相田みつをと母の“業”
そこには、初めて知った実像があった。
― 挽歌『業』 ― という詩があった
長男次男
戦に出して
死なせたる
母の一生も
業ふかかりき
そうかぁ・・・
だからかぁ・・・と、改めて言葉の紡がれた背景を見た気がした。
早速、唯一の自伝エッセイ「いちずに一本道 いちずに一ツ事

★不仲の両親、心の支えはあんちゃん-------------------------------------------
両親は不仲。けんかが絶えず、晩年は別居。
『親たちにいがみ合いがあって、緊張感がある』ため、『「ただいま」と帰ってこられない家庭でした』と言う。
お金がなく、毎日のように紙芝居を盗み見ていたある日、紙芝居屋さんに小3か4の兄が捕まり殴られる。すばしこいはずの兄(次男幸夫)が、3つ4つの自分がいるために逃げられず、捕まった。
泣くと弟も泣き出すから、弟の目を見て歯を食いしばる兄。
泣かない兄を「この強情な奴」と、さらに殴り続けるおじさん。
我慢している兄の目を見て泣くのをこらえるみつを。
そして、『その後も、ワーンと泣いては家に帰れないんです。そういう家庭でした』
原っぱいっぱいに咲いていた曼珠沙華は、兄が悔しさに任せて全部棒きれで叩き折った花として、みつをの記憶に残る。
野原一面を真っ赤に染めた曼珠沙華は、兄の血の涙の色だったろうか。

そのあんちゃんは、小学校を出ると刺繍職人となり、そのお金でみつをを中学に行かせてくれた。そのあんちゃんが、兵隊に行く前に遺言として残した言葉。
『無抵抗なものを絶対に殴るなよ』
『足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見てろ』
『貧しても鈍しないでくれ』
幸夫は、憲兵となり思想犯の調査もした。その兄からこっそり届いた手紙―『この戦争は間違っていたよ』『これは日本の侵略戦争だ』
幸夫が見た戦争の現実は、無抵抗な子どもを殴る紙芝居屋にダブったのかもしれません。
あんちゃんの死に水を取った戦友によれば、あんちゃんは最後の最後に次のように言ったそうです。
『戦争というものは
人間の作る最大の罪悪だなあ・・・・・』
★もう一人のあんちゃん-------------------------------------------------------
もう一人のあんちゃん(長男武雄)は、新聞社の模擬テストで1番を取った秀才だった。が、貧しい故に中学に行けないため、卒業生総代になるはずが寂しくて卒業式に出ず。
金ぴかの中学校の服を着た友人が免状を持ってきてくれ、「友達が来たから出なよ」と事も無げに言う母親。
そのとき武雄は、炭俵の中に顔を突っ込んで、泣きながら堅炭を頭突きでキーンキーンと割っていた。一日中鳴らしていたそのかわいそうな後ろ姿を見たみつをに、『どんな我慢でもしなきゃならんな』という思いが焼き付いた。
そのあんちゃんが、兵隊に行く時に残した言葉。
『世間の見てくれとか、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ』
だからみつをは、迷ったときは二人のあんちゃんの墓石に相談した。
「三人分」で生きてきた。
★反骨---------------------------------------------------------------------
みつを少年の中学時代の教官とのエピソードは切迫する。
“好き嫌い”が“生きる死ぬ”に関わってくるのだから。
この教官は嫌いだ、というみつをの心は『以心伝心』相手に伝わり、
いつしか1対1の対決の場が訪れる。
それぞれが軍刀と短剣に手をかけ、一触即発だった。
ほんのわずか何かが違っていたら、どちらかが殺人者になっていただろう。
日常の中で、心を殺し合う。
これが、戦争という時代なんだとつくづく思う。
★狂乱した母----------------------------------------------------------------
幸夫戦死の公報が届いた後、生活は一変する。
母が『この世のものとは思えない声で泣き叫』んだ。
『それは寒月に吠える狼の遠吠えのようで、聞くに耐えない悲痛なものでした。そのときの私は、兄の死んだことよりも、泣き叫ぶ母の姿を見るほうが恐ろしくて不安でした』
言い換えると、母親のむき出しの不安をみつをは浴びせられたということだ。常軌を逸したその凄まじさがわかる気がする。存在不安の強い人間は“何か”にしがみつく。その“何か”に執着することによって内なる不安から逃げ続けようとする。だから、しがみついていたその“何か”が失われるときは、不安の奈落に突き落とされることになる・・・。
その母も、『即死で良かったね。苦しまずに済んだものね・・・・』と、自分に言い聞かせるように祭壇に語りかけるようになり、ようやく落ち着き始めた頃、兄の戦友から手紙が届く。
そして、即死ではなく苦しんで死んだことがわかったとき、『それからの母の様子については、拙い私の筆では到底書くことはできません』
―封印している不安は、きっかけがあれば出てこようとする。その不安から逃げようとすればするほど、“不安感情”は出るきっかけをつかもうとする。息子が苦しんで死んだことがわかったとき、母エイの内なる不安は爆発したことだろう―。
その後、もう一人の兄までも戦死する。
母親の狂乱はいかばかりであったろうか。不安と向き合えず、狂うことに逃げ込んだだろう。
長男跡取り、次男はスペア、後は野となれ山となれ―だった当時・・・
死ぬ間際、兄二人の名しか呼ばなかった母。
一方、兄二人の名を決して口にしなかった父。
結局、父も母も兄二人に囚われている。
そこに、みつをの存在は
あっただろうか・・・

ひぐらしの声は、「悲しい、寂しい」と密かに泣いている「みつを君」の泣き声ではなかっただろうか・・・・
★武井哲応老師-------------------------------------------------------------
19歳頃、初めて歌会に参加する。10名足らずの中年男性が、皆黄土色の国民服を着て集まる中、和服姿の坊さんがいた。持ち寄った歌を互いに評価し合うのだが、初参加のみつをの歌はその坊さんが評することに―
『あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな―』
『この歌なあ、下の句、いらんなあ―』
―これが、みつをと老師の出逢いだった。
その後、問題にぶつかる度に、みつをはこの言葉をつぶやく。
すると、「今ここ」を生きている自分にとって、何が一番大切かがわかるようになったそうだ。
それにしても・・・自分の歌の評を武井老師がすることがわかった瞬間に、『全身がカッ!と熱くなりました』とある。評を聞く前に、である。このことから、みつをの目的は武井老師そのものであったんだろうなぁと思う。
尋常な反応ではない。みつをは居場所を求めてそこにいたり、老師が自分を受け入れてくれるかどうか、存在をかけて緊張して待ったのではないだろうか。
しかし、『老師は私の歌の方は見ません』。
見ないままに、ゆっくりと独り言のように最初の言葉をつぶやいた。
『それから少し間を置いて、ようやく私の歌の方に眼を向けて』言ったのが次の言葉だった。全存在をかけて待っていたみつをの耳に届いたのは、きわめて率直な老師の評だった。
『私はドキンとしました』―いろいろなものが一挙に吹き飛んだことだろう。
そして、その言葉を『人間としての基本的な生き方を示していたのです』ととらえることができたのは、彼自身が真摯に自分と向き合ってきたからなんだと思う。
それから40数年、みつをは老師の下に通う。
そのときの様子が、下記にあった。
・わが師を語る―武井哲應(たけいてつおう)の教え―
『老師の入れてくださるお茶を戴きながら、何でも生活上の悩みでもなんでも質問したんですね。当時若かった老師がニコニコしながら、優しく私に教えてくれたんです』―みつをは、『「ただいま」と帰ってこられない家庭』の代わりを見つけたのかもしれないね。
★根を張った4年間-----------------------------------------------------------
戦後、生活協同組合の書記として働き始めたみつをは不正を発見。
親、大人(紙芝居屋、軍事教練の教官)、社会(戦争)に対する怒りを抱えていたみつをが黙っていられるはずもなかった。しかし、3人組に襲われる。
母エイはこの“機”を逃さなかったのだろう。それは、失うことによる不安をもう感じたくないから。それから4年もの間、みつをは軟禁状態に置かれる。母親の不安を埋める安全装置としてそこに置かれたみつをは、釣りしかやることがなかった。
けれど、この引きこもった4年間が根を張らせていく。
ケースは違うが、同じく引きこもった甘薯先生(青木昆陽)を思い出した。
強大な重力(母親)から離脱するためには、強力な推進力が必要である。
書や自然や武井老師を鏡として自分と向き合った4年―この4年間でその推力を得たみつをは、27歳で短大夜学に入学した。
同じ頃、千江と出逢う。
『千江と初めて言葉を交わした日、光男は「千江」「逢」という文字を何度も書いた。最初はしっかりとした楷書だったが、やがて自由でやわらかな字体へと変化していった。千江を思いながら心のままに書く書が、光男は楽しくて仕方がなかった。それは、光男の書に“命”が吹き込まれた瞬間でもあった…』
・「にんげんだもの 相田みつを物語」(テレビ朝日)より
みつをにとって千江は、幽閉された監獄から解放へと導く自由の女神だったかもしれないね。
★嫁姑の確執---------------------------------------------------------------
短大卒業後に千江と結婚。
しかし、エイにとって千江はみつをを奪う仇。
嫁に対する憎しみは異常だったとみつをは言うが、それも当然だっただろう。不安から逃げ続けている人にとって、不安なく生きていくための安全装置を奪われることは、生きていけなくなることと同じ。つまり、エイにとって千江は、自分の人生の破壊者と言ってもいいくらいの敵なのである。
エイは、みつをの着るもの食べるものは自分が用意すると宣言する。
それは、みつをを「子」のままにしておき手放さないという宣言。
みつをを「夫」にも「父」にもさせないという宣言であった。
あるとき、息子大事の過保護な母親を見たみつをは強い口調で言う。
「母親のエゴが、結果的には子供自身をみんなダメにしている、とわたしは断言いたします。」
―これは、自分の母親に言いたかったことではなかっただろうか。
★自己存在を貫く覚悟--------------------------------------------------------
一軒家を借りられず、8畳一間に二人の子を抱え、習字の先生として細々と暮らしていたある日―みつをは、この生き方に『心のどん底から納得できるのか?』と自問。
1,お習字の先生をやめる
2,書家でなくてもいい
3,詩人や歌人でなくてもいい
4,かねや世間的な名声、肩書きは一生なくてもいい
5,その代わり、素っ裸の人間として、どこまでも自分の本心、本音を書いていく。人間としての精神の自由だけは誰にも渡さずに固く守りながら―
と、決意する。凄まじい覚悟である。
ここまで厳しくはないが、私も共感するものがある。会社を辞めるとき、それまでのすべてのキャリアはゼロとなる。何しろ、それらが通用しない世界に行くわけだから。まさに私もゼロからのスタートで、「石の上にも3年」を過ごしたのだ。
この体験から思うのは、新たなステージに移行するときは、これまでのすべてを捨て去ることになるだろうということだ。
みつをは包装のデザインをしようと、飛び込み営業をして回る。
やっと話を聴いてくれる店主に巡り会えた。これよりもいいものができる自信があるかと包装紙を見せられたとき、
『そんな自身はありません。あるのはうぬぼれだけです。そのうぬぼれも、やってみなければわかりません』
それをおもしろがって依頼をされたとき、
『それでは、早速ですが、手付け金として○○円いただきたいと思います』
驚く店主に言った理由はこうだった。この仕事は3ヶ月かかる。全生活をかけても代金がもらえないという不安を抱えてやるといい仕事はできない。私を信じてくれるなら払ってくれ、と言うわけだ。
覚悟がなければ言えない言葉だ。
★「書」は体、「詩」は魂--------------------------------------------------------
『作品に向かう時の父は、半径十メートル以内には近寄れないほど殺気立っていて、母もピリピリしていました』と相田一人さんは言う。
技巧派の書家として大成することもできたであろうみつを。
しかし、“できあがった形”の中に自分の存在はなかったのだろう。
みつをは自分の存在を自分で確認しなければならなかった
みつをは自分の存在を自分で示さなければならなかった
だから、あの書体にたどり着いたのだろう
あの書体は、のたうつ自分そのもの
そして、紡ぎ出される言葉は、誰にでもない、自分に言い聞かせる言葉
「書」は体で
「詩」は魂
一体となって、自分が表現される
★仏の父-------------------------------------------------------------------
ほっとしたのは、みつをと亡き父との邂逅である。
偶然、父が卒業した小学校から講演を頼まれた。
父親は妾腹の子で農家に里子に出された。
尋常小学校4年を終わると刺繍職人として奉公に出される。
足利に戻ってエイと結婚し、刺繍職人として成功。
機織りに手を出して大失敗。
反物を自転車に積んで行商。
その行商先で、父を泊めてくれた人が講演に来られていた。
何で泊めてくれたのかを訊くと
『あなたのお父さんは、たいへんいい人だったから』
『私は、こんな嬉しい言葉を、聞いたことありませんでした』
途方に暮れていたはずの父。にもかかわらず、
『仏様のようないい人で、馬頭ではけっこう人気がありましたよ』
みつをは言う。
『本当に途方に暮れる。そういう経験が人間の「いのちの根っこ」を育てていくんです』
『人間は、いつでも負ける方にいると、心が安らかだと思うんです』
★「逆縁の菩薩」と「観音菩薩」---------------------------------------------------
父のように、みつをもまた苦難の人生だった。
軍事教練の教官ににらまれて不合格のレッテルを貼られ、陸軍士官学校の夢は潰えた。が、だからこそ生き延びることができた。さらに、武井老師と出逢うことができ仏縁を結ぶことができた。―だから、この教官は「逆縁の菩薩」だ、と。
そして、こうも言う。
『おふくろは俺に苦しい思いをさせることによって、俺を救ってくれた菩薩さまではないのか。』
けれど、みつをが苦しいときに呼ぶ名は、父と二人の兄。
母の名は呼ばない。
代わりに、彼の詩にたくさん出てくる憧れが
観音菩薩
みつをもまた、母の謎に翻弄され、あきらめ、慕い、
あたたかな理想の女性を求めていたのかもしれない。
★「逢」---------------------------------------------------------------------
生まれてきたみつをは、
逆縁の菩薩に逢い、
背骨をくれた二人のあんちゃんに逢い、
人生の師に逢い、
千江に逢い、
我が子に逢い、
意気に感じてくれた人に逢い、
仏の父親像に逢い
観音菩薩に逢い・・・
出逢いがみつをを鍛え、みつをを支えてきた
出逢いが、人生そのものだった
「逢」―たった一文字のために何百何千の紙を使ったという
懸命に懸命に、誰に逢いたかったのだろうか?
母だろうか? 自分だろうか?
出逢う人が皆、そのときの自分の鏡ならば、
向き合い続けて逢いたかったのは「みつを君」ではなかったろうか・・・
『その人の前にでると 絶対にうそが言えない そういう人を持つといい』
『その人の顔を見ていると 絶対にごまかしが言えない そういう人を持つといい』
―“そういう人”は、誰しも自分の中にいる。
闘い続け、駆け抜けた人生―
今、天国で「みつを君」に出逢えていますか?
★いのちの詩--------------------------------------------------------------
地上では、あなたの詩に出逢う人が増えましたよ。
日本中に広まって多くの人を勇気づけていますよ。
苦しむ人が増えましたからね。
だからこそ、本気で変わろうとしていますよ。
同じように苦しんでいる人を、
どうぞ天国からお見守りください。
いのちの詩を
ありがとうございます。
