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【縄文vs弥生】3.国司の横暴と俘囚(縄文人)の反乱と藤原純友

2014/01/15(Wed) Category : 神社・寺・城・歴史
【縄文vs弥生】

俘囚の移配地への土着と反乱-----------------------------------

移住させられた縄文パワーは治まらず、各地で俘囚(縄文人)が反乱を起こすようになります。

<俘囚の乱>
814年 荒橿の乱(出雲)
848年 上総俘囚の乱
875年 下総・下野俘囚の乱
878年 秋田俘囚の大乱
883年 上総俘囚の乱
897年 俘囚を奥羽に帰還させようとする

乱の起きている土地が興味深いですね。縄文人が多く移配された土地(そういえば房総には読めない地名が多いよね)、及び出雲族の地―つまり、ヤマト民族に支配された恨みが強く残っている地です。
「夷を以て夷を制す」政策の実施ですね。

けれど逆もありで、「夷が夷を迎える」場合もあるわけです。800年には俘囚を厚遇しすぎたとして桓武天皇が出雲を叱責しています。出雲族と縄文人のパワーの融合を恐れたのでしょう。その恐れ通り、力をつけた俘囚が814年に出雲で反乱を起こします。

そのとき、遠胆沢公母志(とおついさわのきみもし=胆沢より遠方の地の蝦夷の族長モシ)が、意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模な乱を起こした叛俘(はんふ=謀叛を起こした俘囚)を討った功績で外従五位下(げのじゅごいげ=貴族の末端)を授けられていますが、つまりは俘囚が俘囚を討ったわけです(朝廷の狙い通りですね)。

このことでわかるのは、このとき既に岩手から西日本に移住して定着し、朝廷のために仕事をしていた俘囚がいたと言うことです。


他には、警察力や軍事力として九州北部や瀬戸内海に多く移配させられていたようです。自然とともにあった縄文人は山人であると同時に海人でもありましたから、その機動力は大いに使えたことでしょう。

たとえば、吉備(岡山)。古代、筑紫、出雲、大和、越、毛野と並ぶ勢力でした。しかし、200~300年頃に大和政権が吉備津彦を派遣して温羅(うら)を討ち、吉備を支配します。これが吉備団子でお馴染み、鬼退治の桃太郎伝説となりましたが、地元では「うらじゃさま」が慕われているのは以前見たとおり。

その後、持統天皇が689年に分国(備前、備中、備後)。この吉備にも、瀬戸内海の海賊対策の他に産鉄のために俘囚が多く移配されました。警備力、労働力として俘囚が用いられていたわけです。この地に備前長船という名刀が生まれ、全国の刀工の半数が備前ものになったのも、縄文文化の影響ではないでしょうか。


さて、反乱に手を焼いた朝廷は897年に俘囚を奥羽に帰還させようとしますが、もう移配してから200年経つ俘囚もいて歴史も持ち、部落も形成されていました。各地に500を超える俘囚部落が残り、これが被差別部落の一部になったという調査もあるようです。一方で、純友や将門が生まれた900年前後には、移配地で豪族と混血した俘囚も多くいたと言うことです。




海賊と国津神系の藤原純友-------------------------------------

純友は、伊予(愛媛)の名族・越智氏の一族である高橋友久の子として生まれたそうです。将門の母も下総の名族・犬養氏で、俘囚と混血していましたから、地方豪族が力をつけるために移配俘囚と混血していった事例は多々あるのでしょう。

そして、そのことに積極的になるのは、出雲や吉備のように大和政権に内心反発している地域だからかもしれません。国津神系と縄文人は相性がいいようです。純友も将門と同じく俘囚の血を引いていた可能性は大いにあります。

伊予国一宮は、越智郡大三島町に鎮座する大山祇神社です。祭神オオヤマツミは国津神系で、それを一宮(その地域の中で最も社格の高い神社)として堂々と奉っています。オオヤマツミの子孫にオオクニヌシがいます。

オオヤマツミと天孫族との関係では、オオヤマツミがニニギに娘のイワナガヒメとコノハナノサクヤヒメを嫁がせようとし、イワナガヒメが送り返されたことに腹を立て、「天孫の寿命は短くなるだろう」と告げ、以降天皇の寿命が短くなったという神話があります。

オオヤマツミを祀る神社で有名なのは、総本社とされる上記大山祇神社の他に三嶋大社(静岡県三島市)。駿東に住んでいた頃に三嶋大社はよく行きました。また、愛媛は生まれた地(宇和島)なので、いつかいってみようと思います。
(追記:生まれ故郷への旅


話がそれましたが、各地に「うらじゃさま」のような地方豪族がいましたが、その地方に大和政権は国名をつけ、国司(絶対権力を持つ知事のようなもの)を派遣して統治しようとします。

伊予国も陸奥国や出羽国と同じ頃に国名を付けられたようですが、国名がつけられたからと言って朝廷の力が及んでいたわけではありません(前記事、アテルイの反乱で見たように)から、国司は横暴を極めていきます。

そして、平将門や藤原純友が乱を起こす939年には、出羽国で俘囚の反乱が断続的に続き、尾張国では国司が殺害されたり、940年には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしたり、日本全国「同時多発テロ」の様相を呈するようになります。

海賊、群賊、凶党と呼ばれていますが、そこにいるのは国司の圧政に苦しむ民衆や俘囚達、母腹の関係で身分差別を受けている者達、朝廷の機構改革で解雇された役人達だったのではないでしょうか。その民が国に反抗すれば海賊と呼ばれたのでしょう。

けれど、背景に国司の横暴があるからと言っても、つまり悪しき秩序であろうとも、秩序を乱す者はテロと見なされます。藤原純友も海賊の討伐に当たっていたわけですが、いつのまにやら自らが海賊の頭目になっていました。




受領の苛政と純友の乱(940-941)------------------------------------

少し話を戻します。

地方豪族の越智氏は、勢力を伸ばすために伊予の国司として藤原良範が着任したおりに、純友を養子に出しました。これ以降純友は、良範の子として藤原純友を名乗ります。

なぜ、良範に養子に出したかというと、良範の叔父藤原基経(日本史上初の関白)が清和・陽成・光孝・宇多の四代の天皇にわたって朝廷の実権を握っていた権力者だったからでしょう。

良範は、南を押さえる軍事拠点太宰府に赴任します。太宰府は東北の鎮守府に当たるものですが、今や貴族が唐からの物品を購入する入り口でもありました。その物品を京へ運ぶ瀬戸内ルートで海民が活躍していたわけです。純友は太宰府を通じて、貴族達が豪奢な生活を送っていたことを目の当たりにしたことでしょう。

その貴族のお金の出所は税金です。桓武の時代までは、人に税金をかける人頭税(租庸調)でしたが、俘囚の移配→税免除→俘囚との混血などによって戸籍把握が難しくなり、土地課税に変化しました。

公田を地方豪族に名田として請け負わせ、国司は豪族から税を取る方式に変えたのです。豪族は負名(ふみょう:名田を請け負った者)と呼ばれ、国の末端徴税者となってしまいました。そして、過剰に税を取り立てようとする受領(ずりょう:徴税する国司)と負名の間に対立が生まれてきます。

一方、932年、伊予守であった藤原元名(良範の従兄弟)は、純友を伊予掾(守:かみ>介:すけ>掾:じょう>目:もくの順で、地方公務員)に任じ、地元に戻します。

936年、2500人の海賊が投降していますが、そこに純友がどうかんでいたのかわかりませんが、その頃には海賊の頭領になっていたようです。

940年、備前及び播磨で受領の苛政に対して負名が決起。その決起に援軍を送ったのが、藤原純友でした。朝廷から見れば逆賊であるにもかかわらず、苛政を諫めるためか、東の将門に集中するためか、乱を起こした藤原文元を備前介にし、純友は従五位下の貴族に取り立てています。

しかし文元は暴走し、備中をも支配。純友の郎党である藤原三辰が讃岐・阿波国を征服。将門が東国を支配したように、純友の郎党は瀬戸内全域を支配しました。将門を討伐した朝廷は、「純友の郎党」をターゲットに討伐に向かいます。ここにきて、純友は決起したわけです。

941年、純友は太宰府を襲撃し財物を手に入れ、それを元手に体制を整えようとしますが、博多湾の戦いに敗れ、その後捕らえられて獄死したとも、斬首された首が酒漬けで京に送られたとも、南海の彼方に消息を絶ったとも言われているそうです。




思うこと-----------------------------------------------------

・・・「乱」と言われると、乱を起こした人物が悪者に思われます。しかし、ここで見た俘囚の乱にせよ、純友の乱にせよ、その背景にあったのは支配側の苛政でした。

支配側が道理にあわないことをした場合、身を守るために立ち上がる―当然のことだと思います。
海賊、群賊、凶党というレッテルに惑わされずに、その背景にある環境に目を向けることが大切ですね。

現代も同じ。デモでさえ「テロ」と言われるのですから。


皆様は、藤原純友という人物にどういう人間像を見たでしょうか。



<おまけ>


日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海




<続く>

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