焦らず自分のペースで
『まずは、気づくきっかけとして、是非学んで欲しいと思います』と書きましたが、例えば本やブログなどを通じて知識を得ると、理解して気づいたつもりになったりします。
ここからがくせ者なのですが、思考(IP)がそれを利用して自分を追い立て始めることがあります。そして、以前も書きましたが、自律に向かうことさえも課題として真面目に、あるいは完璧に取り組ませようとします。
つまり、その“課題”が「不幸になること」であれ「自律すること」であれなんであれ、生き癖そのままに取り組むのです。本当に変えなければならないのは、その取り組み姿勢そのものにあるのですが。
【参照】Let,s Try 虎井まさ衛リーディング-(10)私の仕事
しかし、思考のペースと感情のペースは違います。思考が回転している間は感情に落ちてきません。ゆったりとボーッとした中でだんだんと腑に落ちていきます。ですから、気づいたからといってすぐに何かを変えるのではなく、気づいた自分の目を持って現状をじーっと眺めましょう。
新たに理解すると言うことは衝撃を伴います。
「衝撃(パニック)→否認(防衛的逃避)→激情(怒り)→比較(不安)→虚無(自殺衝動)→グリーフワーク→受容(安息)」というのは、心理的ダメージからの回復過程ですが、気づきがある一つごとにこのミニバージョンが起こっていると思ってもいいでしょう。
・心理的ダメージからの回復過程9段階及び第二の誕生
あるいは、気づいた時点で初めて、自分の心の傷を自分が認識することになります。傷を認識したときから治癒が始まりますので、その自然治癒の時間が必要と言ってもいいでしょうか。
たとえば断捨離にしても、部屋の結界にしても、気づいたからと言って闇雲に捨てさせようとするのは、IPの仕業であることが多いです。それらのモノや結界はICを封じ込めるものではありますが、必要があってそうしてきたものでもあります。
モノであれ人であれ出来事であれ、何かに執着するのは、そこに表現されていない感情があるからです。その感情を自分が発見し、表現すれば、それらの人や物事への執着は消えていきます。ですから、気づいたのであれば、それらのモノについての“気持ち”をいろいろと味わって、声に出して表現して、自分がそれらの気持ちを味わった後に対処すればいいと思います。
それから、自分に深く関わっている人のこともあります。
たとえば、親として子への接し方が間違っていた、と気づいたときに、その反省と自責、子への申し訳なさ、あるいは自分がしてきたことの結果を見続けることの苦しさから、真逆の働きかけを子どもにしてしまうこともあります。
それが、子どもの立場に立ってみると、親からの強制が来ていることに変わりがなかったりします。親が自分に向かってくる姿勢が変わっていませんので、子どもの苦しみは続くわけですね。
あるいは、配偶者が自分の代理親だと気づいたとします。すると、封印していた嫌悪感や蓄積されていた疲労感その他の感情がどっと出てきたりします。この時、嫌で嫌で早く離れたいと思ったりするのです。
けれど、いかなる場合でも、それほどの感情が出ているという時は、ほぼ必ずICが絡んでいます。つまり、その嫌な気持ちは親への感情の代償感情ということです。自分が気づいてくれたからこそ、小さいときの感情が“今”出てきてくれたわけですね。それを“今”感じるから目の前の相手への感情と勘違いしてしまうわけですが。
つまり、目の前の相手に対する気持ちだけではないと言うことです(もちろん、代理親だったわけですから目の前の相手に対する感情も交じっていますが)。ですから、目の前の相手には一度心の距離を置き、小さいちゃんを受け止めるつもりで、その気持ちを味わって下さい。それをしている間に、また目の前の相手に対する見方や思いも変わってくることでしょう。
ともかく、先を急がないこと。
今の世の中は、なんでもオーバーペースが当たり前になっていて、人を追い立て突っ走らせて、気づいたときには、もうここまで来たから戻れない―という仕組みで踊らせています。
その流れにのまれず、間違いに気づいたらいつでも引き返せるマイペースで歩いて下さい。ハラスメント界を突っ走って大成功を収めたとしても、もしICが眠ったままそうなったのであれば空しいだけです。
でも、何事も人と一緒でないと不安だという人もいるでしょう。
その不安や寂しさこそを受け止めて下さい。
今のペースを落として、「命とともにあるペース」にチェンジすること。
そして、自分の気持ちのペースで生きていくこと―それが自律に向かう道です。
人と比べなくていい。
ゆっくりがいいんです。
ゆっくりと参りましょう。