「葛藤」から「循環」へ
前項の続き
★レヴィンの葛藤理論-----------------------------------------------
さて、心理学で葛藤というとレヴィンの理論が思い出されますが、それは次のようなものです。
1,接近-接近葛藤
あれもこれも欲しい 「二兎を追う者は一兎をも得ず」
2,回避-回避葛藤
あっちもこっちもイヤ「前門の虎後門の狼」
3,接近-回避葛藤
欲しいがイヤ 「虎穴にいらずんば虎児を得ず」
★葛藤理論を人間関係に置き換える-----------------------------------
上記を図示すると次のようになります。

これを問題ある人の関係に見立てて見ましょう。
(上とは切り離して、人の動きとして見て下さい)
1,
・急接近する場合は、相手の中に救われていない自分の姿を見るときが多いようです。自己投影した“自分”に惹かれているんですね。
・あるいは、互いの人生脚本が互いを利用できると感じたとき。外役―内役、厳しい役―優しい役、吐き出し役―受け皿役、王様役―引き立て役、できない役―世話役、等々。
2,
・無視や反発する場合は、相手の中に“親”を投影する場合
・あるいは、“IPに抑え込まれている自分”の姿を見るときなど―そこに見たくない自分がいるので、その現実(存在)から目をそらしたいのです。
3,
・吸引する場合―たとえば相手の“話を聴いてくれる親がほしい”といったチャイルドの願望を刺激しつつ(実際は聴いていない)、常に自分を追ってくるようにコントロールし続けます。
・追う場合―母子未分離の人間は自他未分離―つまり、自分の思いは相手の思いとなります(ストーカー)。
・追う場合―自分と同じような“質”を持つ人を嗅ぎ当て、その人とうり二つになっていくことで安心を得ようとします(同一化)。
とまぁ、接近したり反発したり追いかけっこしたり、二者関係は不安定になることが多いですね。
コミュニケーションで言えば、話し合う(言い争い)、無視、一方通行という感じでしょうか。
★循環する人間関係--------------------------------------------------
しかし、ここにもう一つの関係があります。
それが、循環する関係です。
コミュニケーションで言えば、「聴き合う」(受け止め合う)関係。

エネルギーが循環していますね。
循環することで、互いが変容し拡大していきます。
昨日の記事を思い出して、絵にしてみましょう。

循環するためには、まず自分とチャイルドの間で循環していなければなりません。それができて他者との循環が始まりますが、異質な存在との循環が、とても大きな影響を与えてくれます。特に異性という存在は、『循環し、まほろばとなる』(*)ためにとても大切な存在なのです。
(*参考)魂リーディング(13)私の中のやわらかいもの
★2次元的生からの離脱----------------------------------------------
さて、上記のような二人が生きる目的や価値を共有すると、共に手を取り合って歩いて行けるわけです。

上記葛藤理論での人間関係は、直線上を行ったり来たりの2次元的関係でした。しかし、循環した二人が目標を共有したとき、その2次元の線上から離脱して、3次元の現実を歩き始めることができます。
そこに、子どもが生まれたとき、親が何をせずとも、子は親の背中を見ながらまっすぐに育っていくことでしょう。

それが、下記記事の中の「健全な家族」です。
・「家族自我像」を描いてみよう
けれど、社会が押しつけてくる価値観に染まって生きている親二人が、その共通の価値観で子どもに迫ってきた場合、当然ながら子どもはその通りに曲がってしまいます。それが、上記記事の中の「夫婦一枚岩価値押しつけ家族」であり、その一例が「水戸両親鉄アレイ殺害事件」でした。
価値を共有すると言っても、その価値の持ち方で道が大きく分かれるのは当然のことです。どれだけ宇宙(自然)の流れに沿った価値を持つことができるかが分かれ道なのでしょう。
★パートナーという鏡----------------------------------------------
夫婦は自己分化度(家族心理学用語:個人が家族システムの中で他の家族の感情や思考に巻き込まれず、自己を保つことができる程度 byボーエン)が同程度の人が一緒になると言われています。
自律度、存在不安の程度が同程度の人が一緒になると言い換えてもいいでしょう。その程度が異なれば巡り会うことがないのは直感的に分かると思います。そして、同程度の人の中でも、それぞれの人生脚本が必要としあう人同士が結びついているなぁと感じます。
結局、地球という学びの惑星においては、生まれて育つ間に共依存を体験することになります。それを土台に人生脚本を作り、律儀に懸命にその脚本を歩いていくわけですから、どの人も本来は健気な魂なのです。
けれど、その脚本に気づくまでは、自己投影や代償行為の闘いが繰り返されるわけです。たとえば、このように↓(よく、ここまで自分を見つめたなぁと拍手すると同時に、それを表出した勇気と献身に敬服します)
・怒りで隠して守り続けた私の脚本
この共依存を離脱していかに進化(まずは第1段階のエゴから第2段階のエヴァへ)と成長の道に向かうことができるのかが、この惑星の学びなのでしょう。
上記で言えば、レヴィンの葛藤理論に見る3形態から離脱して、互いを束縛しあうことなく、自然の流れに沿って共に手を取り合って生きていけるようになること―この平凡なことをできるようになることが学びなのでしょう。
相手は鏡―すなわち自分ですから、外の誰よりも手強い敵となります。結局、相手が壁となって常に自分との闘いに立ち戻ることになりますから苦しいです。親や配偶者は最大の壁であり、学びの対象と言えるでしょう。
けれど、そういう過程を経て、「嫌われ松子」のように、たった1日でも自律した日を過ごすことができれば幸せ。
さらに、パートナーと共に自律の道を歩き続けることができるなら永遠に幸せ―なぜなら、自律の道に終わりはないからです。
しかし、仮に道が別れることになったとしても、それはそれでお互いに役割があったのでしょう。そこから何をどう学ぶかは、本人の選択に任されています。他者は介入できません。今の自分が自律に向かっているのならば、その相手(親や配偶者など)にも感謝です。
★私たちの歩いている道----------------------------------------------
私たちは、今、このように歩いています。
私たちがここまで来られたのも、関わった人々の多くの存在があったからです。以前の記事で、私と相談者の間に創発(学び合い、気づき合い)が起こっていると書きましたが、それは
1、自律に向かうという意志を共有し、
2、相互信頼(=尊重)の上に立って、
3、循環し合っているから
最後の循環が起こるためには、それぞれがIC(インナーチャイルド)と循環していなければなりません。が、最初からそれができている人はいません。そのICとの間に「信頼の道」をつけるのは、偏に本人の「あきらめない意志」しかないのです。
誰かに助けてもらおうとするのではなく、「自分が自分を救う決意と覚悟」をもたれた方が、共に歩いて行く仲間です。そして、この仲間が歩いている道に私を導いてくれたのは、私の鏡となってくれた真智子でした。
私は、最高のパートナーを得たと真智子に感謝しています。
【GReeeeN 「道」】
【「聴き合う」ことの大切さ】
・「話し合う」ではなく「聴き合う」ことで人も社会も成熟する
・「気持ち」を大事にする社会システム
・気持ちを言うことが社会貢献