プロフィール
 

中尾英司

Author: 中尾英司
Doing(させる,働きかける)ではなく、Being(共にある,見守る)―半歩あとから


カウンセリング申込み要領

中尾真智子ブログ

ホ・オポノポノ to IC―
「ごめんね」「ゆるしてね」
「ありがとう」「愛している」

 
ピックアップ目次
最近の記事+コメント
 
 
カレンダー(月別)
 
06 ≪│2017/07│≫ 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
 
カテゴリ
 
 
全ての記事を表示する
RSSフィード
 
 

「百人一首」随想2:高麗・百済・新羅・加羅と倭人

2016/05/31(Tue) Category : 神社・寺・城・歴史
【「百人一首」随想】

前記事で、「百済と藤原氏」の関係を書きました(中臣鎌足は百済王子の豊璋?)が、朝鮮半島と日本列島の関係が深いことがわかりますので、次に進む前に古代の朝鮮と日本の関係を少し見ておきましょう。まだ私も知らないことだらけですがメモ程度に―。

そもそも国境なき太古、縄文人にとって日本海は中庭のごとく、その周辺域に展開していたでしょう。列島も半島も大陸沿岸も居住地だったことでしょう。

1~5Cにかけて朝鮮南部に三韓(韓は“王”の意)―馬韓・弁韓・秦韓がありました。後にそれぞれ、百済・加羅・新羅となります。まず高麗(高句麗)・百済から。


<高麗(高句麗)・百済>---------------------------------------------------------

縄文時代、秦(BC778-BC206)が中国を統一したとき、その周辺域には扶余系部族連合がありました。扶余(ふよ)、獩(わい)、貊(はく)、狛(こま)族などがいて、中心部族である扶余(=ツングース語で鹿)は鹿を神聖視し、狛は三本足のカラスを神聖視していたようです。(なにやら、奈良の鹿や八咫烏、狛犬を思い出しますね~)

(ついでに、ツングース系民族といえば、奥州(藤原氏)経済圏にいた粛慎(みしはせ)、挹婁(ゆうろう)を思い出します)

獩族と貊族は、獩貊と連称されたりしてますので、扶余族はイスラエル12支族やアメリカインディアンのように各部族が長(王)とトーテムをもった同民族だったのかもしれません。縄文人がアメリカ大陸に渡ってアメリカインディアンになっていくわけですが、その途中でユーラシアに残った者達が扶余族になったのかもしれません。
(ご参考)縄文人とインディアン~ペトログラフが語るもの


さて、「魏書」百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、百済と高句麗はともに扶余族から出たことがわかります。

高句麗は5Cには高麗と自称するようになり、「隋書」百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」(百済の先祖は高麗国より出る。そこの人は新羅、高麗、倭などが混在しており、また中国人もいる)とあるように高麗は多人種混住国家でした。

これによれば、扶余族が高麗(高句麗:BC37-668)を建国し、そこから百済(346-660)が分かれて出来た―高麗と百済は兄弟国のようですね。高麗の別名に貊(はく)があるようですが、日本では「こま」(狛/高麗)と呼んでいます。倭人は、扶余系部族の高麗人の中でも狛族と近しかったのかもしれません。

なお、馬韓が百済となるわけですが、馬韓人は東の地を割いて秦からの遺民を住まわせ辰韓人と名づけ、そこが辰韓(秦韓)になっていくわけですから、弥生人に明け渡していった縄文人や、白人に居留地を与えたアメリカインディアンを彷彿とさせます。

百済の王族は姓を扶余と名乗ったそうですから、扶余族による百済侵攻が百済建国につながったのでしょう。扶余族がかつての縄文人だとすれば、扶余族から出た高麗、百済もまた日本と縁がある国です。

いずれにせよ、扶余族(高麗人&百済人)と倭人は混住する近しい関係にありました。そのため、それぞれの国が滅びたとき、それぞれの王族が日本に帰化するのも自然の流れだったのでしょう。


【高麗】
長野には5~6Cの高句麗式積石塚があり、近畿、関東に巨麻、狛江、大狛、下狛などの古代地名があり、高句麗滅亡後は、716年に武蔵国に高麗郡が建郡されています。王族が帰化したのでしょう。埼玉県日高市には高麗王(こまのこにきし)若光(じゃっこう)を祭る高麗神社があります。

【百済】
百済滅亡後の白村江の戦い(663年)の時、天智天皇は数万の亡命者を連れ帰り、近江周辺に住まわせました。豊璋の弟・善光(百済最期の国王義慈王の子・禅広)には百済王(くだらのこにきし)の姓を与え、摂津国に百済郡を創設してそこに住まわせました。東近江市百済寺町に百済寺があります。

ここまでは、日本においては「西の百済」に「東の高麗」ですが、禅広のひ孫にあたる敬福が陸奥守に任ぜられ、東大寺大仏用に金を調達(749)すると聖武天皇は喜び、敬福を河内守にすると共に枚方(ひらかた→元は、平らな潟の入江:以前は関東平野と同じく河内湖などがある湿地帯)を与え、王族は百済郡から枚方に移りました。枚方市には百済寺の跡があります。




<新羅>----------------------------------------------------------------------

新羅(356-935)の前身である秦韓は、秦の苦役から逃れた移民が作ったともいわれ、斯蘆国を中心とする12国(国と言っても600~5000戸の町村規模)からなり、それぞれに王がいました。この斯蘆国が大きくなって新羅となりますが、エフライム族を中心とする「イスラエル12支族」を思い出させます。

というのも、秦は春秋戦国時代に最も西にあった国で、そこから中国を統一した始皇帝は碧眼のユダヤ人という説があるからです。BC3Cに始皇帝から「不老不死の薬(水銀)を探せ」という命を受けた徐福は、3000人もの技術者集団を率いて列島にいたり、命に背いて日本にとどまり、そこで王となっています。

徐福の跡を追って、その後も東の桃源郷を目指す者が輩出し、その者達が朝鮮半島の東端で秦韓を作ったと言えるかもしれません(BC722年にアッシリアに滅ぼされたイスラエル10支族は東を目指していましたからね)。

弁韓には倭人も住み(後に任那日本府を置く加羅国となる)、240年頃の「三国志魏書」弁辰伝の記述では、弁韓と秦韓は入り交じって暮らし、衣食住が同じとありますから、倭人と秦人は半島においてすでに近しくなっていました(1000年も経てば、東洋人に同化していたことでしょう)。

近いのも当然、実は新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の三始祖のうち昔氏の始祖を脱解王(新羅4代目の王/BC19-AD80)と言いますが、脱解王(太陽または日の出の意)は倭国から東北一千里の多婆那国の王子といわれ、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本の丹波国に比定されています。つまり、昔氏は倭人だったわけです。

面白くなってきましたね~。新羅の王族に倭人がおり、その新羅の元はイスラエル12支族だったかもしれない・・・。倭人とイスラエル12支族が、秦韓~新羅という国において入り交じって暮らしていたわけです。

さすれば、214年頃に国を弟に任せ、帰化するためにやってきた新羅王子の天之日矛(アメノヒボコ)が、列島内を転々とした挙げ句、但馬国に居を据えたのもわかる気がします。
丹波は京都府中部、但馬は兵庫県北部―つまり、倭人とユダヤ人の混血のアメノヒボコは、始祖脱解王の地に帰ってきたのではないでしょうか。(古事記の伝承では、祖国に帰った妻を追って日本に来たとあります。いずれにせよ倭と新羅は親戚と言ってもいい関係にあったようです)

こうしてみますと、倭人は高麗、百済、新羅のいずれとも混住し、近親関係どころか王族にもいますから、国内にそれぞれの親派が形成されるのもうなずけます。そして、それぞれの国の王族及び技能集団が帰化しているわけですから、日本の国力も底上げされていくわけです。




<加羅(伽耶)>--------------------------------------------------------------------

上記を振り返りますと、始皇帝による大陸の統一(秦建国=秦の東進)が一つの引き金になっているようです。苦役から逃れた人々が南に逃れて秦韓を作り、朝鮮南部は三韓―馬韓・弁韓・秦韓となりました。

また、北方にいた扶余系部族連合も圧迫を受けて、まとまる必要が出来たので高麗(高句麗)ができたのでしょう。その一部が南進して馬韓に入り、百済を建国します。その百済に対抗するために、秦韓の中心国(斯蘆国)が大きくなって新羅となります(百済の建国は346年。新羅は356年)。

こうして高麗、百済、新羅の三国時代が到来しますが、弁韓から発展した加羅(伽耶)も、新羅が半島を統一するまで存続していました(3C~6C)。倭人は、その全ての国に住んでいましたが、特に加羅には集住していた地域があったようです。

これら4国の位置関係を見ますと、北方や大陸の情報は高麗>百済、西方の情報はそれが集積された新羅から、そしてその双方の情報が百済と新羅に挟まれた加羅に集まり、そこから日本に向かって発射される―そういうイメージです。日本は大陸の動きを察知していたでしょう。


ところで、宮内省内に天皇の守護神として祀られていた韓神(からかみ)とは、韓国ではなく「加羅から来た神」ということなのかもしれません。
(参考)日本への鉄器の浸透過程と国の形成

いずれにせよ、日本はその湾曲した国の形が示すように、大陸文化や文明の集積地(シルクロードの終着点)ですね。





関連記事
 
Comment0  |  Trackback0
 
 

Trackback

 

Trackback URL :
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 
 

Comment

 
    
 
Home | Top ▲
 
はじめにお読み下さい
 

読まれる上での留意点
自分を取り戻す方法総目次
*全記事リンクフリーです

 
ブログ内検索
 
Google

Web このブログ
 
会場でお会いしましょう(^^)
風化させまいカレンダー
 
 
著作
記事・インタビュー他
わが子を守るために
写真/動画集はこちら↓
 
 
お問い合わせなどあれば↓
 

名前:
メール:
件名:
本文:

 
ブックマークに追加
 
 
月齢
 
Today's Moon phase
 
↓このパーツを設置すると14本の苗木を植えられます
QRコード
 
QRコード