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自助グループについて

2013/03/07(Thu) Category : 私の姿勢
スリーテンの懇親会の席上で自助グループについてのお話が出ました。その背景として、たった一人で苦しみを抱えていて辛い、同じような思いをしている人と分かち合いたいという願いがあります。

というのも、その苦しみを分かち合う人が家族親族は元より、地域や町の中にもいない―この世に自分たった一人・・・そういう思いで生きていらっしゃるからです。友人に話しても分かってもらえない、どころか自分が責められて傷を負った方もいらっしゃるでしょう。

実際、伝統ある古い地域であれ新興住宅地であれ、都会であれ田舎であれ、価値閉塞空間があちらにもこちらにもあるなぁということを感じますので、孤立無援の苦しさもよく分かります。

(けれど、そういう思いをしている自分がいるということは、他にもいるということです。自分が特別、自分が一番苦しいと思いがちですが、同じような思いをされている方は沢山いらっしゃいます。が、出逢う人は無意識に脚本ちゃんが選んでいますからね)

そういうわけで、安心して自分の思いを話せる場が欲しいという強い欲求があることはよく分かります。当相談室でも集団カウンセリングなどの試みをしておりますので、これを機に整理しておきたいと思います。

まず、自助グループとはどういうものでしょうか。



★自助グループとは------------------------------------------------

同様な問題を抱えている個人や家族が自発的なつながりで結びついた集団。

<特徴>
・専門家を置かず、当事者が独立運営し、互いに対等であること
・アノニマス(匿名)であること
・強制ではなく、自発的な参加
・「言いっぱなし聴きっぱなし」による体験の共有、分かち合い

(例)
・AA(アルコホーリクス・アノニマス)アルコール依存症
・GA(ギャンブラーズ・アノニマス)ギャンブル依存症
・KA(クレプトマニアクス・アノニマス)窃盗癖
・NA(ナルコティクス・アノニマス)薬物依存症
・SA(セックスアホーリクス・アノニマス)セックス依存症

例を見ておわかりのように、自助Gとは1930年代にアメリカのアルコール依存症者の間で生まれたものです。依存症の治療とは、依存しない状態を維持すること―この日々の維持そのものが治療です。つまり、日々内なる衝動と闘い続けることが治療なのですが、たった一人で衝動と闘うのは辛いものです。

そこに同じように日々闘い続けている仲間の姿があると、とても励みになり救われるわけですね。ヒントや参考になることもあるでしょう。仲間と顔合わせするだけで勇気を得られることでしょう。

このように、「嗜癖や依存をしない状態を維持する」ためにはとても有効だと思いますし、このような支え合いが自助グループの原点だと思います。




★グループを維持するためのポイント1:共通目標---------------------

ここで、グループを維持する際のポイントについて書いておきます。『「葛藤」から「循環」へ』という記事の『2次元的生からの離脱』の項で、『二人が生きる目的や価値を共有すると、共に手を取り合って歩いて行ける』と書きました。
group01

二者関係は不安定ですが、そこに共通の目標があるとその目標に向かって協力し合っていけるわけです。グループも同じで、共通の目標があるとモチベーションを維持し継続していくことができます。

依存症治療のアノニマスグループは、そこに依存症克服という共通の目標がありますので、「酒を飲まない」という“行動グループ”を維持しやすいわけです。
group02



★グループを維持するためのポイント2:循環--------------------------

さらに、循環が始まると、スリーテンで見たように個人とグループの成長が始まります。たとえば、私が仲間たちと「逐語検討」グループを数年にわたって継続できたのは、シニア産業カウンセラー合格という目標を仲間たちと共有していたからであり、かつそれぞれが積極的に自己開示することでグループ内に循環が起こっていたからです。
(余談ですが、批判や体罰のあるところに循環は生まれません。生まれるのは支配とスパイです)
group03

上記のように、自己開示とフィードバックがあって自分が成長できると感じるからこそ、自らそのグループに来ようと思うようになります。

会社の組織改革の時にも実感しましたが、「組織改革など事務局がやれよ。俺達はそれで評価されるわけじゃない。本業が別にある。指示があれば動くからよろしく」という感じで最も否定的だったメンバーが、「別の会議とブッキングしていたんだがこっちに来た」と積極的に参加し始めました。

その変化に驚いたものですが、なぜ彼がそうなったのか? 
それは、こちらのグループで自分自身が成長できると感じたからでした。

このように、目標が何であれ、そのグループで自分が成長できると感じること―それがグループ維持の最も大きなポイントだと思います。
(その成長できるグループが家庭であれば幸せなんでしょうね)




★集団カウンセリング----------------------------------------------

さて、以上のことを踏まえた上で、家族問題の自助Gについて考えてみますが、先に実際に行った集団カウンセリングの体験を記します。

集団のよいところは、個別の体験に対して似たような思いをされた方のお話があったりして、一人じゃないと勇気を得たり、気持ちを共有できたりするところでしょう。そういう場面は多々ありました。

その上、参加者の抱える問題は千差万別―加害側も被害側も、親の立場も子の立場も混沌としていますが、世代間連鎖という共通認識があるため、その主軸に沿ってそれぞれの方の話を参加者の方は聴くことができるわけです。

そういう基本的前提があるため自分を相対化でき、親の立場の気持ちが分かったり、子や配偶者の立場の気持ちが分かったり、そしてそれぞれが連鎖の中に置かれているんだなぁと認識できるということがありました。

ただそれは、それぞれの体験談に対してカウンセラーからのフィードバック(気持ちの掘り下げや解説等)があったため、実話を通しての実地の学びと気づきがあったからだと思われます。つまり、集団ではありますが、個人対カウンセラーの1対1の関係が基本にあるわけで、ここが自助Gと異なるところです。




★カウンセリング関係とは-------------------------------------------

たとえば集団カウンセリングに初めて参加された方も、次の段階は自分との向き合いになってきます。脚本を知り、IPの自分支配の仕方を知り、ICを救済し・・・というプロセスに入ります。それは意識を他者ではなく自分に向けると言うこと。

その過程に入ると「誰かに聴いてほしい」というのは“違う”ということに気づいていきます。「誰かに」と言っている間は、「自分は(自分の気持ちを)聴かない」と言っているのに等しいからです。

それがよくよく分かってくると、「誰かに聴いてほしい」という衝動が起こったときに、「自分が聴こう」と腹をくくるようになります。そこからが、本当の意味でのカウンセリングのスタートとなります。
group04

上図で分かるとおり、カウンセラーとクライアントは「自律」という目標を共有した「カウンセリング」グループとなるわけですね。そして、相互に信頼を持つことでエネルギーが循環し、創発(気づき)が起こって双方が成長していくわけです。

上記「循環」の項で書きましたように、言わば私は、自分が成長し続けられるからこそ、この「カウンセリングという行動グループ」に参加している(カウンセリングという仕事をしている)わけです。

このように、自律に向かって自分と向き合い始めた人は、「言いっぱなし聴きっぱなし」の自助Gには参加しないだろうということです。




★「ただ黙って聴け」という代償行為---------------------------------

では、どのような人が参加すると推測できるでしょうか。
冒頭に掲げたように、苦しんでいる人の欲求は「誰かに聴いてほしい!」です。その中で、上記のように自律に向かう人は「自分が聴く」方向に向かうわけですから、そうではない人々が残ることになります。

聴いてほしい中身は、
身を守るために構築した微細に渡る世界観(思考空間)か、
あるいは親のために頑張り続けてきた脚本ちゃんの苦労(不幸)話か・・。
(この段階では、嘆きや愚痴、怒りや嫉妬、恨みや憎しみは出てきても、本当のICは出てきません)

こういう方々は、ストローク飢餓も深いため「ただ黙って聴け」というくらいの衝動を持っています。そして、そういう人は聴いても聴いても止まるところを知りません。なぜか? 

すべての“衝動”の根っこには親との関係があります。
「黙って聴け」と言いたいのは親に対してです。が、それができませんから、「親に代わる他の誰か」を求めるわけです(代償行為)。
代償行為をいくら繰り返してもICは満足しません。ICがその気持ちを受け止めて欲しいのは、「自分」だからです。


「代償行為とは、自分がインナーチャイルドから逃げる行為」ですから、ICから逃げ続けている間中、代償行為をする相手を探し続けなければなりません。この場合、次のような構造になっています。

1,自分は親の世界に棲むことを(無意識に)選択している
2,その話をし続ける自分の姿を脳内親に見せ続けている

つまり、懸命にICを封印して脚本が頑張って、脳内親に忠誠を尽くしているわけですね。言い換えればそれほどに親が“大好き”だし、親が“怖い”と言うことです。

この場合、自分が“そこ”に止まるために言い続けているわけで、それを聴く人(たとえばカウンセラー)や聴く場(たとえば自助G)は、イネイブラー(今の状態=システムを維持する人)となってしまうわけです。




★「代償行為」と「自己投影」--------------------------------------

本人が自律に向かうつもりがありませんから、そこにできる人間関係は共依存(道具にし合う関係)しかありません。

・「自分が自分の気持ちを聴く」のではなく「誰か聴いて」
 →「代償行為」(相手を通して親に文句を言う)
・「自分が自分を救う」のではなく「同じ苦しみを持つ人を救いたい」
 →「自己投影」(相手を通して自分を救う)

こうして、
「聞いてほしい人」―「聞いてあげたい人」、
「救われたい人」―「救いたい人」、
「代償行為をしたい人」と「その人に自己投影する人」との共依存となります。
group05
たとえば勧誘に来る宗教を見ていて思うのは、「あなたを救ってあげますよ」と“勧誘”に行くと、「救って下さい」という人しか集まらないだろうなぁ、ということ。つまり最初から依存させる構造に取り込んでいくわけで、勢力拡大にはいいのかもしれませんが自律に向かうのは難しいでしょう。というのも、人は逃げ場がある限り逃げ続けるからです。
(ただ、それを必要としている人もいますので、その存在を否定しているわけではありません)




★スタートが肝心---------------------------------------------------

勧誘宗教の例でわかるように、入り方を間違えると出て行くことができません。中で共依存の迷宮に迷い込むことになります。上図を見て分かるように、その迷宮の中ではエネルギーは循環していません。互いが都合のいいように相手を利用しているだけです。

これがカウンセラーと相談者の間で起こった場合は、転移や逆転移として知られています。(詳しくは→陽性転移と陰性転移

こうなると、カウンセラーは鏡の役割を果たすことはできませんから、カウンセリング関係は成立しません。

当相談室が受付対象者の枠組みを設け、「自分が自分を救う決意」をした方だけを対象にしているのは、「自分から逃げない心構え」がなければ自律に向かうことがないからです。

また、初回にその方の半生のお話を伺って世代間連鎖の気づきにまで導くのは、自分の置かれている現状が自分自身が生み出したものであることに気づいてもらい、外に向かうのではなく内に向かう覚悟をしていただくためです。


相談者の方々が話されるのは、当然ながら「脚本ちゃん」の苦労話ですから、そのストーリー上で紡がれている感情に共感して終わってしまえば、脚本ちゃんにエンパワーして終わりになってしまいます。

その場合、脚本ちゃんは居場所を得たとそのカウンセラーに執着するでしょう。そして、脚本のストーリーに共感してもらうことだけを望み、それ以外は受け付けようとしないでしょう。

この場合、カウンセリングを続けることは本人の自律を妨げることになってしまいます。カウンセラーがイネイブラーになった、道具になったと感じたときは、その“舞台”から降りなければなりません。

そうならないために、本人の覚悟と心構え、そしてカウンセラー側の受け付け方、始まり方も、すべて自律の枠組みとして、とても大切なのです。




★目標を持たない自助Gの危険性------------------------------------

さて、例えばそういう人(脚本の苦労話をしたい人)がカウンセリングを受けているとすれば、カウンセリング料金がかさんでいくことになります。上記のような心理構造ですから、話しても話してもキリがありません。けれど、本人は逃げ続けなければなりませんから、そういう相手や場を確保しなければなりません。すると、どうなるでしょうか。

私もカウンセラー仲間がおりますので、いろいろと話を聞きますが、次のようなことが言えます。

1,カウンセラーが少しでも口を挟むことを嫌う
2,何かの折にカウンセラーに文句を言って料金を払わない
3,無料or低料金で話ができるところを探す
4,自ら場を作る

1,自律をしたいのではなく言い放しをしたいわけですから、カウンセラーからのフィードバックを必要としません。カウンセラーは自分と向き合う鏡としてではなく、代理親としてそこに置かれています(逆にカウンセラーに闇雲に従おうとすることもありますが、いずれも親の投影です)。

2,言い放しのためにカウンセラーの時間を確保するわけですから、その時間はすべて自分のために使いたいという欲求があります。カウンセラーとの循環は必要としませんから、カウンセラーがフィードバックした時間はその人にとっては“無駄”な時間となるわけです。その不満が募って、きっかけをつかんで料金踏み倒しをしたりします。
(その場合、相手を責めて自分が優位に立ち、言いっ放しの相手としてカウンセラーを確保することができればベストなわけです)

3,無料相談などで代償行為を繰り返します。また、依存症克服などの明確な目的を持たない自助Gを立ち上げたときに、上記「代償行為」の場として利用されることがあります。

4,何らかのスキルがある人は、自分で場作りをします。スキルを求めて集まってくる人に対して、指導者である自分はいかようにも代償行為ができるわけですね。




★当相談室のスタンス-----------------------------------------------

以上のことから、当相談室では自助Gを立ち上げることはありません。

「たった一人」は確かに苦しいでしょう。
けれど、全国、全世界にいます。

「たった一人」と思っている内は、
自分の中のインナーチャイルドに気づくことができません。

すべての状況と同じく、「たった一人」の状況も理由や意味があってそうなっています。外に向かうのではなく、そこを探り、気づいていくこと―それがすべての人がなすべきことだと思います。


ただ、自分の顔は自分で見られません。
鏡が必要です。

自分の顔を見る勇気を持った方は、
カウンセラーという鏡を見られるとよいと思います。

自分探しでのカウンセラーの選び方







加害者も被害者も特別な人もいない



 
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ゆっくりゆっくり

自分の感覚がわからない感じ、良くわかります。

それは「感覚すらない」感覚なんですよね。

「感覚を感じない」ことに気がついている自分がいるんだもの。

そんなときは、そのままの自分でいることを許してあげる。

感覚を感じない、麻痺してしまっていることを許してあげる。

感覚が麻痺しているってことは、感覚がちゃんと存在していること。

いいんだよ、って。だって、そうなった理由がちゃんとあるから。

それごと許してあげる。

その理由のすべてを、はっきりとは理解できていなくても大丈夫だから。

ゆっくりゆっくり、待ってあげると良いんじゃないかなと思います。

それも大切な自愛なんじゃないかなぁと思います。

 

でもでもあれなんです。
自分の感覚を信じるっていうのも真っ暗闇の中にいるとわからないんです。

自分の感覚すらないわけですから。

だから本当に難しいですね。中尾さんは違うって言ってるけど、ほかのカウンセラーさんや医師のなかに自助会は意味があるって言う人もいる。

だから自分の感覚を選択することが大事なんですけど、それがない・・・うーーーって感じですね。笑

自分の考えはとにかく 
憎しみを吐き出す!!!ってことです。

そうすると自分の感覚が少しずつ蘇ってくるからです。でも自助会で憎しみを吐き出すことなんてできないです。やっぱり人の目とか遠慮してしまいますよね・・。だから一人で憎しみを吐き出しているほうが近道なんじゃないのかなって自分は思うんです。

 

ぽぷら

自助会に参加して思ったことは
感情豊かなほとんどこの人回復してるんじゃ?
って思う人もいれば、真っ暗闇の中にいてる人もいるってことです。

確かに聞きっぱなしいいっぱなしだけど、なんとなく空気が重たいと自分は感じました。

きっと感情豊かな人は、自助会に参加してそこまで回復したのかもしれないし、逆に真っ暗闇の人は自助会がほとんど役にたってないのかもしれないし。ほんとに人それぞれだと思います。

ようは自分の感覚を信じればいいんだと思います。自分が自助会に参加して回復しそうだと思えば参加すればいいし、だめだと思えばやめればいいし。目標は一つ自分が楽になるためなんだからって思います。

自分は自律しだしてきているからなんとなく、自分しだいって感覚がわかるようになってきたんです。
数年前までこのブログにべったりだったときもあったけど、最近はほとんどこのブログとも距離をおけるようになって、中尾さんの言葉も距離を持って見れるようになってきました。

自律ってすべての人と距離がとれることなんだと思えるようになってきたのは自分が回復してる証拠ですこしうれしいです。

 

つばめさんへ

お気持ちきけてよかったです。

誤解がないように気をつかっていらっしゃるように感じました。

それから、自助Gもそうですが、なにを選んでいくかを
すべての人は、無数の選択しながら生きている気がしています。

世界観が合わなければ関われない繋がり
世界観が合わなくても一緒に居れる繋がり

自分次第で、さまざまだとも思います。

 

補足です

さっきのコメントに「その人と関わるかどうかを決めるのは自分」と書きましたが…
自助Gも、たくさんある選択肢のひとつ、と言いたかったのでした。
「自分で選ぶ」って、気分いいですよ。すがすがしい。結果がよくても、そうでなくとも、選んだのは「自分」ですから。選択も、結果も、私のものです。
昔に比べたら「でも~」「だって~」って言う頻度が落ちました。
「誰か」や「世間」の決めた価値観や選択の通りにするだけだったら、結果がうまく行ったとしてもそれは「自分のもの」という気がしませんでした。
・・・話が脱線したかもしれません。失礼しました。

 

私も経験あります

以前の話ですが私も自助Gに参加していた事があります。
そこで知り合った人達の数人と親しくなり、今ではふつうの友人と同じように長いこと付き合いが続いています。
人間は生きていれば変わるものなので、ケンカもしたり、疎遠になった人もいます。
でも、お互いに助け合ったり、耳に痛い助言をもらう事もありました。いやなこともありましたし、楽しいこともありました。
キッカケはどうあれ、人と人との付き合いは「自分」と「相手」のそれぞれに責任があると思います。
その人と関わるにしろ、関わらないにしろ、決めるのは『自分しだい』、関わり続けるか、距離を置くかを決めるのも『自分しだい』だと思うのです。

 

自助Gを中尾さんは、否定しておられません

いまの自分が必要なら主体性をもち
されても良いと仰っているのではないでしょうか

「だまってきく」

が、異議申し立て禁止に通じている
そうした意味合いを含んでいると
わたしは、受け取れました

(内容は、中尾さんが書かれていることに
足すとこがないので、あえて書きませんが)

この記事の本質は、「自分のうちがわに全て在る」
だと思うからです

 

自助G

こんにちは。以前からこちらのブログを読んで参考にさせていただいております。
私も自助グループに参加しているのでなるほどーと唸りながら興味深く読みました。
ただ、

>このように、自律に向かって自分と向き合い始めた人は、「言いっぱなし聴きっぱなし」の自助Gには参加しないだろうということです。

と書かれてしまうと、「自助Gに参加しているおまえは、自立に向かって自分と向き合っていないのだ!」と決めつけられたような気がして「えっ、ちょっと待って」となるのですが(汗)
実際のところ自助Gといっても「言いっぱなし聴きっぱなしのミーティング」という枠組み以外での、自由な交流(フェローシップ)がつきものであったりしますし。

いずれにせよ、自分の感覚を信じて、自分にあった自分に心地良い(自分を甘やかすという意味ではなく)場を探したりつくったり維持したりしたいなと思ってます。
自助Gはぜんぶダメ、とか、自助Gはすべてすばらしい、とかではなく。

 

色んな人に押し付けられたこの嫌な気持ち。それぞれにそっくりそのまま返してしまいたいのだけれど(仕返しという意味ではありません。あくまで返還です)、そういう人に限って上手に雲隠れします。私はゴミ箱じゃないっての。
とにかく私私私!私ショーを見て!な人は、会うだけで物凄いエネルギーを消耗する。相手は愚痴るだけ愚痴ってサッパリして、肌艶よくなって、こちらはゲッソリ疲れて苛々して醜くなって。なんじゃ、これ。
逆の立場になって、これ以上足の引っ張り合いするのもバカバカしいし、さよならー。

 

皆さん自助グループに参加された経験がおありでその上で否定的な意見が多い事に驚いてます

自助グループとは鏡の役割をするモノで自分ではなかなか気づけなかった事に気づく有意義な集まりだと思ってました。が。受け手の状態次第ではマイナスにも作用するものなんですね
でも。
ここに集まる方達はきっと今より良くなりたくて苦悩されているんだと思うし
傷を舐め合うだけの関係ではなく自制心を持ちもっと発展した愛情深い自助グループを作れるような気がするのですが・・
チームまほろば。。あったら良いと思うけどなぁ

 

僕は自助会はあわない

自助グループいったけど一回でいかなくなった人間です。

なんだろ肌にあわんかったんかな。

やっぱり本当に信頼できる人に話したいっていう気持ちがどっかにあってなんとなくその場の雰囲気が嫌でやめちゃいました。

でも今自律にむかってます。感情に伸びがでてきた感じがあります。一進一退ですけどね・・

 

ぐちだの~

覚悟はなぁ…
だんだんできてくもんなんだろうけどなぁ…
そのプロセスもまたなかなかのもんだよなぁ…
人を引き受けててばっかりきたから、自分を引き受けるって感覚が『ない』のだ~
人を引き受けてきたことも『当たり前』やったから、その感じも『わから~ん』
それをこっちで育てつつ、そっちの方でオタオタ振り回されるのも観てる感じ。
『いま、ここ』なんて、ずっと先に思えて

こぇ~よ~

って泣いてる

ふぇ~ん(|||x|||)

この『お手上げ』といっしょにいるしかないっていう覚悟かのぅ

 

かじ取りのいない自助グループはあやういことがよくわかりました。集団カウンセリングとは違うのですね。
参加したら、私もイネイブラーになるかもしれません。もしくは、「場をつくる」ことをするかも。

「黙って聞け」…母親にも兄にも夫にも言われてました。
そして私も、苦しいとき友人に同じようなことを求め、その結果、友人は去っていきました。

今は代償行為は影をひそめてきましたが、反動のように自己投影が出てきて「黙って聞け」な人を次々と引き寄せてしまいました。「受け皿」として生きてきた脚本が活躍の場を求めているみたい。
それが自己投影だと気づいたら、変わっていけるのでしょうか。

自分を救いたいとは思いますが、「覚悟ができているか?」と問われるとよくわからない…

「覚悟ができました!カウンセリングを受けます!」と言い切れない自分がもどかしいです。

 

連続すいません(≧∇≦)

自助グループの体験からの気づき。

体調不良のとき、病院にいきつつ
知人の紹介で、レイキヒーリング、リトリーバル(魂の救済)を
安価でしてもらい、その繋がりで

ヒーラーを勧められたことがある

あの時点では、なにもわたしは
相談も希望していないわけだが

どうも、そのヒーラーティーチャーは

厳しい環境で自分をなくさないために
思いや感じ方を綴ったブログをみて

幸せな人になってください

と、唐突に言い

事情を話して、といってくる

しかし、自己欺瞞がつくりだした現実につき
わたしは、解決策は
自分の内側をみつめるしかないと
わかっていた

だからこそ、いや、いいと言うが
しつこく詰問する

で、さわりを話すと、スピリチュアルの方法論で
カテゴリーしてきたりラベル張りをしてくる

で、その方法論で適応できない、、と
レイキヒーリングティーチャーが



あ、強い人なんだ!
そうだ!
それから、泣きそうな顔しないほうがいい
あと、この話は人にしない方がいいよ

かいそうって思われると波動下げるから



そのレイキヒーリングティーチャーは
それを、わたしに伝えると
真っ黒な顔になり、顔が割れたかのような
表情をしていた。。。。

インパクトありました。。。。



で、精神的に弱い人が依存したくなる
スピリチュアル??と
すっかり色眼鏡がだいぶつきました(≧∇≦)

。。。あれから、二年立ち
色眼鏡こそ、横に置けるレベルですが
ハイ、わたしまだ若干イライラします(≧∇≦)

 

次回こそ参加したいです

今回の記事をみて益々
スリーテンに参加しておけば。。。と
後悔します

家族が〜

と、なんだかんだと理由つけたのは
脚本ちゃんでした。。。

トホホ

肯定的に受け止めながら
自分の感情解放する訓練には
もってこいの場でしたのに。。。

次回こそは、参加します

まずは、お金ためますです〜

 

自助グループではないけれど…

去年冬に大変な思いをしました。

何気にかかってきた知り合いからの電話。

親との関係から長い間体調を崩していることは前から知っていたけど、あえてその話はしたことがなかったのに、ふとしたことでその話題に…

ホント凄かった。
絡みついてくる様な、のしかかってくる様な、覆いかぶさってくる様な…
なんともいえないしんどさでした。

こっちの都合はお構い無しで昼夜問わず、電話にメール、訪ねてくるし(x_x;)

機関銃の如く喋りまくり、怒りまくり。

短い期間でおかしいと気づけたのはこちらのブログのお陰でした。

後になって「あ~こういう事だったのか」とふに落ちました。

 

無責任で危険なことをしていた当時の自分を振り返えりました。

自助グループのお話、大変興味深く拝見しました。
私も話を聞いてくれる自助グループを探していた時期がありました。

>相談者の方々が話されるのは、当然ながら
 「脚本ちゃん」の苦労話ですから、そのストーリー
 上で紡がれている感情に共感して終わって
 しまえば、脚本ちゃんにエンパワーして終わり

10年以上前の話ですが、相手の話を「しっかりと、根気よく、ねばり強く」聞いた結果、べったりと寄りかかられてしまったことが何回がありました。
何ともいえないまとわりつくような重苦しさ、息苦しさを感じました。
当時の私は「あんなに頑張って、エネルギーを使って、クタクタになりながら話を聴いたのに、どうしてこんなことになってしまうのか?」と悩んでいました。

でも、今ならば判ります。
私がしていたことはまさしく『イネイブラー』でした。
自分の抱えている問題と他人の問題を分けて考えることができないまま、ただただ相手の話を「聞いて、聞いて、聞き続けて」いました。
入口が「受容と共感」ならば、出口は『自律』なのですね。
お互いに出口の意識がないままでは成長は望めないのですね。

結局彼ら彼女らとは、交流を絶つことで関係を終わらせました。
私は逃げたのです。
それしかあの人達を振り切ることはできませんでした。
後味の悪さ、つぎ込んだ時間やエネルギーが無になる空しさ、そして無責任に人の話を聞く怖さ、恐ろしさ・・・。

改めて当時を振り返る機会を与えていただき、有難うございました。

 

タイミングが良い!

もうだいぶ長い期間心療内科の薬の依存で苦しんでいていろんなところに助けを求めて話を聞いてくれる人はいても全然気持ちが晴れなかった。苦しみから逃れようと無理して元気な感じで行動したりもしたけど虚しくなっただけだった。そんでやっぱり誰かに助けて欲しいとか行為に依存することは違うし自分がしんどくなるだけだなーと思って久々にこのブログ覗いたら思ってたことと一致してた!
どーも油断するとまわりに翻弄されちゃうんだよなーまた焦らずに自分の身体や心の声に耳を傾けて好きなことをやってこうと思う。んで好きなことだからって執着しすぎたりオレにはこれしかないとか思い込まないようにしたい!なんか強迫観念みたくやらなきゃーみたいにやってるときあるから本当に無理がないか気を付けたい。ちょっと長くなっちゃった。

 

自助グループ


>過去に、人からすすめられて、2つの自助グループに参加しました。
>1つは、父がアルコール依存だったので、アルコール依存の方の集まり。
>私以外は自己開示せず、参加者は当事者ではなく、ご家族だったこともあり、そういうこともあるのね、という反応でした。こちらは1度限りで止めました。
>もう1つは精神疾患の方の集まり。
>支援施設の中にあり、施設内のメンバーが参加なので、匿名性はないですが、個室で行い、その場での話は、外ではしないことになっていました。
>参加するうちに、
『この場所は、私にとって必要な場所なのかなぁ』
と疑問を持ったので、少しずつ距離を置いて、今は全く行ってないです。
>こういう場所が、必要な時期もあったんだなぁ、と今は思っています。


 

最近、友人の愚痴の聞き役で辟易…私も話したい事があったりするのに、ホント、「いいから黙って私の話を聞け~!!」って勢いで、プライベートから仕事の話まで捲し立てられ、ヘトヘトに。夕べ、そんな友人に「狡いよ!!」って怒る夢を見た次第です…(^^;)
グチグチぐだめく関係って、進歩しないなーって。話を聞いてると、同じところをぐるぐるとヘビーローテーション。途中で、ああ、この人は解決したくて私に相談してるんじゃなくて、ただ愚痴りたいだけなんだと気付く。真面目に聞いていた時間が無駄!と腹が立つ。(後で色々気づく事もあるから、一概には言えないけど…)
近頃、時間だけじゃなくてパワーも吸い取られているような感じがして。
相手は愚痴ってスッキリ、私は愚痴に辟易としてしまってグッタリ。
友情なんかじゃなくて、依存関係だったんだなーって気がついてガッカリ。

 

納得

私もすごく附に落ちました。

もし、まほろば講座じゃなくて、
「みんなでみんなの話を聞いてラクになりましょう」の集まりがあったとしたら、
怖くて行こうと思いません…(呑み込まれそうです)


変な言い方ですが、初めてまほろば講座を参加して、
まほろば講座を振り返ると
「ちゃんと計算されてるなぁ、これがプロなんだなぁ」と
感心しました。だから私も安心して自分に苦しむことが出来た。

自分に苦しむことで、自分に気付きが生まれました。


自助グループは、まほろば講座で十分担っていると私は思います^^

 

こういう方々は、ストローク飢餓も深いため「ただ黙って聴け」というくらいの衝動を持っています。そして、そういう人は聴いても聴いても止まるところを知りません。なぜか? 

・・・・・・・昨日これを言われました。
「お前は俺の言うことを黙って聞け」
「文句言うな」
「俺はお前の言うことを黙って聞いてる」

わたし、、
「言われていやな事には嫌やって言うよ」
「これは文句じゃないやろ」

「お互い相手の話を聞き流して話したいことだけ言ってるなんて、そんなの会話じゃないって思う
そんなのさびしいわ」

わたしはこの人に絡んでるのかな。。。。
執着してるのかな。。。。
わたしが仕掛けたゲームなんかな。。。。

 

自助グループに関する分かりやすい解説をありがとうございました。

とても腑に落ちる内容でした。

もし、自助グループの集まりがあったとしても、私自身は参加しないと思います。

まほろば講座なら喜んで参加しますが(笑)


誰かに会いたい。
誰かに話しを聞いて欲しい。

そんな時に繋がるのはハラスメント界の人々。

辛い時こそ孤独に身を置き、自分と繋がりたい。もちろん、そうした行為はとても辛い。

でも、自分と繋がった後は必ず一皮むけているというか、自分らしさが増している事を実感できる。

そう、自分を救えるのは自分だけ。

自分と向き合う決意をするのも自分自身。

その勇気を持てるかどうかが人生を隔てる分水嶺か。

そう考えると、自分の人生は全て自分の責任で生きているんだと理解する事もできる。

今日も自分の理解が深まりました。

中尾先生、素敵なきっかけをありがとうございます。

 
    
 
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