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【縄文vs弥生】1.大和朝廷とまつろわぬ民

2014/01/10(Fri) Category : 神社・寺・城・歴史
島巡りの後、昨日の「斎太郎節」にも出てきた瑞巌寺を見ておこうと立ち寄りました。興隆と荒廃、宗派の転変を繰り返した瑞巌寺は、とても興味深いものがあります。

年末年始の休日を利用してちょっと調べてみると、とてもおもしろく、列島には、縄文パワーが脈々と流れているのだなぁと言うことがわかりました。日本の底流に流れる縄文と弥生(出雲、大和)の相克について興味のある方もおもしろいと思います。

瑞巌寺の変遷を縦軸に据えて、下記の時代を概観していきます。各時代の下に書いてあるメモは、各期の特徴を表す物事及び本記事に関係するものを挙げています。


・飛鳥(574~)
 推古天皇&聖徳太子、十七条、法隆寺、壬申の乱、天武&持統天皇(倭→日本へ)、藤原京
・奈良(710~)
 平城京、記紀、万葉集、聖武天皇&光明皇后、国分寺、東大寺
・平安(794~)
 平安京、桓武天皇、征夷大将軍坂上田村麻呂、アテルイ、最澄、空海、円仁、平将門の乱・藤原純友の乱、源氏物語、藤原道長摂関政治、奥州十二年合戦、奥州藤原氏、保元・平治の乱、太政大臣平清盛
・鎌倉(1185~)
 征夷大将軍源頼朝、鎌倉幕府、北条時政執権政治、南北朝
・室町(1338~)
 征夷大将軍足利尊氏、室町幕府、金閣&銀閣寺、倭寇、勘合貿易、応仁の乱、一揆、戦国
・安土桃山(1575~)
 信長、太政大臣豊臣秀吉、朝鮮出兵、関ヶ原
・江戸(1603~)
 征夷大将軍徳川家康




慈覚大師円仁-------------------------------------------------

「仙台平野の歴史津波」が教えること』で書きましたが、日本で大和政権が確立したのは670年頃―東北を本格的に管理するために仙台郡山に大官衙が建設された頃です。

しかし、その大官衙は歴史から消された巨大津波(700年頃)により破壊され、724年頃に多賀城の高台に国府は移されました。つまり、東北支配の緒に就いたものの、事はうまく運ばなかったわけです。

そして国府が建設されて100年後の828年に、淳和天皇の勅願で、延暦寺の慈覚大師円仁が3000人の僧侶を引き連れて、東北の地に乗り込みました。すごい規模ですね~。その円仁が延暦寺に匹敵する寺として開いたのが延福寺―それが瑞巌寺の起こりです。


円仁は、比叡山延暦寺(天台宗山門派の総本山)を開いた最澄の最高の弟子であり、浄土宗の開祖法然が私淑した人物。中国の天台山目指して命がけの渡航、密入国を繰り返し、入唐してからは新羅人社会の助けを得て五台山に登頂。

約10年に及ぶ苦難の旅路をまとめた「入唐求法巡礼行記」は日本人初の本格的旅行記として、また玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに三大旅行記のひとつとして世界に知られているそうです。




伝教大師最澄-------------------------------------------------

さて、最澄が出てきましたね。
私が講座でもお話しする「一隅照灯」

元は、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」→金銀財宝が国宝なのではない。今あなたのいるその場所を照らすこと(人)こそが国宝である―という最澄の言葉です。

「すべての人が仏に成れる」という信念を持つ最澄にとって、当時の国に統制された仏教は国による人民支配の道具であって、人々のためのものではないように思えたことでしょう。

当時、僧になるためには250もの規則を守る具足戒の儀式を経なければならず、また法体系も一般人とは異なるなど、僧と一般人は厳しく区別、管理されていました。

そこで最澄は、19歳の時東大寺で受けた具足戒を52歳にして捨てたのです。今で言えば、苦労して得た国家資格(国お墨付きの僧侶資格)を捨て去ったと言うこと。

その上、比叡山に天台宗独自の戒壇院を建立することを天皇に願い出ました。戒壇とは僧になる資格(戒)を授ける場のことで、当然のごとく国家仏教側は大反対しました。(最澄が亡くなった7日後にOKとなりました)

最澄は死に際して、「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と伝えています。
―私の志だけを後世まで伝えてくれと言っているわけです。

知れば知るほど、好きになりますね。最澄って。




★最澄と桓武天皇とアテルイ-------------------------------------

こうしてみると、最澄のやっていることは純粋ですが、体制(既得権益)にとっては破壊です。今で言えば、秩序を壊すテロと言われるでしょう。

なぜ、そういう最澄が表舞台に出てくることができたのか。それは、奈良仏教の影響力を厭うた桓武天皇が抜擢したからです。体制改革を進めようとして孤立無援だった桓武天皇にとって、最澄は心のよりどころだったのでしょう。その桓武天皇も最澄の祈祷むなしく806年に没しました(69歳)。


桓武天皇は、801年に坂上田村麻呂を征夷大将軍(蝦夷を征服するための大将軍)に任命して蝦夷討伐を行っています。大和政権確立(=天皇制確立)から100年以上経っても、724年に多賀城に国府を設置して以降も、蝦夷(東北)には縄文勢力があったわけです。

当時、蝦夷を率いた英雄がアテルイ
アテルイは、我が身を差し出すことと引き替えに蝦夷の民を救います。田村麻呂もアテルイを助けようとしますが、詮議の結果惨殺されます。

これ以降、征夷は行われず(その後あっても、地域の問題と見なされています)、天皇の諡号に「武」がつくのは桓武が最後となります(神武・武烈・天武・文武・聖武・桓武)。桓武は天皇による国家支配を確立するために征夷と造都に邁進し、国民を疲弊させました。そして805年の徳政相論によって自らの方針を終わらせました。国家を武力で統帥する軍人天皇の時代はこれで終わりを告げます。
延暦24年(805)12月~延暦25年(806)1月 徳政相論
延暦25年・大同元年(806)3月~5月 桓武天皇(70歳)没す。 




★坂上田村麻呂とアテルイ----------------------------------------

このヤマトの仕打ちに対する深い恨みが、東北の地には残ったことでしょう。その後、移住させられた縄文人達によって各地で乱が起こる一方、平泉には縄文底流の文化が栄えることになります。
今も、アテルイの無念は受け継がれているようですね。


【阿弖流為音頭(あてるいおんど)】

歌詞に「この牧野でも」とありますね―
アテルイと副将モレの処刑地は河内国植山(日本紀略)であり、それは現在の宇山と比定されています。また、大阪府枚方市牧野の坂地区と宇山地区には古来からアテルイの首塚と胴塚の事が伝承されているそうです。パワーの復活を恐れた征服者側が、首と銅を切り離して埋めた事例はまま見られますが、アテルイもそうだったのでしょう。いつかお参りしたいものです。

また、田村麻呂にゆかりの清水寺の境内に、アテルイとモレの慰霊碑がひっそりと建っているそうです。岩手県の地元有志が1994年に両将の鎮魂のために建てたものだそうです。
追記:行ってきました→アテルイとモレの碑


坂上田村麻呂が東北の人たちに信奉されているのは、田村麻呂が寺を多く建ててエミシ達を教化し稲作を教えたこと、そしてアテルイを助けようと尽力したからでしょう。

また、アテルイ討伐後、桓武天皇は第4次征夷を計画しましたが田村麻呂は動かず、結果的に征夷はなされませんでした。田村麻呂が東北を守ったわけですね。
延暦22年(803)~延暦23年(804)6月 坂上田村麻呂、志波城造成開始し、翌年征夷大将軍に再任される。




★まつろわぬもの達と鎮守府-------------------------------------

大和政権にとって、この東北(鬼門)の「まつろわぬ民」達の扱いはとてもやっかいなものだったでしょう。なまはげの鬼や荒神となったアラハバキ神を思い出しますね。


【男鹿の「なまはげ柴灯まつり」】


“まつろわぬ”という言葉にはいろいろな漢字が当てられているようです。
・祀ろわぬ
・奉ろわぬ
・服ろわぬ
・順わぬ

上二つは、いわゆる記紀神話に出てくる神々や天皇を祀(奉)らないという意味でしょう。記紀に出てくる国津神は、いわば大和政権に取り入れられた神であり、記紀にも出てこない封印された神々はたくさんいらっしゃるようです。
下二つは、大和政権に従わないという意味でしょう。

自然とともにある縄文人は自然の摂理に従いこそすれ、人工的な律令に従う気はなかったのでしょう。


最澄の一番弟子円仁に東北行きを依頼した淳和天皇(53代)は、桓武天皇(50代)の子です(間に来る51代平城天皇、52代嵯峨天皇は異母兄です)。

淳和天皇が円仁を選んだのは、円仁が父が慕った最澄の高弟であること、また、父が討伐した東北の地を癒やすためには、「すべての人が仏に成れる」という教えを持つ天台宗がよかったのかもしれません。そして蝦夷を教化するためにも、3000人もの大僧団を送り込んだのではないでしょうか。

なお、朝廷を守るために国府の置かれた多賀城を鎮守府と呼ぶようになりますが、坂上田村麻呂が胆沢城を築いてからはそこが鎮守府となりました。以降、鎮守府将軍は武士の名誉職となっていきますが、そのくらい東北は容易ならざる地だったということです。

また、710年平城京、712年陸奥国・出羽国が成立後すぐに1千戸を東国から陸奥に移住させたり、蝦夷の拠点の一つ胆沢を支配すると、802年には、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国から4千人が胆沢に移住させたりしています。一方、縄文人達も国内各地に移配させられ、国策として縄文人と弥生人の混血融合が進められていきます。


以下、<瑞巌寺随想>と表題を付けていましたが、【縄文vs弥生】に改題しました。



【縄文vs弥生】

1.大和朝廷とまつろわぬ民(本項)
・慈覚大師円仁
・伝教大師最澄
・最澄と桓武天皇とアテルイ
・坂上田村麻呂とアテルイ
・まつろわぬもの達と鎮守府

2.列島激震の200年、縄文人と弥生人の融合
・大和政権成立後、列島激震の200年
・大和朝廷の縄文人同化政策
・俘囚(縄文人)の移住と公民(弥生人)との融合

3.国司の横暴と俘囚(縄文人)の反乱と藤原純友
・俘囚の移配地への土着と反乱
・海賊と国津神系の藤原純友
・受領の苛政と純友の乱
・思うこと

4.俘囚(縄文人)から武士の発生と平将門
・天皇(神/尊)と俘囚(鬼/卑)の血を引く将門
・まつろわぬ民達の怨念のタワー「新皇」将門
・侍の守護神となった平将門
・「大和魂」は「縄文魂」

5.平忠常とアテルイ
・平忠常とアテルイ
・平忠常と千葉神社

6.縄文(弓・馬)と弥生(稲作)の融合~陸奥安倍氏と出羽清原氏の隆盛
・弥生東征、縄文との融合の歴史
・蝦夷とは追い詰められていった縄文人のこと
・朝廷軍事基地(弥生)の北上
・交易で栄える蝦夷に稲作をもたらした田村麻呂
・陸奥安倍氏と出羽清原氏

7.俘囚の上頭・奥州藤原氏と黄金の国ジパング
・まつろわぬ者達の「繁栄のタワー」藤原清衡
・奥州(藤原氏)経済圏
・京(首都)をしのぐ勢いの平泉
・黄金の国「ジパング」とは奥州(平泉)のこと?

8.縄文人とインディアン~ペトログラフが語るもの
・縄文人とアメリカインディアンとある米国映画
・習俗にも風土にも古代が残る奇跡の国ジャパン
・皇紀(神武紀元)以前の2つの王朝と幣立神宮
・縄文時代にあった文明圏
・ペトログラフが示す真実
・ケネウィックマンは何を語る
・「和をもって貴しとなす」
・虚構世界を終わらせよう






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瑞巌寺建立、三千人もの僧侶・・・
武力では東北の民を統制できないと思い知った朝廷側が、精神的な方面から統制するために仏教を使ったのではないかと考えてしまいます。

松島、多賀城跡、アラハバキ神社にも行ったことがありますが、アラハバキ神社は独特の雰囲気で、中央とは違う、土着の「気」に満ちているようでした。
今でも東北の人々の中には国家中枢に対する「反発心(?)」のようなものを感じます。

 
    
 
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