顔に張り付いた表情―自分の顔に責任を持つということ
「男は40過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とはリンカーンの言葉だそうです。これは、自分が自己演出の人生を送っていることがわかれば、よく理解できます。
『苦しくないのに苦しい顔をしたわけ~脳内親に見せるための脚本ちゃんの表情』の記事で、人は日々脳内親に自分の姿を見せて生きていることを示しました。
上記のAさんの場合は、本当の苦労はないにもかかわらず「苦悶の表情」を脳内母親に見せていたわけです。それは演出なのですが、常にそういう顔をしている内に、その表情が顔に張り付いていきます。
たとえば、次のようなシチュエーションがあったとします。
何かの帰りにバス停でバスを待っていたBさんが、
「どうかしたんですか? そんなに悲しい顔をして」
と不意に声をかけられたとします。
ただいつものようにボーッとバスを待っていただけのBさんには、全く心当たりのないことでした。つまり、悲しくも何ともなかったのです。
けれど、第三者から見ると、思わず声をかけてしまうほどに悲しそうな顔をしていたことになります。
自分は実感していないけれど、第三者(鏡)から見ると「表情」に気持ちが表れている。この自分の内面と外面の大きなギャップの中に、自分の脚本を知るヒントがあります。
仮にこのBさんの人生脚本を「悲しみの脚本」と名付けましょう。すると、Bさんにとっては、わが子が自分を見て心配そうな顔をしていることは自分がその脚本を生きていることの「証拠」であり、上記のように声をかけてくれる第三者は「証人」となるわけです。
つまり、自分の目を通して脳内母親に子どもの顔を見せていますし、自分の耳を通して脳内母親に第三者の言葉を聞かせているわけです。この時、その表情を周囲に見せているのは「Bちゃん」ではなく「脚本ちゃん」ですね。
そして、常にその表情を無意識に見せ続けている場合、その表情が顔に張り付いてきます。「悲しみ」が張り付いた顔になってくるわけです。そのためどんな表情をしても、悲しい顔になってしまいます。
人間喜怒哀楽があり、成長があります。
しかし、何らかの表情が張り付いてしまっているとき―それは、その人がその表情を脳内母親に見せ続けている結果―つまり、どういう脚本人生を演じているかを物語っているように思います。
Bさんに子どもがいる場合は、その子どもは、いつも悲しそうな母親の姿を見て、勝手に母親を背負うことになります。母親の悲しい顔は自分の脳内母親に見せている顔ですから、Bさんが見つめているのは目の前の現家族ではなく、常に脳内母親です。そのため、見てもらえない子どもは、不安と寂しさを宿すことになります。母親の悲しみを背負い、自分の不安と寂しさを抱え、こうして、連鎖が次代に継がれていくわけです。
人生は選択の連続ですが、脚本人生は母親のための行動を選択し続けていく人生です。自分の心(IC)で選んだ人生ではありませんので、その行動に責任を取ることが出来ません。また、「母の子」のまま生きていく人生ですから、「妻」「母」「大人」としての責任を取ることが出来ません。
自分の気持ちを人に背負わせず、自分で表現し行動すること―それが、自分の言動に責任を持つということです。
あなたの表情は、自分(小さいちゃん)の表情でしょうか。
あなたの顔は、自分の顔でしょうか。
あなたは、今の自分の顔に自信が持てるでしょうか。
(自信とは、自分(小さいちゃん)と自分の間に信頼関係があることです)
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