向かうように使われることを望んでいる。
その私たちの代表者が政治家であり、私たちのお金の使い方を決めるのが国会である。もし代表者達が武器にお金を使い、生活を守ることに使わなくなったなら、私たちは間違いを正さなければならない。
さらには生存権を守る“闘い”をする必要さえ出てくるだろう。
堂々と生活保護を受ければよかったのだと私は思う。
紗英子さんはその後も福島さんの近くで生活を続け、数年後に亡くなった。
自給自足という生活との闘いの中で、
癌・・自分との闘いの最終決戦。
天皇の責任を問う・・国との闘いの最終決戦。
この二つの巨大な闘いを戦い抜くことができたのは、
紗英子さんという存在があったればこそだろう。
さらに、娘さんの存在。
あのパネルを作っていた頃は、今思えば楽しかった・・そう言う娘さんに救われた。
★311「第二の敗戦」に再び立ち上がった阿修羅---------------------
311のテレビ報道を食い入るように見つめる福島さんの姿。
密着取材してきたドキュメンタリーならではの映像だった。
無念の思いがあったのではないだろうか。
原爆による敗戦に続く、原発による第二の敗戦
原爆被害を訴え、祝島も見続けてきたのに―
検問の警察官と穏やかに話す福島さんが、「ごめんなさいね。僕撮るのが仕事だから」と言った次の瞬間がすごかった。
目つきが変わり、迷いなく切り取ったように動いた。
穏やかに輪を描く鷲が、獲物を見つけて直角に急襲するかのように―
鬼の背景には、もう二度と道具にされる人間を見たくないという
深い悲しみがあるのではないだろうか
ふと、阿修羅を思い出す。
あの哀しみをたたえた三面六手の闘神―
加害者、被害者、観察者の顔を持ち、
見なくても手をくねらせて自在に被写体を隠し撮りする手を持つ・・・
最後のシーンには、
万感の思いがこめられていた
それを一言で表した言葉だったのだろう
「ごめんな・・・」
★今も破壊され続けている---------------------------------------
心を殺さなければ、人は殺せない。
国家的に心を殺した戦争―その影響は、深刻さを増している。
世代間連鎖を通じて心は破壊され続け、自分の心とつながれない人が増えている。
今生きている日本人の中では第1世代に当たる福島さん。
苦しく辛い戦争を振り返り、自分の心と向き合う人は多くはないだろう。
心を殺し、殺し合いをした第1世代(90-70)。
心を亡し、ビジネス戦争に邁進した第2世代(60-40)。
戦後は、自分の内側から逃げ続ける人々が作り上げた社会でもある。
その社会の現実を福島さんは撮り続けた。
だから、その「現実」は「嘘」でしかなかった。
カメラが写した真実は、「虚」であった。
25万枚の写真は、現実が虚構であったことを暴いている。
辛いけれど、私たちはそのことを直視しなければならない。
思い知らなければ、心を取り戻すことができない。
★「ありがとう」------------------------------------------------
福島菊次郎さんの写真展を食い入るように見つめる来場者の姿が印象に残った。
福島さんの懸命の写真は、多くの人を勇気づけている。
福島さんもまた、多くの人に支えられている。
「ありがとう」と言い合う関係が、既にそこにある。
あなたは、あなたの周りに、
こんなにも「ありがとう」の世界を創り上げた
あなたの生きる姿勢を紡いでいく人もいる
そして、
愛犬ロクが凜として見守っている
思い残すことなく、語り尽くしてほしい
今、書かれている本が世に出るのを待っています
・「ニッポンの嘘」公式サイト

・『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎
・福島菊次郎(86歳) 伝説の報道写真家の生き様
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (1) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (2) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (3) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (4) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (5) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (6) 】
【参考】福島菊次郎氏と同世代の反骨、反戦の人→水木しげる氏
・「総員玉砕せよ!」―国から「死ね」と言われた若者から、親に「死ね」と言う若者へ
「軍国青年だった」という福島さん。
小学生のとき、中国人50人は殺さないと、と思っていたそうだ。
小学生が、そう思っているのだ。
教育とは、社会風潮とは怖い。
広島で招集された時、軍装はおろか靴の支給さえもなくサンダル。
着の身着のままの青年に国がさせたものは、爆雷を抱えて戦車に飛び込む自爆訓練だった。
なんと情けないことか。
国が市井に暮らす人々に爆弾を持たせて、「殺せ!」と言い、「死ね!」と言っている。
★「生きる」ことは恥--------------------------------------------
米軍上陸に備え、貨物列車で宮崎の海岸に送られて6日後。
広島に原爆が投下された。
原隊は全滅。
生き残った自分を恥じたという。
『命は天皇陛下からいただいたものだから、天皇陛下にお返ししなければいけないという固定観念があった。戦争で死ぬことと、敵を殺すしか考えなかった』というから、自分の命を使って天皇に何のお返しもできないまま敗戦してしまったことを恥じたのだろう。
地球に生かされていることに気づかず、資源収奪のために
殺し合いまでする愚かさこそが、人類の恥だというのに。
★雑草にもらった「生きてよい」許可------------------------------
1年後、草木も生えないといわれた広島―その原爆ドームに草が生えたという記事を見た青年菊次郎は広島に飛ぶ。

壊滅した大地に芽生えた命。それをたたえる新聞。
壊滅した部隊に生き残った自分―
彼は1本の草に自分の姿を重ねたのかもしれない。
福島さんは、人類が破壊した自然から、
「生きてよい」という許しをもらったんだと思う。
人の社会が与えた「死ね」という狂ったベクトルは、
自然界が与えた「生きろ」という宇宙のベクトルに変わった
★戦後もモルモットにされた罪なき人々----------------------------
ABCC(原爆障害調査委員会)―以下、映画のパンフより―
被爆者から多量の採血をした上、何枚もレントゲン写真を撮って、放射能を浴びせかけるという追跡調査だった。
検査は強制的で、拒否するとピストルを持ったMPが連行した。
ABCCは調査対象の被爆者が死亡すると葬儀の最中に現れた。
執拗に遺体の提供を求め、悲しみに暮れる遺族の感情を逆なでした。
ABCCは1948年から2年間だけで5千人をこえる人体解剖を実施した。
*ABCCは被爆者の治療には一切あたることはなく、米軍の核開発の資料とするのが目的。その実態について下記に書かれています。現在は、「放射線影響研究所」と名を変えて被爆者の追跡調査を行っています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#04
★真実を“恥部”として隠す「嘘っぱち」---------------------------
人をとことん道具にし尽くしていく「戦争」に対する深い怒り・・・
福島青年は、自分同様に残された人々を撮り始めた。
原爆スラムで暮らす人々
何の罪もない。原爆で家族を失ったただの一方的な被害者。
戦争を始めた国が責任を持って救わなければならない犠牲者の方々。
その国が何の責任も取らずに見捨てたとき、原爆スラムは「広島の恥部」と呼ばれた。
何が、恥部だ?
その人々を幸せにすることが、国への信頼と希望を紡ぐことだろう。
その嘘は、今現在、福島原発事故で繰り返されている。
あの事故は、日本が戦争から何も学んでいなかったことをさらけ出した
事実を直視しなければ、
気持ちを拾い上げることをしなければ、
そうやって思い知らなければ、
人は永遠に同じ事を繰り返していく
★加害者として向き合った戦争犠牲者-----------------------------
そのスラムで、中村杉松さんと出逢う。
撮ろうと構えたが、振り向いたその顔を見たとき、撮ることができなかった。そして、2,3年が過ぎたとき―
「ピカにあってこのざまだ。このままでは死んでも死にきれない。仇を取ってくれ!!」と、涙ながらに中村さんに頼まれ、撮り始める。
『仲の良かった同級生は上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをしただろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから』―その戦争犠牲者が目の前にいた。
目を背けずに向き合った10年―濃密な関わりである。
福島さんもまた心を病み、精神病院に入院し、その後、妻と別れた。

★「撮る」鬼となる決意の後ろにあるもの--------------------------
写真集が出て7年後、杉松さんは亡くなった。
弔いに行ったその日、「何しに来た!!」―息子に怒鳴られた。
頭が真っ白になったことだろう。
本人に頼まれたこととは言え、彼の周りには家族がいる。
福島さんは、ドキュメンタリー写真家を続けるかやめるか―
その瀬戸際に立たされたことだろう
しかし、彼の後ろにはスラムにいた罪なきチャイルド達がいる
やるしかなかっただろう
そして、やるならば、鬼となるしかなかっただろう
「撮ってくれ!!」と涙ながらに頼んだ杉松さん。
「何しに来た!!」と怒鳴って追い返した息子さん。
この2人が、福島さんの背骨に強靱な不退転のバネを与えたのだと思う。
★地球の主権者は、社会システムではなく「命」--------------------
福島さんは「現場」に向き合い続けた。
戦争孤児に「報恩感謝」「無我献身」を教え続ける「希望の家」
三里塚の老人からは、「俺たちは主権者なんだ」という言葉の重みを知った
その三里塚での機動隊と竹やりデモ隊の内戦
そのさなか、旗印の放送塔から突然流れた「ふるさと」
怒号が一瞬途絶え、嗚咽に変わり、「ふるさと」の大合唱になり、
その歌声を切り裂くように倒されていく放送塔
―そう、まるであの「アバター」で倒された巨木のように
★我が子からもらった「続けてよい」許可-------------------------
そして彼は、自衛隊シンパを装って広報写真家として潜入する
信頼を得たからこそ撮ることのできた現場
しかし、発表後、暴漢に襲われ尾骨と前歯を折られ、顔を十針。
家は焼かれた。
自分の母親からも嘆かれ、妻には去られ、さらに、もしこのとき我が子を失っていたら・・・このときも福島さんは、その強靱な背骨を折られる寸前だったと思う。
けれど、子ども達は生きていた。
しかも、高校生の娘がネガだけは運び出していた。
煤けたそのネガは日大芸術学部の学生が手分けして洗ってくれたそうだ。新聞報道でカンパも集まり、カメラを買うこともできた。
すべてを失って残った我が子とネガと人の心。
焼け跡の草が「生きろ」と言ってくれたように
焼け跡の我が子が「続けろ」と言ってくれた
その娘さんが、「お父さんはカッコイイ」と言っていた。
「娘には頭が上がらない」と言う―その娘さんが守り神だね。

★天皇と対決した個人--------------------------------------------
しかし、彼の舞台である『メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われなくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った』
“僕も一緒に腐ると思った”―この気持ちよくわかる。
これを実感したからこそ、私も会社を辞めたのだ。
62歳。彼は、瀬戸内の無人島にこもって自給自足を始めた。
翌年、紗英子さんが同居し始める。
66歳。胃がんの宣告。国への怒りは、彼の体をも蝕んでいた。
67歳。手術後に天皇の下血報道を聞く。
『このままトンズラされてたまるか』―自分なりの決着をつけたいという思いが、写真パネルの自費制作に向かわせた。
「天皇の戦争責任展」―かつての軍国青年は各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。が、報道により全国から申し込みが殺到した。
無言電話や脅迫電話、「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」という罵声の中、彼は苦しまずに死ねるように青酸カリを忍ばせて巡回した。
★心身の最終決戦を支えた女性-------------------------------------
巡回が終わったとき、生活は底をついた。
紗英子さんが、国民の権利だから生活保護を受けることを勧めたとき、
『この国を攻撃しながら、この国から保護を受けることができると本気で思っているのか』と、紗英子さんを追い出した。
けれど、“国”というのは、私たちが助け合い、生活を守るために税金を出し合って成立している。私たちは、その税金を社会が助け合いに向かうように使われることを望んでいる。
その私たちの代表者が政治家であり、私たちのお金の使い方を決めるのが国会である。もし代表者達が武器にお金を使い、生活を守ることに使わなくなったなら、私たちは間違いを正さなければならない。
さらには生存権を守る“闘い”をする必要さえ出てくるだろう。
堂々と生活保護を受ければよかったのだと私は思う。
紗英子さんはその後も福島さんの近くで生活を続け、数年後に亡くなった。
自給自足という生活との闘いの中で、
癌・・自分との闘いの最終決戦。
天皇の責任を問う・・国との闘いの最終決戦。
この二つの巨大な闘いを戦い抜くことができたのは、
紗英子さんという存在があったればこそだろう。
さらに、娘さんの存在。
あのパネルを作っていた頃は、今思えば楽しかった・・そう言う娘さんに救われた。
★311「第二の敗戦」に再び立ち上がった阿修羅---------------------
311のテレビ報道を食い入るように見つめる福島さんの姿。
密着取材してきたドキュメンタリーならではの映像だった。
無念の思いがあったのではないだろうか。
原爆による敗戦に続く、原発による第二の敗戦
原爆被害を訴え、祝島も見続けてきたのに―
検問の警察官と穏やかに話す福島さんが、「ごめんなさいね。僕撮るのが仕事だから」と言った次の瞬間がすごかった。
目つきが変わり、迷いなく切り取ったように動いた。
穏やかに輪を描く鷲が、獲物を見つけて直角に急襲するかのように―
鬼の背景には、もう二度と道具にされる人間を見たくないという
深い悲しみがあるのではないだろうか
ふと、阿修羅を思い出す。
あの哀しみをたたえた三面六手の闘神―
加害者、被害者、観察者の顔を持ち、
見なくても手をくねらせて自在に被写体を隠し撮りする手を持つ・・・
最後のシーンには、
万感の思いがこめられていた
それを一言で表した言葉だったのだろう
「ごめんな・・・」
★今も破壊され続けている---------------------------------------
心を殺さなければ、人は殺せない。
国家的に心を殺した戦争―その影響は、深刻さを増している。
世代間連鎖を通じて心は破壊され続け、自分の心とつながれない人が増えている。
今生きている日本人の中では第1世代に当たる福島さん。
苦しく辛い戦争を振り返り、自分の心と向き合う人は多くはないだろう。
心を殺し、殺し合いをした第1世代(90-70)。
心を亡し、ビジネス戦争に邁進した第2世代(60-40)。
戦後は、自分の内側から逃げ続ける人々が作り上げた社会でもある。
その社会の現実を福島さんは撮り続けた。
だから、その「現実」は「嘘」でしかなかった。
カメラが写した真実は、「虚」であった。
25万枚の写真は、現実が虚構であったことを暴いている。
辛いけれど、私たちはそのことを直視しなければならない。
思い知らなければ、心を取り戻すことができない。
★「ありがとう」------------------------------------------------
福島菊次郎さんの写真展を食い入るように見つめる来場者の姿が印象に残った。
福島さんの懸命の写真は、多くの人を勇気づけている。
福島さんもまた、多くの人に支えられている。
「ありがとう」と言い合う関係が、既にそこにある。
あなたは、あなたの周りに、
こんなにも「ありがとう」の世界を創り上げた
あなたの生きる姿勢を紡いでいく人もいる
そして、
愛犬ロクが凜として見守っている
思い残すことなく、語り尽くしてほしい
今、書かれている本が世に出るのを待っています
・「ニッポンの嘘」公式サイト

・『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎
・福島菊次郎(86歳) 伝説の報道写真家の生き様
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (1) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (2) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (3) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (4) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (5) 】
【抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言"~ (6) 】
【参考】福島菊次郎氏と同世代の反骨、反戦の人→水木しげる氏
・「総員玉砕せよ!」―国から「死ね」と言われた若者から、親に「死ね」と言う若者へ