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松山心の旅4:伊佐爾波神社~八幡神社の謎

2015/10/09(Fri) Category : 神社・寺・城・歴史
【松山・宇和島心の旅】

いやぁ~、前回の記事「湯神社」から2ヶ月ぶりです(^^;)。
7月の旅の記録が、一体いつ終わるのやら・・・


●湯月八幡---------------------------------------------

続いて同じく式内社の伊佐爾波神社(いさにわ)―読めないよね、これ。

伊佐爾波神社01
伊佐爾波神社01 posted by (C)Hide


伊佐爾波神社は、かつて湯月八幡と言われていました。
八幡神社は日本書紀や古事記に登場しない―つまり、日本古来の神ではありません。

「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」という本によれば、かつて19万あった神社は明治時代に11万に減らされたそう(ほぼ半減ですが、つぶされた神社が気になりますね)。その内神社本庁が管轄しているのが8万(お寺も8万。コンビニは5万)。その内の1割約7800が八幡神社です。



続いて
伊勢が約4400、
天神が約4000、
稲荷が約3000、
熊野が約2700、
諏訪が約2600、
祇園が約2300、
白山が約1900、
日吉が約1700、
山神が約1600・・・
なんとダントツに多いのが八幡様なんですね~。
(19万あったときはどうだったんでしょうか。それに上位10社で約32000。残る48000社を考えると、一体どれだけ系統があるのでしょうか・・・)




宇佐神宮(宇佐八幡)と道鏡事件-----------------------

八幡の元締めは、大分の宇佐神宮。
宇佐神宮といえば道鏡事件(769年)が有名です。48代称徳天皇(46代孝謙天皇と同じ/独身)の寵愛を受けた道鏡は天皇になる野望を抱き、太宰府の役人に“道鏡を天皇にせよ”との宇佐神宮からの神託があったという奏上をさせます。

称徳天皇が和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し神託を確認させると、「皇統でない者を天皇にしてはならない」と却下されたので激怒し、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変えた上、大隅に流罪としました。が、翌年称徳天皇は病没し、道鏡の野望は潰えます。

後継天皇について、吉備真備らは天武系を推しますが、藤原一族が天智系を推して天智第7皇子の第6子(白壁王)が光仁天皇となります。天武→(持統)→文武→(元明)→(元正)→聖武→(孝謙)と天武系が続いていましたが、再び天智系に変わる引き金となる事件でした(カッコは女帝)。

さて、この道鏡事件が暴露したものは、道鏡は宇佐神宮に天皇を動かす力があることを知っていたし、実際天皇は宇佐神宮の神託に従ったということです。伊勢神宮と宇佐神宮は天皇家の「二所宗廟」とされていますが、宇佐神宮の方が格上ということですね。

(伊勢神宮は天皇の宗廟とされていますが、天皇は伊勢神宮に行幸していません。不思議ですね~。なお、二所宗廟は伊勢神宮と石清水八幡宮と出てくる辞書もありますが、石清水八幡宮も宇佐神宮の分社です。)

もう一つわかることは、仏教が過度に重視されたということです(僧侶が天皇位を狙うくらいに)。その背景には、出家するために娘(孝謙天皇)を天皇にさせた聖武天皇がいます(生前に譲位した初の天皇)。なぜ、聖武天皇はそこまで仏教にすがったのでしょうか。



聖武天皇の仏教立国----------------------------------------

聖武は7歳で父(文武24歳)を亡くし(707)、心の病を患った母と対面したのは37歳の時でした。そのため文武の母(元明)と文武の姉(元正)が中継ぎ天皇となり、その後24歳で即位します。つまり、聖武は両親の愛を知らず、祖母と叔母から育てられたわけです。

この聖武を狙っていたのが藤原不比等。自分の娘(光明子)を嫁がせようとしますが、実質的に政権を担っていた長屋王が反対していました。が、殺害され(729)、ついに藤原氏から皇后が出ます(光明皇后)。

一方、この時代は蝦夷や隼人など朝廷にまつろわぬ者達がいました。
【縄文vs弥生】1.大和朝廷とまつろわぬ民

班田収受で律令国家の体制を整えようとする大和政権は、豊前から5000人を大隅に移住させ圧力をかけます(713)。シラス台地(←懐かしいね)で稲作に適さず、共同体的土地利用をしてきた隼人との間に緊張が高まり、ついに戦闘が勃発(隼人の反乱-720年)。

1年に及ぶ闘いで隼人は制圧されますが、悲惨な殺戮がなされたのでしょう。隼人族の隊長格100人の首を持ち帰り埋葬したと言われる「凶首塚」が宇佐の松隈にあり、その近くには隼人の霊を祀る「百体神社」があります。

ところでこの時、宇佐八幡宮の宮司・大神諸兄(おおがのもろえ:大神比義の孫)も神輿(八幡神)を担いで出征していますが、「隼人等多く殺した報いとして、毎年放生会を修むべし」という託宣を受けて、宇佐神宮は神社として初めて放生会(仏教の不殺生を象徴する行事)を行うようになります。
宇佐の放生会

中央では、藤原一族の栄華は続かず737年に天然痘が流行して藤原四兄弟死亡。740年には藤原広嗣の乱勃発。

―聖武が生まれて以降の40年間を振り返ると、中央では天皇の系統が転覆し、その前後に血みどろの抗争や祟りがあり、地方でも縄文人制圧のために血みどろの抗争があり、疫病や反乱が勃発し・・・天も地も人心も、権力内部も権力外部も、公私にわたってこれだけ荒れれば、それを頼る親のない身一つで背負うことは、とてもできなかったでしょう。聖武が仏教にすがったのも無理からぬことだったと思います。

(光明子の影響も大きなものがあるでしょう。こちらもいずれ掘り下げたいところですが、母親の意向というのは大きな影響を与えるからね~。父藤原不比等よりも、母県犬養三千代に興味があります)

聖武にとって、天皇として国家立て直しは急務でした。そして仏教を柱に据え、741年に全国に国分寺を建てること、その総本山として743年に大仏を建てるという国家大事業を宣言しました。




●宇佐神宮から始まった神仏習合------------------------------

さて、この政争&戦乱の歴史の中で、宇佐神宮は隼人の乱鎮圧に直接関わり(720)、藤原広嗣の乱(740)の際には将軍大野東人が宇佐神宮に戦勝祈願をしていますし、743年には宇佐神宮が大仏建立費を東大寺に送っています。つまり、この時点で力(経済力も)のあった神社だったわけです。

そして749年に大仏が完成すると宇佐神宮の神官に「大神朝臣」の姓が与えられ、東大寺の守護神として大仏殿の東正面に宇佐神宮から勧請された梨原宮という神宮が作られました(→手向山八幡宮)。

お寺の守護神として神社を置く―これはシンボリックな出来事だったことでしょう。この時宇佐神宮は、天皇が頼る神、仏教を守護する神、国家を鎮護する神という位置づけを得たのではないでしょうか。また、国家=天皇ですから、天皇鎮護の神→天皇の宗廟となる源流がここにあるのかもしれません。

神が仏を守る―神道が仏教を包摂していくとも言えるでしょう。
その梨原宮で悔過法要(けかほうよう)が行われています―神社で仏教の儀式が行われていますから、宇佐神宮を皮切りに神仏習合の流れが当たり前になり始めたのでしょう。

けれど天皇は神ではなく生身の人間。人間聖武は天皇位を捨てて出家しました。ここにややこしいことがおきます。天皇は本来神官ですが、その天皇が出家したわけですから、天皇より僧侶の方が上―そう勘違いして道鏡のような人物が出てきたのかもしれません。




●ヤハタ神→ハチマン大菩薩へ---------------------------

781年、桓武天皇は宇佐八幡に国家鎮護・仏教守護の神として「護国霊験威力神通大菩薩自在王」(八幡大菩薩)というの神号を贈ります。
神号が「菩薩」? 
神なのに「成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者」?

またまたややこしいことになってしまいましたが、八幡神は「神道の神+仏教の菩薩」となり、「寺の守護神」として正式認定されたわけです。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まっていきます。

ここから、宇佐神宮は「八幡大菩薩宇佐宮」「宇佐八幡宮弥勒寺」と呼ばれるようになっていきます。また、「ヤハタ」という読みだったのが、仏教読みの「ハチマン」に変化していきます。
(弥勒寺と呼ばれるあたり、弥勒信仰も絡んできますが、またいずれ)




●武家の守護神「八幡大菩薩」へ-------------------------

その信仰は天皇ゆかりの源氏・平氏に受け継がれ、平将門も八幡大菩薩によって「新皇」(939)の地位を保証されたと言ったそうですし、清和源氏も八幡神を氏神として崇敬し、石清水八幡宮で元服した源義家は自らを「八幡太郎義家」と名乗りました(1039-1106)。

「八幡の長男」を名乗った義家が「初めて昇殿を許された武士」となった効果(功徳)は絶大だったと思われ、ここに天皇が頼る神―仏―武士が習合していくのかもしれません。

源平合戦で那須与一は弓を射る時に「南無八幡大菩薩」と唱えました(1185)。
源頼朝は鎌倉幕府の守護神として鶴岡八幡宮を作り(1191)、以降の足利、徳川などの将軍家も八幡神を氏神としました。こうして八幡は「武家の守護神」としても広まっていくことになります。

元寇の時には亀山上皇が筥崎八幡宮に「敵国降伏」を祈願しています(1274)から、八幡神はこの時国家の守護神となっているわけです。

(ところで、「敵国降伏」とは、『武力によって敵を降伏させる「覇道」ではなく徳の力をもって導き、相手が自ら靡き降伏する「王道」という、我が国のあり方』だそうです。防衛力は必要だと思いますが、「伝家の宝刀」は抜かぬからこそ威力があるのです。)

豊臣秀吉(1537-98)は死後に自分を「新八幡」として祀るよう遺言したそうです。
第二次大戦(1939-45)でも航空隊が「南無八幡大菩薩」の旗を掲げたりしていますが、武運を祈る神、国家鎮護の神として庶民にも認知されていたことがわかります。




●再び湯月八幡------------------------------------------

いやはや伊佐爾波神社から、八幡神の謎にはまってしまい、まだその入り口に立ったばかりで古代史には全く触れていません。が、ここらで一息入れましょう。

1661年、弓の名手といわれた松山藩三代藩主松平定長は、徳川家綱より江戸城内において弓の競射を命じられ、湯月八幡宮(道後湯月宮)へ必中祈願をしたそうです。それから3年、精進されたのでしょう。1664年に見事に御前披露し、その的中の御礼として社殿の造替に着手しました。

そして、3年後の1667年、石清水八幡宮を模したとされる本殿と拝殿が連結された八幡造の新社殿が完成します。こうして宇佐神宮と石清水八幡宮とあわせ、3例しかないとされる伊佐爾波神社ができました(国の重要文化財)。


さて、この石段を登っていく途中右手に素鵞社があります。ご祭神は、素盞之男命、稲田姫命―ここにもスサノオが。

伊佐爾波神社02
伊佐爾波神社02 posted by (C)Hide

素鵞社をホテルから眺めた写真です。右下、山の中に籠もれるようにひっそりとありますね。地下から地上を支える―スサノオらしい位置のようにも思えます。
伊佐爾波神社14  素鵞社遠望
伊佐爾波神社14  素鵞社遠望 posted by (C)Hide

楼門が見えてきました。
伊佐爾波神社03
伊佐爾波神社03 posted by (C)Hide

伊佐爾波神社04
伊佐爾波神社04 posted by (C)Hide


つきました~。
伊佐爾波神社05 楼門
伊佐爾波神社05 楼門 posted by (C)Hide


振り返ると―
伊佐爾波神社06
伊佐爾波神社06 posted by (C)Hide


楼門をくぐると申殿(もうしどの)
伊佐爾波神社07 申殿
伊佐爾波神社07 申殿 posted by (C)Hide


回廊を右に回れば新田霊社―ご祭神は、新田義宗、脇屋義治、松平定長。
伊佐爾波神社08 新田霊社
伊佐爾波神社08 新田霊社 posted by (C)Hide


向かって左に高良玉垂社(こうらたまたれしゃ)―ご祭神は、出ましたね武内宿禰(たけしうちのすくね)。

回廊を進むと、奥に本殿が見えてきます。2つの屋根が合わさっているのが八幡造の特徴です。
伊佐爾波神社09 八幡造
伊佐爾波神社09 八幡造 posted by (C)Hide


海老虹梁―エビのように湾曲したコウリョウ(唐様建築の特色の一つだそうです)。
伊佐爾波神社10 海老虹梁
伊佐爾波神社10 海老虹梁 posted by (C)Hide


後ろから楼門を望む。
伊佐爾波神社11
伊佐爾波神社11 posted by (C)Hide


気になったのは、このご両人。
伊佐爾波神社12
伊佐爾波神社12 posted by (C)Hide

伊佐爾波神社13
伊佐爾波神社13 posted by (C)Hide

武内宿禰と神功皇后か・・・?



伊佐爾波神社のご祭神を書いてませんでしたが、
誉田別尊 (応神天皇)
足仲彦尊 (仲哀天皇/ヤマトタケルの子で応神の父)
氣長足姫尊(神功皇后/仲哀の皇后で応神の母)

市杵島姫尊 (宗像三女神)
湍津姫尊  (宗像三女神)
田心姫命  (宗像三女神)

人間天皇と神話の時代の女神が祀られていますから、時代の流れの中で習合されていったのでしょう。
それに、アマテラスの命で宗像三姉妹が宇佐神宮の地に来たとされていますが、その当時は船団を組んで「宇佐島」にたどり着いたそうですから、縄文海進の頃(約6000年前がピーク)でしょう。しかも、たどり着いた時には、すでにそこには巨石文明があったようです。なので、宗像三女神以前の伏された神がいるはずです。

上記に書いた八幡神の歴史は、せいぜい700年以降のものでしかありません。遙かなる縄文に心惹かれます。そして、その後も、宗像三神といい、ユヅキといい、イサニワといい・・・時代が積み重なっていきます。
まだまだ謎の多い神社です。




●算額-----------------------------------------------------

ところで、回廊を回っていると他では見られないものが見られます。それが「算額」。愛媛には、和算を学んだ人々が「自分の学力の向上」や「一門の繁栄」を祈願して数学の問題を絵馬にして神社仏閣に奉納した「算額」が数多く残っているそうで、中でも伊佐爾波神社の算額は難解なものが多く、愛媛の文化レベルの高さがうかがい知れるそうです。
伊佐爾波神社の算額にみる江戸末期の和算

その中に「關家喜多次の算額」というのがあります。下記ページの下の方にカラー写真があります。『青、黄、赤、白、黒の5円を入れる』とありますが、この色模様に「五色人」を思い出します。
道後のお山へ行こう!

算学のホームページというのがありました。
和算の館

これを見ると、岩手、福島、長野、愛媛に算額が多いようですね。いずれも縄文ゆかりの地のようです。






伊佐爾波神社写真帳(伊佐爾波神社の四季)





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