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熊野三山めぐり3―熊野速玉大社と白河上皇

2014/12/29(Mon) Category : 神社・寺・城・歴史
【伊勢三宮+熊野三山の旅】

熊野速玉大社はゴトビキ岩、
熊野那智大社は那智の滝を、
それそれ神体として崇めてきた縄文人の自然神信仰が底流にあるようです。

ゴトビキ岩は地元では男根に似るという言い伝えがあるようで、なるほど隠語としてゴトビキ(ガマガエル)にしたんでしょうね。これで、ゴトビキ岩が陽石、花窟が陰石とされていることが分かりました。

そういう自然神信仰の地に、前記事の花乃窟神社で見ましたように、縄文晩期に出雲族が大挙して熊野に移住し、その時にスサノオ信仰ももたらされたのでしょう。ですから、スサノオ以前はどういう神が祀られていたのか・・・。

ともあれ、大和政権が打ち立てた伊勢に対して、熊野は縄文+出雲系。
伊勢のアマテラスと熊野のスサノオ・・・

天を治めよと言われたアマテラスと、海を治めよと言われたスサノオ。
(なお、海と言っても水の惑星のことですから、「地球」と言い換えてもいいでしょう)



つきました熊野速玉大社。

熊野速玉大社01 朱塗りの海人系神社
熊野速玉大社01 朱塗りの海人系神社 posted by (C)Hide


大社―出雲大社、浅間大社、三嶋大社、諏訪大社、住吉大社、日吉大社、大鳥大社、宗像大社・・・大社と言えば、どうも国津神系の気がします。そして、この鮮やかな朱色。龍宮系、海人系の神社ですね。
しかも、「玉」。玉と言えば、玉手箱、豊玉姫。

ワタツミ(ワタ:海―ツ:の―ミ:神)はイザナミが生んだ神で、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)。その娘が豊玉姫。

一方、オオヤマツミ(大いなる山の神)もイザナミが生んだ神で、その娘コノハナサクヤヒメと天孫ニニギが結婚し、ホオリ(山幸彦)が生まれます。

そして、豊玉姫とホオリノミコトが結婚して生まれたのが、ウガヤフキアエズ。

ウガヤフキアエズは母豊玉姫の妹玉依姫と結婚し、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)を生みます。(神武には国津神の血の方が多く入っていますね)

しかも、神武が東征する際、熊野で毒気に当たって倒れますが、高倉下(たかくらじ:ホアカリの子孫)が霊剣フツノミタマを献上すると目を覚ましたという謂われがあるのが、このゴトビキ岩です。(ホアカリはニギハヤイとも言われており、ここも意味深ですね)

初代天皇である神武に力を与えた岩。
神剣フツノミタマ(タケミカズチの剣)を授けられた岩。
男根ゴトビキ岩にはパワーがありそうです。

そこを元宮とする“新宮”速玉大社―この「玉」が、
神武の曾祖父となる海神豊玉彦なのか、
その娘で神武の祖母豊玉姫なのか、
その妹で神武の母玉依姫なのか
―いずれにせよ、天皇家にとって直系のご先祖ともいうべき神社になりそうです。

神武を初代天皇とするのであれば、どう考えても「皇祖」はアマテラスではなく、こちらでしょう。御由緒を見てみました。

熊野速玉大社02 御由緒
熊野速玉大社02 御由緒 posted by (C)Hide


なるほど、今登場した神々が祀られていますね。
そして、確かに天皇や皇族が御幸された時代があったようで、「熊野御幸」の札がありました。

熊野速玉大社03 熊野御幸
熊野速玉大社03 熊野御幸 posted by (C)Hide


「熊野御幸」は、『二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった』と書かれていますが、藤原定家による『後鳥羽院熊野御幸記』をチラ見しても、どんなに大変だったか覗えます。(それにしても、幹事役の気の使い方や縁の下で動き回る様子は、今も昔も変わらないね~)

そして、速玉大社を訪れた天皇皇族の石碑がありました。

熊野速玉大社04 熊野御幸の碑
熊野速玉大社04 熊野御幸の碑 posted by (C)Hide


けれどよく見ると、この4名↓が突出しています。不思議ですね~。
ポイントは、最初に火をつけた白河上皇のようです。

熊野速玉大社05 熊野御幸拡大写真
熊野速玉大社05 熊野御幸拡大写真 posted by (C)Hide





白河天皇は、1053年に生まれ1129年に没しています。天皇としての在位は1073年~1087年ですが、実質没するまで「治天の君(ちてんのきみ)」であったと思われます。

さて、この頃はどういう時代であったか。
6.縄文(弓・馬)と弥生(稲作)の融合~陸奥安倍氏と出羽清原氏の隆盛
7.俘囚の上頭・奥州藤原氏と黄金の国ジパング

そう、グローバル縄文人の末裔、俘囚の上頭藤原氏が四代百年(1087-1189)の栄華を誇り、平泉が平安京に次ぐ日本第二の都市となっていった奥羽全盛時代です。
簡単に振り返れば、前九年の役(1051~1062)、後三年の役(1083~1087)を経て、ヤマトが奥州を征夷できずに縄文勢力の頭領に奥州支配を任せたと言えるでしょう。

藤原清衡は、1124年に金神(国之常立神)を祀るかのような金ピカの中尊寺金色堂を造りましたね。まるで国の中心がそこにあるかのようです。そして、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の四大寺に多くの砂金を寄付しています。

その子基衡は、さらに壮大な毛越寺(もうつうじ)を再興。そこに収める薬師如来像のあまりの見事さに、白河上皇の後を継いだ鳥羽上皇は京から持ち出すことを禁じたくらいでした。その鳥羽上皇も23度も熊野を訪れています。


さらに、「治天の君」白河上皇をして「意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師」(天下三不如意)と言わしめた山法師とは、上記四大寺の僧たちです。ちょっと拾ってみました。

<四大寺騒乱年表>
968    東大寺・興福寺の両寺乱闘
1035 園城寺・延暦寺の僧徒争う
1037 興福寺僧徒、東大寺東南院を破壊
1038 延暦寺の僧徒が強訴
1075 延暦寺・園城寺の僧徒が抗争
1079 延暦寺の僧徒強訴
1081 延暦寺の僧徒、園城寺を襲い、これを焼く
1082 熊野の僧徒、上京して強訴
1093 興福寺僧徒、春日社の神木を奉じて入京
1095 延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京
1113 延暦・興福僧徒、清水寺別当補任で激突、狼藉を繰り返す
1114 延暦寺僧徒の武装を禁ず
1120 延暦・園城両寺僧徒の濫行禁止の院宣
1123 延暦寺の僧徒、日吉社の神輿を奉じて入京平忠盛ら防ぐ
1137 興福寺僧徒、春日神木を奉じて入京強訴

ちょうど白河上皇が治世する前後の100年間、僧達が大暴れしていますね。白河上皇の嘆きようも分かろうというもの。自然とともにあった縄文人は、海人であるとともに山人でもあります。義経が八面六臂の活躍が出来たのも、天狗(縄文人)などから教えを受け、海の道や獣道のような縄文ルートを知っていたからでしょう。

その山人達が山伏となって、反ヤマト、反藤原の勢力が寺社に流れたのかもしれませんね。その彼らが、俘囚の上頭奥羽のバックアップの元に暴れ回っていたのかもしれません。



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「日本書紀」(720年)で天皇制を確立した持統・藤原勢力。
そのシステムは、天武天皇の血筋を徹底的に抹殺し、持統(天智)系を天皇に立てて、その后に藤原の血を入れていくという藤原傀儡システムでした。そして、藤原一族が裏で天皇を操るという摂関政治が行われました。

しかし、後朱雀天皇(在位1036-45)は、藤原氏の血を引く後冷泉天皇に皇位を継承する際、その次の天皇は藤原氏の血を引かない尊仁親王にすることを藤原摂関家に約束させました。その後、藤原氏の企みも空しく後冷泉天皇に子が生まれないまま崩御されたため、約束通り尊仁親王が後三条天皇となります。藤原氏の紐付きでない天皇は実に170年ぶりであったそうです。

後三条天皇は天皇親政を行い、5年後に病没しますが、その前に白河天皇に譲位。藤原氏出身の母を持つ白河天皇でしたが後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治に戻さないために院政を敷きました。8歳の堀河天皇(子)→4歳の鳥羽天皇(孫)→5歳の崇徳天皇(ひ孫)という具合に、病没や成人して扱いにくくなると天皇を交代させて実権を握り続けました。

この時期にこれほど内乱が多かったのは、藤原のたがが外れて、一挙に反藤原の鬱憤が爆発したからではないでしょうか。


一方で、藤原外しの親政を行おうにも内乱が多くては「あの頃が良かった」などと言われかねません。白河上皇も頭が痛かったことでしょう。しかも奥羽は安定して栄えています。面目が立ちません。白河上皇にも“権威”が必要でした。

けれど、伊勢は藤原システムの神社。そこに変わる神社が必要でした。
伊勢神宮以上の権威を求めたとき、そこにあったのが冒頭の系譜を持つ熊野速玉大社だったのではないでしょうか。


天皇の伊勢に対して、上皇の熊野。
かくして、白河上皇の熊野御幸を皮切りに、反藤原勢力が熊野詣でを始めたのかもしれません。やがて、折からの仏国土思想と相まって、熊野三山はそれぞれ次のように仏教と習合されてパワースポットとなり、「蟻の熊野詣」と言われるフィーバーを作っていきます。

本宮 家都美御子神は阿弥陀如来 (西方極楽浄土)
新宮 速玉神は薬師如来     (東方浄瑠璃浄土)
那智 牟須美神は千手観音    (南方補陀落浄土)





熊野速玉大社06 拝殿
熊野速玉大社06 拝殿 posted by (C)Hide

拝殿の後ろに社が二つ見えます。
一番左の社(第一殿)は、千木が内削ぎで女神。
二番目の社(第二殿)は、千木が外削ぎで男神。

奥が「結宮」で、次が「速玉宮」

祭神は、
結 宮 熊野結大神 【くまのむすびおおかみ】 (いざなみの命)
速玉宮 熊野速玉大神【くまのはやたまおおかみ】(いざなぎの命)

拝殿は、この二柱を拝むことになるわけです。

結び=ムスヒ=産す霊で、神々を生んだイザナミ。

さて、「速玉」は冒頭に推理したどれでもなくイザナギでしたね(^^)。
なぜ、「速玉」がイザナギかとネットで調べたら、「速玉之男」とは、「唾を吐く神」とか。唾を吐く=固く契約するということらしいです。この段もう少し調べてみたいですね。


熊野速玉大社07 拝殿
熊野速玉大社07 拝殿 posted by (C)Hide

写真ではよく見えませんが、第三殿~第五殿までは、それぞれの拝殿(庇)がついています。

第三殿 証誠殿 家津美御子命・国常立命
第四殿 若 宮 天照大神
第五殿 神倉宮 高倉下命

ケツミコノカミとクニノトコタチが同一神として祀られているようですね。


熊野速玉大社08
熊野速玉大社08 posted by (C)Hide


熊野速玉大社09 新宮神社
熊野速玉大社09 新宮神社 posted by (C)Hide




次は、本宮へ―



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