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2次元的人生に別れを告げよう

2013/01/08(Tue) Category : 見方・考え方・価値観-パラダイム
あけましておめでとうございます。

今朝の日の出です。
地平を覆う雲の上から昇ってきました。



巳年があけましたね。
「巳」は、形成され始めた胎児の身体を表しているそうです。

元は「已む」=草木の成長が極限に達して次の生命が作られ始める時期。植物に種子ができはじめる時期だそうです。

それを、十二支に取り込む際に、脱皮を繰り返すことで「復活と再生」の象徴とみられた蛇に託したのかもしれませんね。

いずれにせよ、新たなものが萌芽していく年が幕を開けました。
まだ、胎児や種という“形”にはなりませんが、新たな兆しがあちらこちらに現れてくることでしょう。




★終着駅は始発駅-------------------------------------------------

ところで、昨年暮れ各国を賑わせた終末騒動。
それは、マヤ暦が2012年12月21日で終わっていることからそのような推測がなされたわけですが、騒動は氷山の水面上。水面下にはマヤ暦に対する広範な関心が広がっていたのではないかと思います。映画などの影響があるにせよ、滅びた1民族のカレンダーがなぜかくも注目を浴びたのでしょうか。

紀元前3世紀頃にユカタン半島に芽生えたマヤ文明は8世紀頃に最盛期を迎えますが、9世紀頃からマヤの都市は次々に衰退ないし放棄されていきます―この去り方の不思議さ。

一方で、マヤ人が地球や金星の公転周期を知っていたという、驚くべき高度な宇宙知識。何しろ、天動説の西洋に地動説が現れたのが16世紀(コペルニクス)。さらに、西洋の精神的支柱といわれているバチカンが地動説を公式に認めたのは2008年12月21日(byローマ法王ベネディクト16世)ですからね・・・

高度な科学技術を持ちながら、都市を去るかのように消えていったマヤ人たち―その神秘さが、彼らの行動には何か理由があるはずだと思わせます。その裏には、生態系を破壊してしまったという現実的理由もあるのかもしれませんが。
マヤとヤマト
気候変動調査で、マヤ文明の衰退の謎を紐解く

そのマヤ人たちが駆使していた幾つかの暦。その一つが、西洋暦に換算すると(換算の仕方にも諸説あるようですが)、2012年12月21日で途切れていることから終末論に火がついたようです。


確かに、一つの大周期が終わりを迎えているのでしょう。
けれど、「終着駅」は「始発駅」

これから文明は折り返し、新たな始まりを迎えるのでしょう。
しかし、それを見たくない人々は、「ハーメルンの笛吹き男」に踊らされて、行き止まりに向かって突き進んでいくのでしょう。
家族カウンセリング的に見た日本6-「ハーメルンの笛吹き男」




★意識が変わればシステム(価値体系)は崩壊する-------------------

「終着駅」が「始発駅」となる様子を、上記コペ転の時代=中世の末期から近世の曙の時代を例に見てみましょう。

まず歴史を見るに当たって念頭に置いておくべきことは、人々は「真実」ではなく、自分が信じたいものを信じる(人生脚本)ということです。

さて、土地生産性が低い酪農地帯ヨーロッパでは、人は肉を食べなければ生き延びることができませんでした。動物を食べることに後ろめたさを抱かないよう、キリスト教では人間が支配者であると修正され、それが受け入れられ、そのキリスト教の守護者であるローマ教皇が絶対的権威を持つことになります。

つまり、教皇に強大な権力をもたらしたのは“肉を食べる必要があった民衆”であり、このように、すべての権力は「食べるための理屈の共有」(共同幻想)の上に成り立っています。

その教皇権力を“絶対的”なものにするためには、神からの保証が必要です。日本でも神代に遡って天皇の権威付けがなされましたね(↓)。
瀬織津姫物語(セオリツヒメ)

その神からの保証が天動説でした(詳細省きます)。ですから、天動説が翻されることは教皇権力の失墜=人民がよって立つ地盤が崩壊する=食えなくなる不安が出てくることを意味していたのです。

そのため、地動説を唱える人々は無視されるか迫害を受けました。教会の権威を再興するために天文に挑んだコペルニクス神父は、皮肉にも地球が動いていることを発見しましたが、30年間もそれを発表するのをためらい、発表したのは死の直前だったそうです。

人々に真実を知らせるということは、かくも危険を伴うことなのです。
実際、既得(危篤)権力を守ろうとする側は、“異端者”(真実を言う人)を裁判にかけ、火刑に処しました。

権力が時代に追い詰められているときには過激なことが起こりますね―真実を暴こうとする人を裁判にかけ、あるいは葬り去る。まさに時代の分水嶺(パラダイム転換期)である現代もそうですね。

けれど、教皇を支えた中間集団とヒエラルキーは崩壊していました。手工業の発達により農村内で社会的分業が進み、商品経済が発達して力を持った人々は、教会と密接につながっていたギルドを崩壊させていきます。

つまり、民衆の意識が変わり、既存のシステムに乗らなくなっていけば、勝手にシステムは崩壊していくということです。(現代社会も、既存の社会システムを支えた中間層は既に崩壊していますね)

このような民衆の変化が地動説を受け入れさせ、絶対的権力を誇っていた教会を没落させ、中世という時代を終わらせ、近世に道を拓いたのです。




★マヤ暦が提示したものと誤解された理由---------------------------

さて、マヤ暦が注目されたことは、民衆の間に意識の変化が起こっていることを示しているようにも思います。
マヤ暦が示したものは、円環的、循環的なもの。

マヤ暦が示した大周期の終わり。それは、絶対的直線的な時間概念の終わりを示すものではなかったかと思うのです。

元よりマヤ人は新しい周期が始まることを知っていた。けれど、この大周期の暦を終わらせることで、リニアな時間概念は終焉に向かうということを告げたのではないか・・・しかし、このメッセージを受ける私たち受け手側は「直線的な時間概念のまま」でいるわけですから、その枠組みで解釈すると、それが「終末」ということになってしまったのではないでしょうか。




★絶対的直線的な時間を用意した時計とベーコン---------------------

その絶対的直線的な時間概念―それはまさに、上記コペ転の時代16世紀に形を表していきます。

13世紀に機械時計が作られ始め、
14世紀にイタリアに時計塔が現れ、
15世紀に家庭用時計が現れ始め、
16世紀にゼンマイ時計、
17世紀に振り子時計や懐中時計、
18世紀には贅沢品でなくなり、
19世紀にはアメリカで大量生産されました。
20世紀の私たちは時計を持つことは当たり前で、ファッションで取り換えるくらいになっています。

同時にルネサンス(14-16世紀)を通して、それまで古いことや伝統的なことに価値があり、「new」という言葉は軽蔑的に使われていましたが、新しいことに価値を置く意識転換がなされました。その象徴がベーコンが著した、その名も「ニューアトランティス」(1627)。ベーコンはプラトンの古いアトランティスを書き換えました。

他にも立役者(ニュートン、ダーウィン、フロイドetc)はいますがここでは控えます。いずれにせよ、中世的神に代わって、絶対的直線的かつ進歩する「時間」が人類の支配者となって形を表したのです。

時間(時計)は、国や民族を超えて人を制御することを可能にしました。
時間が誰に対しても一様に流れて待ってくれない以上、「競争」は必然となり、肌身離さず時間を身につけ、常にその配分に多大な関心を払わなければならなくなりました。

「Time is money」―時は金なり。時間に几帳面なことは美徳で、時間の無駄や浪費は、それ自体が悪とされました。人は「効率」や「利益」を求めて走らされることになりました。

歴史が進歩するものとされた以上、歴史の意味や生きる意味を問う必要はなくなりました。必要なのは現世的ゴールへ向かう「方法」(How to)のみ。そのことをベーコンは、高らかに宣言します。
「科学の目標は、その方法の法則化以外の何ものでもない」

彼はまた、観察するものと観察されるものを分離し、「客観的知」の蓄積により「医学や自然現象、その他すべてのことを支配できる」と、「客観性の神話」を用意しました。(←これが嘘であることは、量子力学が証明しましたね)




★質を無視した絶対空間を用意したデカルト-------------------------

ルネサンスの職人の方法を参考に実証主義的な方法論を提唱して、帰納法の元祖となったベーコンが出ましたので、演繹法の確立者とされるデカルトにも触れておきましょう。

神によって人間の理性は保証されていると考えるデカルトは、「思惟」によって宇宙体系を創り上げることができると信じていました。

彼は、簡単に言えば、物体=「長さと幅と深さ」つまり「延長」であるとし、質を無視してすべてを量に還元しました。また、空間=「長さと幅と深さの延長」であり、この延長は物体を構成する延長と同じ。

つまり、宇宙=空間+物体=「延長」であり、宇宙は「唯一の無限界三次元空間」であるとしたわけです。これにより、質を無視した機械的世界観と幾何学適用の道が開けます。

その上で彼は、神によって保証された思惟によって「延長」を空間と物体に分けてかまわないとし、このことが思惟と延長を分ける=理性と肉体をわける二元論を用意しました。


デカルトがどのくらい質を無視したかといえば、アリストテレスが言っていた4つの運動―場所の移動、白から黒などへの変化、増大減少などの量の変化、生成消滅、のうち、デカルトは場所の移動のみを「運動」と呼び、他は一切無視したのです。

その上、慣性運動の直線性を強調することで運動変化の内的要因まで排除しましたので、運動する物体=ヒトとした時、かつヒトが本来善であれば、外的な介入は不要だとするスミスやロックの思想が出てきますし、運動変化を“歴史”に見立てれば、その変化の内的要因は排除されていますから、歴史の変化は経済や技術などの外的要因であるとする唯物史観が登場することになります。

こうして空間や物体、運動から“質”を取り去ったために、社会科学の扱う人間は、性(男女)も年齢(子どもや老人)も感情も(世代間連鎖も ^^;)排除した、合理的運動をなす「経済人」(成人男性)を念頭に考察されることになります。つまり、虚構の上に社会科学が構築されることになったわけです。




★2次元的に生きさせられていた文明人------------------------------

ルネサンス期、西洋人は神に代わる絶対的なものを求めました。言い換えれば、神に代わって不安を取り除いてくれるもの―時間と空間を説明出来るものをさがしたのです。それが、静止している「絶対空間」と過去から未来へと直線的に流れ続ける「直線的絶対時間」でした。

これは、海も大地も全ての生命も「資源」とみなし、工場に合わせてロボットのごとく人を扱う資本&共産主義にとってはドンピシャでした。”時代”がこれを信じ、受け入れたのです。

この虚構の上に立って工業化社会はバランスを欠いた発展を遂げるわけですが、今やこの単純化された時空間の枠組みが窮屈となり、その舞台の上で展開されている力学的支配競走という虚構に付き合うことにも疲れ果ててしまいました。


何が窮屈かというと、過去から未来へと流れる直線的時間は、いわば「線」。つまり、2次元です。3次元以上の存在である人間が、その豊穣なる豊かさの側面をそぎ落とされて2次元に押し込められたといってもいいでしょうか。

あるいは、本来自分と共にある時間が分離させられたために、時間(人生)から疎外されてしまったと言ってもいいでしょうか。

いずれにせよ文明人は、とても低い次元に束縛されて生かされるようになってしまったわけです。さらに、時空間(=循環する生態系)からはじき出されてしまった人類は、人工空間の中に隔離されて生きざるを得なくなっていったわけです。

このように共同幻想が創り上げた亜空間の中に閉じ込められ、その中ではありとあらゆる質が無視され量のみで評価されていくわけですから、ヒトがロボット化していったり、心と肉体がばらばらになったり、互いを道具にし合うハラスメント社会になっていったのも当然の帰結でした。

そして今も、「定刻5分前に」「急げ」「頑張れ」「努力せよ」「間に合わせろ」「迷惑をかけるな」「ぐずぐずするな」「怠けるな」「効率的に」「迅速に」「スピーディーに」「間を置くな」「考えるな」「言われたとおりにやれ」「時間泥棒になるな」「金で時間を買え」等々と、尻を叩かれ続けているわけです。

↑このプロセスのすべてが「人生」なわけで、こういう人生を終えるとき、一体何が残っているのでしょう・・・2次元的生き方の頂点に立ったとしても、空しいですね。

結局たどり着いたのは、下記のような情けない地平でした。
<電通戦略十訓>




★薄っぺらな人生から立体的な人生へ-------------------------------

世代間連鎖を克服するカウンセリングを体験された方は、過去の自分も救えるし、過去も変えられる、そして、何より人生を自分の手に取り戻すことができる(自分自身が創り出していたことが分かるからです)ことを実感されているでしょう。

過去が忌まわしき定点ではなく、今の自分を形成する豊かな総体となります。すると、時間が線ではなく立体になってきますので、線で生きている人のことが見えてきたり、シンクロが起こったり、あちこちに可能性を見いだしたり・・・リニアな生き方で得られなかった体験をするようになります。


さて、暦とは、言わば大自然の解体新書。
19種類もの暦を使っていたというマヤ人は、それだけ大自然・大宇宙をもっと立体的に多様にとらえていたと言うことでしょう。

身近な話、西暦のみで生きるよりも、和暦や二十四節気や月齢などを組み合わせた方が、より味わい深い生活ができますよね。(逆に言えば、西暦に統一されたことで失ったものがどれほどあることか・・・)

マヤ人は、西暦オンリーの生き方からすれば19倍もの(いえ、その組み合わせも考えれば無限の)豊かな世界観があり、多次元的な人生があったのではないでしょうか。

マヤ暦が注目されたことは、20世紀までの超単純な世界観では、もはや人類が窒息しかかっていることを示しているように思います。

「2次元的に生きるのは、もうイヤだ!」
―小さいちゃんが、そう叫んでいるのではないでしょうか?




★江戸時代の時間概念---------------------------------------------

ちなみに、時計を持たない江戸時代も人は仕事をしていました。
何が目安か? お天道様ですね(^^)

明るくなれば働き始め、暗くなれば休息する―太陽(自然のリズム)とともに人々の生活があったのです。

実際には、夜明けと日暮れを境に、昼と夜をそれぞれ6等分していましたから、正午はいつでも太陽が真上にあるとき―つまり目見当で"お昼”がわかったわけです。

当然、夏至と冬至では昼夜の時間の長さが異なります。夏の昼の一刻は長く冬は短いわけです。夏は長く働き、冬は夜長となるわけですが、でも、それでいいんじゃないでしょうか。

太陽を中心にした自然のリズムとともにある生活―人は人工空間に埋没しないですみますね。


なお、南蛮時計が伝来して以降も、器用な江戸人は季節によって昼夜別々の時刻を刻む和時計に変えてしまいました(^^)。
西鶴の「好色一代男」の中に吉野という気の利いた遊女が出てきますが、琴、歌、茶、花と同列に『土圭を仕掛けなをし』(季節によって時計を合わせ直す)ということで褒められているようです。




★動物学の教える「生理的時間」-----------------------------------

ベーコンは絶対時間を唱え、デカルトは絶対空間を唱え、二人とも「質」を排除しましたが、『時間は唯一絶対不変なものではない』と動物学では教えています。

そう、彼らが“運動”を測りたかった、その動くものの典型=動物。
『動物は動くから動物というのであって、動くことが最も動物らしいところであろう。そして、動くということで、動物のデザインが決定されている可能性が高い』。

その動物学では、『動物には動物のサイズによって変わるそれぞれの時計がある』と教えているのです。つまり、ゾウにはゾウの時間があり、ネズミにはネズミの時間があるということです。人間も、個々人が個別の時空を持っているということですね。(これを物理的時間に対して生理的時間と言うようです)


動物は、時間が体長の3/4乗に比例するようにデザインされているそうです。つまり、大きくなるほど動きはのろくなるということ。そして、『長さというのは空間の単位だから、この関係は時空という、存在の根本に関わるデザイン』だそうです。

ところで、「大きいことはいいこと」なんでしょうか。
例えば、島に隔離されてしまったゾウは世代を重ねる内にどんどん小型化し、逆にネズミやウサギなどは大型化していったそうです。なぜかというと、島には捕食者が少ないから。

捕食者がいると、大きくなって食べられにくいようにしたり、小さくなって物陰に隠れるようになったり、という無理をしなければなりません。ゾウの骨格系はかなり無理をしていて進化の袋小路に入り込んでいるため、捕食者がいなければ、無理をしない体型に戻っていくそうです。

(例えば、“捕食する親”から解放された子どもの背が急に伸びたり、親の受け皿となって水太りしていた人が自分を親から解放することでほっそりと変化したりしますので、興味深いですね)




★画一的時間軸の学問は搾取の学問--------------------------------

上記は、「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)からの引用ですが、それを書かれた本川達雄さんは、『時間は唯一絶対不変のものだと、頭から信じ込んできた』から、“違う”と知ったときはショックを受けたそうです。

『時間が違うということは、世界観が全く異なるということである。「相手の世界観を全く理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までの僕の研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。それと同時に、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に、怒りを感じた』そうです。そして、『反省をこめて』書かれたのがこの本でした。




彼は言います。
『哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然解釈なのだから、人間を相対化することはできない。生物学により、はじめてヒトという生きものを相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を搾取し、勝手に納得していたものではなかったか?』

なぜそう思うのかというと、生物学的に見て、『ヒトというものは視覚主導型の生きもの』であり『時間感覚はあまり発達していない』からだそうです。

『人はほとんど目に頼って生きており、目を通して周りの世界を頭の中に再構成している。感覚が発達していない事象に関しては、たとえ外界に存在していても、人の頭の中の世界には存在しない』

『もしヒトがもっと時間感覚の発達した生き物だったら、対象物にあわせていろいろな時間軸を設定でき、世界をもっと違った「目」で「見ていた」はずである。時間と空間の関係式も、簡単に「発見」できたに違いない』




★人を2次元に縛り付ける「時計」というアイテム--------------------

さて、私たちは本川さん同様、個々人がすべて異なる時間尺度を持っているという多様性を気づかないままに捨て去り、ベーコンとデカルトが用意したあの超単純な薄っぺらい時空の中に閉じ込められて、先に見たように2次元的にここまで突っ走らされてきました。

しかも、IP(インナーペアレンツ)が自分自身を攻撃するとき、「過去を後悔させる」「未来を不安にさせる」ことは、まぁ“常套手段”です。過去と未来に意識を向けさせることで、「今の気持ち」に集中させないわけですね。このように、多様で可能性に満ちあふれた自分を薄っぺらい時空に縛り付けているのは、自分自身なのです。悔しいですね。


そして、支配するための必須アイテムは「時計」といってもいいかもしれません。別に時計を敵視するつもりはありません。囚われていない方にとっては時計はただの時計ですから。

ただ、カウンセリングの体験から言えることは、「時計」というものがその人を監視している「脳内親」のシンボルになっていることが多いと言うことです。

様々な事例がありますが、「時計」がなくなったとき、その方々のインナーチャイルドが動き始めることが沢山ありました。


ただ、不安の強い方は、なかなか手放すことができません。カチカチと刻み続ける時計の音も、自分をせかす文字盤も、不安から気をそらす道具として必要だからです。寝入りばなと起き抜けは、不安の強い方にとっては魔の時なので、腕時計をつけっぱなしで寝る方もいらっしゃいます。

インナーチャイルドが動き始める=その一人である不安ちゃんも動き始めるということですから、不安や寂しさ、虚無感や孤独を受け入れるよ、という決意をして、時計をどうするか向き合ってみて下さい。




★多次元に向けて自分を解放していきましょう-----------------------

さて、思わず長くなってしまいましたが、IPの強い方が囚われているのは、まさに「Time」と「Money」です。

その無限ループから抜け出す道は、常に「今の気持ち」をキャッチすることです。また、「心のコップ」に閉じ込めているIC(インナーチャイルド)を解放していくことです。

そのために、「直線的に流れている時間」という強迫観念を手放して、今の気持ちのままに、あるいは小さいちゃん(IC)とともに時を過ごしてみてはいかがでしょうか。

時計を外して、
好きなところで寝転んだり日向ぼっこしたりするのも、いいかもしれません。



平面から、一挙に多次元に向けて、自分を解放していきましょう(^^)




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このサイト、中尾先生に出会って、1年4ヶ月になります。
その間、45年生きてきたなかで自分が、劇的に変わりました。
まずは、親の悪口が言えた事。エンプティチェアをやって、私の中の親が、泣きわめきながら出て行くのが見えました。泣きわめかれるが怖かったのに、なぁんだって感じでした。
次に、慌てなくなりました。なんであんなに、「ああもう!テキパキやらなきゃやらなきゃ!」と思っていたのか不思議です。
それから、お金も、変な不安感から、必要以上に無いと安心しなくて、足りない事は、悪い事の様に思ってましたが、今では、足りなくなったら、父ちゃん(夫)にちょうだいって言えばいいじゃん。と軽く考える様になりました。すると、無駄遣いが、減りました。不思議です。お金お金と言ってる間は、変に物を買ってたんですね。
そして、罪悪感が消えたのが、とてもうれしい。
何しても、自分が決めて、自分がやりたいからやる。となったら、家事やら、子ども達の学校の事がすんごく楽になりました。今まで、やりたくない!嫌だ!となっていたのは、何だったんだ!です。

今でも、イライラするし、親を疎ましいと思うし、電話があると嫌だ!となるけど、それも全部自分の物だ!と感じる様になりました。逃げなくなりました。
そして、こうやって生きて行くんだな。と感じてます。
もっぱらの心配は、子どもの高校受験です。頼むから、公立受かったくれ!って、これは私じゃなくて子ども本人の切望で、その本人は、今必死なんだろうな。(ここにきて弛んで見えるのはなぜ?)
見守るだけね…。
とにかく、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。

 

きもちがわたし

サイクルが早い現代ですが

自分のペースや呼吸を
内側でバランスをとって
ゆっくり、地に足をつけて
愉しんでいけたらな、と思いました

これから、古くからある良いものと
新しく進化してゆくもの

たくさん、目にする過渡期のようですね



ほんとは、
見えてる世界も
見えない世界も
境目なんてなくて
すべて内包されている

 

親から自立しようとあれこれやってきて、最近は自分から自立しようと思うようになりました。
自分から自立ってなんだろう・・・と思っていたけど、IPからの自立だと思います。
いままで、不安を解消するためにIPに依存していまいた。
でも、もう辞める。私は私の気持ちで動く。現実を生きることにする。
時間とお金から自由になります。

 
    
 
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