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二世帯同居の経緯

2014/08/25(Mon) Category : 二世帯同居・介護
◆「ありのままで」--------------------------------------------

「あの歌が聴きたい」
84歳の母が、今も寝る際に聞きたがる歌があります。
May J.の「Let It Go ~ありのままで~」です。

5月中旬、実家に引っ越しの段取りで行っていたときに、Mステで幕張総合高校のコーラスをバックにMay J.が「ありのままで~」を熱唱しました。たまたまその部分を見た母の目が釘付け。その熱唱ぶりに気持ちが奪われたようでした。

そして、6月上旬に我が家に同居し、私がアレンジして作ったCDを聞かせました。「アナと雪の女王」の劇中歌のいくつかと、その最初と最後をMay J.の歌で挟んであります。

それを聞いた途端、「いい歌ね~」。
以来、よく聞きたがり、寝るときは定番でした。

80年間、我慢で生きてきた母の心を揺さぶるものがあるのでしょう。
素晴らしい歌は、世代を超えますね。


先日は、気持ちよい風の中で庭を眺めながら、「しあわせ」とつぶやいていました。

ほぼ寝たきりになりつつあった状態から、今は週2回のデイサービスも軌道に乗り、笑顔も出ます。母が来た当時のことを知っているケアマネさん他介護関係の方々も、1ヶ月後には「まるで違う」と驚かれていました。


父は父で、あれだけ執着していた車を手放し、歩くようになって腰痛が楽になったと喜んでいます。朝のラジオ体操にも出て近所づきあいが始まり、実家の方では厭がっていたデイサービスにも週1回通っており、畑でとれた野菜を毎朝台所に持ってきます―オートライフ一辺倒だった生活スタイルが、革命的に変わりました。


一段落した今、二世帯同居の経緯と留意点についてまとめておきたいと思います。何らかのご参考になれば幸いです。

◎二世帯同居の経緯
・ポリシーを持つ
・つるべ落としの老化
・妹のメールから覚悟を決める
・夫婦連合を確立せず子に寄りかかる親
・老夫婦に起こる現象(サイン)の意味
・「壁」になって父に引導を渡す
・311で揺さぶられた私のインナーチャイルド
・「気持ちで動け」というメッセージ
・解けた母の謎(人生脚本)
・禁止令の解除
・母の執念
・実態をこの目で確認する
・変わり果てた母の姿にショック
・母の劇的変化(生きる意欲に火がつく)



◆ポリシーを持つ--------------------------------------------

二世帯同居が出来たのは、まず父との間に男同士の2つの合意が出来たからでした。
第1は、同居する目的についての合意。
それは「母を安心させるため」であること。

第2は、私たちの位置づけについての合意。
それは私たちが二人の面倒を見るのではなく、父が母の面倒を見て老夫婦二人の生活を確立すること。そのサポートは基本的に私が行い、さらにそのバックアップを真智子が行う、というポジションであること。

第1の合意は、父が実家を引き払う際に効いてきます。
第2の合意は、同居した後に効いてきます。


第1の合意について―
父にとって実家は言わば子宮でした。地形も父が生まれ育った故郷に似た場所であり、40年に渡って築いてきた地縁もあり、家に引きこもっている母が居ること―子宮としての条件はそろっていましたので、そこを去る理由はどこにもなかったのです。

けれど、母が不安定になることが自分にダメージを与えることを、この2年ほどで体験的に父は学びました。つまり、自分にとって大事なのは「家」よりも「母」であることがわかったのです。

一方、老いて知人も減った母にとって地縁はさほどでもなく、心は山ではなく育った海にあり、また寒さが寝たきりを促していることもわかりました。つまり、「母を安心させるため」という合意で、父にとってはすべてを捨てて家を引き払う心の準備が出来たわけです。


とはいえ、1軒屋にあった荷物を単純にいえば2部屋に収めることになるわけですから、物を大量に処分しなければなりません。存在不安の強い人間がモノを手放さないのは、当ブログをお読みになっていればわかると思います。特に執着を示したのは「移動する子宮」ともいうべき車でした。こういうときに、ではなんのために同居するのか、という原点に立ち返ればあきらめがつくわけです。

このように、なんのためにそれをするのかというポリシーが明確になっていれば、途中で巻き起こるいろいろな葛藤への判断がつきやすくなります。逆に言えば組織や集団はポリシーがあるからこそ成り立っているわけで、その組織(集団)の存在理由のようなものですから、ベクトルが揃うわけです。では、どのような経緯で合意に辿りついたのかを見てみましょう。

(ご参考)
Let,s Try 虎井まさ衛リーディング-(2)組織の作り方
中央集権体制の作られ方




◆つるべ落としの老化--------------------------------------------

背景にはここ2年間の老夫婦の体験がありました。2年前、母が人工肛門(ストーマ)を付けることになって事態は急転していきます。脳梗塞になり、脊柱圧迫骨折をし、腸内閉塞になり・・・わずか2年で、つるべ落としのように悪化していきました。
一挙に母の老化は進み、引きこもりになっていきました。「2年前から儂はもの物忘れが酷くなった」という実感が父にもあるようです。

1年前に、母が腰椎骨折をした際に妹が半年ほど自宅に引き取り、そこからデイサービスに通わせて見事に押し車で歩けるように復活させました。その間独りになった不安とストレスも物忘れを酷くさせていったのでしょう。

そして今年1月に母がトイレで転倒し、再び腰椎多発骨折で1ヶ月入院します。私たち家族が帰省して年末年始を賑やかに過ごした数日後のことでした。冬独り家にいるのは相当に堪えたようで、ケアマネージャーさんが「あのお父さんが“不安だ”と言われた」と驚かれるくらいでした(ふだん感情用語を言わない人間ですから)。




◆妹のメールから覚悟を決める----------------------------------

3月下旬に妹が援助に行きましたが、日々届くメールから危機感が伝わってきました。ケアマネさんからも、退院してからの1ヶ月で父の認知症状がひどくなった気がすると言われたり、医師からも老老介護は限界に来つつあり、「今後どうするつもりか?」と聞かれたことなど。

公的援助では限界を超えていて父も信用できないとすると、結局、24時間身内の誰かがこの老夫婦についているしかない。母は父と居たがり、妹と父は犬猿の間ですから、結局私しか居ません。私は妹からのメールを読みつつ覚悟を決め、物件探しに動き始めました。

妹の所からも近く、特養など老人ホームも充実しており、母が育った海と父が育った山の両要素があり、出張にも出やすい所、ということで熱海も候補になり、実際に物件を見に行きました。また、現家族に迷惑をかけず、源家族と私の課題という意味では、当時の住まいの近くに私と両親の3人で住むことも考えました。

そうこうするうちに、妹が自宅に戻る4月初旬に再入院という措置をとるという知らせ。脳梗塞後遺症とのことでしたが、妹にしてみればよほど父が信用できなかったのでしょう。
「もう父では母を支えられない」―そういう悲鳴が聞こえたと思いました。

とはいえ、正月に会ったばかり。両親の状態は本当にそこまで急激に悪化しているのか?私は、実態をこの目で確認するため真智子と共に急遽実家に向かいました。実家に向かう中で、私は両親とのこれまでのことを整理していました・・・。




◆夫婦連合を確立せず子に寄りかかる親----------------------------------

私に対する父の過干渉と母の過保護―この2つは、常に雲のように私を取り巻いていて、隙を見せれば侵入してきましたので、私は、自宅なのにそこで心を開くことはできませんでした。過敏に緊張した日々を送っていたと思います。中学から部屋に閉じこもって親と口をきかなくなったのも、高2から下宿したのも、そうしなければ親の侵入から自分を守れないからでした。

執着は、時に非常識な行動をさせます。私が結婚する際に、母は「英司は自分のいとこと結婚させるはずだった」という無礼な手紙を真智子の実家に送りつけました。その手紙は深く彼女の親族を傷つけました。このときは、中尾家代表として父が謝罪しなければ、この結婚は成らないと私は思い、父に伝えました。そして、父が伏して詫びてくれたからこそ、結婚できたと思っています。また、黙して耐えてくれた真智子の親族には深く感謝しています。

その後は、両親からの同居要請がたびたびありました。父から私に「二世帯住宅を買わないか」と打診をしてきたり、静岡に居た頃に母から真智子に「二世帯を考えているから静岡に土地を買っておきなさい」と言ってきたり。

けれど、夫婦の関係をきちんとせずして、二人してなし崩し的に子供に甘えてくる―その姿勢がイヤでした。私の父への反発の根っこは、父が私の人生に介入してくることにもありましたが、それ以上に「母をちゃんと愛せよ」というところにあったのです。小学校3年頃には、両親の喧嘩を見ていて、「父がしっかり母を愛さないから、母がこちらに過剰に構ってくる」と思っていました。

ですから、今の言葉で言えば「夫婦連合をしっかり確立しろよ」という思いは、小学校の頃から一貫して私の中にあるのです。そのサインは“現象”としてもやってきます。




◆老夫婦に起こる現象(サイン)の意味-----------------------------------

随分以前、5年間の内に母が3回骨折したことがありました。左腕→右足→右手首―ついに利き腕まで来たときに、「仏の顔も三度まで」だと思い、いても立ってもいられずに、この現象の意味を告げるためだけに実家に帰ったことがあります。

骨折の間、母の動きは制限されます。その間、父は自分のことや家事などを自分でするようになるわけです。けれど、それは定着せず、母が完治すると再び母が手を出し父は何もしない、という生活に戻ります。それが父を惚けさせることになっていくわけです。そこで、次の骨折が起こり・・・つまり、この現象は、父は自分のことは出来るんだから母は手を出すな→「夫婦2人の関係性を変え、生活習慣を変えろ」というメッセージだと思いました。

それに気づかなければ、気付かせるためにだんだんとひどくなっていきますので、このままいけば今度は“全身が動けなくなるようなメッセージ”がくるかもしれない―その危機感が私を実家に向かわせたのでした。

そして、父と差しで、母と差しで、さらに両親と3人で―ご丁寧に3回も日を変えて、骨折という現象が伝えている父へのメッセージ、母へのメッセージ、そして夫婦へのメッセージを具体的に、かんで含めるように話をしました。

別れ際の夫婦2人のポツンとした佇まいを覚えていますが、わかったのやらわからないのやら、心許ない感じを受けましたが、やるべきことはやったので、後は任せるしかありませんでした。
そして、その話をして1年もたたないうちに母は階段から滑り落ちて尾てい骨を骨折し、手術も出来ず寝たきりとなりました。

「あぁ、4度目のメッセージが来たか!」-そう思って、とても残念だったことを思い出します。 それから母は腰が曲がり始め、歩くことが難しくなって引きこもるようになりました。やはり、あのときがターニングポイントだったように思います。




◆「壁」になって父に引導を渡す--------------------------------------------

その後も夫婦関係は変わらないまま、数年前に真智子と帰省したときに、父が「子が親の面倒を見るのは当たり前だ」などと“常識”を持ち出して同居を強制しようとしたことがありました。

逃げ場があると思っている限り人は自分と向き合おうとしません。キッパリと壁にならなければどこまでも甘えてきます。危機を感じて初めて人は目を覚まし、自らの足で立とうとするわけです。ここは「壁」になる必要があると思いました。

それに存在不安の強い人間は、本人は無意識ですが、その存在自体が粘着質の「かまってちゃんオーラ」を強烈に発しています。その存在と日常空間を一緒に居ることはとても無理―そういう実感をかねてから持っていましたが、このときは実家から帰る途中、重力から解き離れるように体が軽くなるのを本当に感じました。

何か浮き足立つ感じと、自分の感覚がどこかゆがんでいるのを感じ、運転を間違えないよう「中心軸」を常に意識して運転したくらいでしたから、わずか数日の滞在ながら父の重力に私もかなり影響を受けたのがわかりました。そこまで引力が強くなった背景には、めっきり老いていく母との生活への不安があったと思います。

真智子の挙動にもおかしなことがありました。父のため、私自身を守るため、そして真智子を守るため―この3つが揃って、「壁」になる意志が固まりました。そこで、途中の道の駅に車を止めて、わざわざそこから電話で「一緒には住めないから」とキッパリと断りました。

それから数日して母から電話があり、
「あのときお父さんに何か言ったの?」
と訊かれました。どうしたのか訊くと、

「あれからお父さんが優しくなった」
とうれしそうに答えました。
父に引導を渡した(父の希望を打ち砕いた)ことが功を奏したのでした。




◆311で揺さぶられた私のインナーチャイルド--------------------------

逆に、311の時は私の心に激震が走り、衝動が津波のように襲ってきました。富士山の噴火、関東大震災、放射能の蔓延-もはや関東は終わるかもしれない、と本気で思いました。たわいのない地震でも、フクシマ4号機が倒れれば関東は死の灰で廃墟となります。山に囲まれている実家に引っ越すことを本気で考えました。全国は電話カウンセリングで、後は地域に根ざしたカウンセリングや講座で地域に貢献していこう、と。

しかし、理由はいろいろつけても、その根っこにあったのは私のインナーチャイルドの衝動でした。半ば強引に実家への疎開を家族に打診したとき、学部半ばだった息子が
「今移住したら一生恨む。けれど、仕方がない」
と言った言葉でハッと目が覚めました。

どんなに理屈をつけようとも、私のエゴで家族を巻き込もうとしていた・・・子供達は既に自分の人生を歩いている―そう気づいたときに、実家への移住はなくなりました。

けれどこの時、いつかは同居することになるかもしれないという“種”が、私の家族にも蒔かれたのでしょう。




◆「気持ちで動け」というメッセージ--------------------------

そしてその後、母が人工肛門(ストーマ)を付けることになって、つるべ落としのように老化していくことになるわけです。

ストーマを付けることになったのもアクシデントとはいえ、母本人に対するメッセージが来ています。それは、
「直感に従え」
「気持ちで行動を選択しろ」
ということでした。

母の直感はとても厭がっていたのに、しがらみと周りの意見で行動した結果、ストーマを付けるという事態になってしまったのです。私に電話がつながっていればと思いますが、私が連絡を受けたのは手術日当日。翌日、実家にとんだのでした。

私から見ると、インナーチャイルドvs脚本+IP連合の闘いでした。母も強烈に痛い思いをした上に体に深い傷を負い、ようやく私の話が少し身に入ったようでした。




◆解けた母の謎(人生脚本)-----------------------------------

その後に帰省したあるとき、問わず語りにふと話し始めた母の幼児期の話―それは墓場まで持って行くつもりだった幼い弟を亡くした事件。父も知らない初めて聴いた話でしたが、聴いた瞬間に、「だからか・・・」とすべての謎が解けていくようでした。

父を選んだわけ、
喧嘩が多かったわけ、
母が私を過剰に心配していたわけ、
妹への対応のわけ、
家事よりも庭いじりをしていたわけ、
意志をハッキリと言わないわけ、
自分で動かず人を使うのがうまいわけ、
引きこもりや寝たきりになっていくわけ、
そして遠きにありて故郷を思いつつ帰らなかったわけ
・・・すべてが見えました。

謂われなき罪と、そして脳内母親への忠誠で生きていたのです。

そして、父とは様々な点でベストカップルであること、
私という個性は母の目に映ってはいなかったことも腑に落ちました。




◆禁止令の解除--------------------------------------

私は母に、弟が亡くなったときの罪は母がかぶるものではないことを母に告げました。悪いのは幼児だった母ではなく、幼児を放置した母の母です。母は、
「ホッとした」
「気が軽くなった」
と言いました。

人知れず80年も抱えていた重たい頸木から、ようやく解放されたのです。
3,4歳の女の子が、80年も経って、ようやく罪から解き放たれたのです。

それに伴い数々の禁止令が少し解除され、「もうそのサンダルは履くことがないから捨てていい」と言っていたおしゃれなサンダルを履こうとしたり、生きる意欲が湧いてきたのがわかりました。

84歳からの生き直しです。
あるいは、3,4歳からの続きをこれからするのです。


私は、生きる意欲が蘇る中で、何とか父との晩年を形成してほしいと願っていました。というのも、父にも付き合って「“父の母”の故郷巡り(謎解き)」が一段落していたからです。(一段落というのは、謎が完全に解けたわけではないからです。内なる不安から逃げている人は、意識を外に向ける対象を残すために謎を残したままにしておきます)

私は、父の謎解きにつきあったこと、母に禁止令を解除する許可を与えたことで、大きな役目は終わったと思っていました。あとは、二人の問題でした。




◆母の執念--------------------------------------------

そこに、今年1月に母がトイレで転倒し腰椎多発骨折という事故が起こったのです。

真っ先に思い出したのが、いつぞや見た光景でした。それは、母がトイレに行き、戸を開けたまま便器に座ろうとするのをたまたま目で追っていたときのことでした。なんと、便座を開けたまま座ろうとしたのです。そのまま座り込めば、すっぽり腰まで入って骨折の可能性があったでしょう。「ちょっと待って、便座が上がったままだよ」と声をかけて難を逃れました。

・・・便座を上げたのは母自身です。そして、そのまま後ろを向いて座ろうとしたのです。何かおかしいものを感じました。というのも、その行為の前後で母の意識はしっかりしていたからです。

実は他にもいくつか、自分はおぼつかなくなっていることを私に印象づけようとした行為があり、そこに母の執念を感じました。「両親の状態は本当にそこまで急激に悪化しているのか?」という思いの背景には、このようなことがあったのです。




◆実態をこの目で確認する--------------------------------------------

まず、実家に着いて、父自身の様子を見ました。
以前から火の消し忘れ、水道漏れに気づかないこと、同じものを買ってくること、耳が遠く老夫婦の会話が成り立っていないこと、車の運転の危険性等々、日常生活が危うい状況はありましたが強気でした。しかし、独り取り残されてここまでなすすべなく不安げな様子は初めてでした。

父の話では、父が外に出ようとすると母が引き留めようとする。でも、外に出なければ腰痛が治まらず足腰も弱る、というジレンマにある様子がありありで、「このままでは共倒れだ」という言葉に切迫感を感じました。

ケアマネさんもとんできてくれましたが、その様子からも外部からの援助が限界に来ていることを感じました。たとえ二人が健康であったとしても、向こう半年が限界という判断でした。

訪問看護記録も辿りましたが、昨年秋の夜中にトイレに行こうとして倒れ、寒い中どんなに叫んでも父には届かず、自力でかろうじてベッドに戻ったものの、その1週間後から母に認知症の兆しが現れていることがわかりました。不安が認知症を進ませることがわかります。

また、父にどんなに思いがあっても、現実問題として母が事故死する可能性があることがわかりました。その後も、寒さが母を動かなくさせていること、季節の取り違えなど認知症が進んでいる様子が記録に表れていました。




◆変わり果てた母の姿にショック---------------------------------------

そして母の見舞いに行ったわけですが、正月に会ったばかりの母とは思えない有様でした。不安の強い人間に見られる症状―やたらと「なんの音か」を気にし、回答を得ては不安を消していました。

それより何より、会話の中に、今どこに居るのかをわかっていない内容や過去の記憶など、次元の異なる内容が五月雨的に紛れ込んでくるのです。まだらボケのような状態でしょうか。これを目の当たりにしたときは信じられない思いで、ショックでした。

父によれば再入院後たった2日ほどで、あっという間にこのような状態になったとのこと。ストレスと不安が一挙に認知症を進ませたようです。そして、父の顔を見れば「帰る」と用意させようとしていたようで、その様子が浮かんで胸が詰まりました。


これはもうあれこれ言っている場合ではない。もうここに居てはダメだ。
「不安」と「寒さ」が認知症を進ませている。だから、
「安心」と「暖かさ」を与えなければいけない。
その安心とは、何よりなじみのある“声”だ。
知人の居なくなった地域や意思疎通の出来ない父ではない。
私たち家族の中に居るという安心の出来る声だ・・・。

帰宅して、私は父に「同居」の話を切り出しました。私が両親の面倒を見るという姿勢ではなく、母の安心のために父と私で役割分担して協力するという立場を明確にしました。父は否も応もなく同意しました。




◆母の劇的変化(生きる意欲に火がつく)-----------------------------

父と合意した翌日午前中、父から母に同居の話をしてもらいました。まず夫婦できちんと合意することが大切だと思ったからです。

その午後、私も見舞いに行き、今度は私も一緒に行って私から話をしました。すると、母はまず父に振りました。
「あんたはどう思っているの」。父は
「俺は同居していいと思っている」。すると、
「あんたがそう思っているなら、それでいい。あるじがしっかりしていればいいから」
の一言で決まりました。

その後、よほど嬉しかったのでしょう。
「うれしい」
「ここはもういい」
「雪はイヤ」
と本音が出てきました。
ケアマネさんや看護師さん、医師の方も、皆賛成してくれました。


驚いたのは、その翌日でした。
しょぼしょぼしていた母の声がハッキリと出るようになり、言葉も明瞭になっていたのです。たった一晩なのに、意欲が与える人の驚くべき変化。

「暖かいところに行くでええね~」と看護師さんに言われたと嬉しそうに話しますし、「大きな希望」とハッキリ言いました。
そして、驚くべきことを言いました。

「40年間ずっと我慢してきた」
「生まれてからずっと我慢してきた」
「もう我慢せんででいい」

―「おぉ、我慢しない宣言を自分でしてる」・・・ついに、自分で自分に許可を与えたなぁと、驚きでした。

父も、なんとその日から社交ダンスの仲間他に挨拶をし始め、物件を決めろと急かし始めました。また、この間に真智子も覚悟を決めており、急転直下、二世帯同居に向けて事は進み始めたのでした。










二世帯同居の留意点



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