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「百人一首」随想3:百済派vs新羅派の権力闘争

2016/06/01(Wed) Category : 神社・寺・城・歴史
【「百人一首」随想】

●神功皇后の三韓征伐とは----------------------------------------------

前記事で、朝鮮半島にも倭人が多く住むどころか王族の中にもおり、半島と列島の関わりが深いことを見ましたが、直接の関わりが出てくるので有名なのが神功皇后による三韓征伐の神話です。

実際、「新羅本紀」には346年と393年に首都金城(現在の慶州市)が倭人に包囲されたとありますので、新羅出兵はあったのでしょう。

また、「広開土王碑」に「新羅は高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅・新羅を臣民となした」とありますので、倭が三韓を従えたことがあったのでしょう。この頃から、百済王子や新羅王子が人質として日本に来ていたわけです。

なお、新羅降伏の後、百済、高句麗は闘わずして日本の支配下に入ったとされていますが、ここでの三韓は百済・加羅・新羅(元、馬韓・弁韓・秦韓の三韓)と思われ、そこはもともと倭人が多数住んでおり、王族や支配層にも倭人がいたからそうなったのでしょう。



●仁徳天皇と秦氏----------------------------------------------------

ところで、その年代を見ると、どうも朝鮮出兵を行ったのは仁徳天皇(16代:在位313-399)の時になります。仁徳の名は、「民の竈」から煙が上がっていないのを見て3年間税を免除した仁政を讃えて付けられた諡号ですが、そもそもそこまで人民が窮乏したのは朝鮮出兵があったからではないでしょうか。

仁徳天皇と言えば、世界最大の墓―大仙陵古墳及び日本初の大規模土木工事―「茨田(まんだ)の堤」が有名ですが、それが出来たのは天皇を支持する広範な勢力があったということ。

その基盤をなすのが秦氏とされています。秦氏の祖は、285年に120県の民を率いて帰化した弓月君(融通王)とされていますが、BC3Cに始皇帝の命で3000人もの技術者集団を率いて来た徐福もいるわけで、2つの「秦氏」があるのかもしれません。

山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとされている(by Wiki)ようですから、年代的にいえば弓月君を祖とする秦氏と仁徳天皇は密接な関係があったのでしょう。



●渡来民族----------------------------------------------------

また、289年には後漢の霊帝の曾孫の阿知王(東漢氏の祖)が、17県民を率いて帰化しています。大和国今来郡(→高市郡高取町)、のち高市郡檜前(ひのくま)郷(→高市郡明日香村檜前)に住んだそうです。「日本の心の故郷」とも紹介される明日香村は、漢民族の村だったんですね~。

中国では三国時代が終わって晋ができたものの動乱が続いていた時代でしたから、加羅を通じて列島を目指す人々がいたのでしょう。まだまだ渡来人はたくさんいるでしょうが、ここまでをまとめておきますと次のようになります。

秦氏  BC3C 徐福

新羅人 214年 新羅王子天之日矛  但馬国
秦氏  285年 弓月君    大和国葛城郡朝津間(あさづま)
漢氏  289年 阿知王    大和国今来郡高市郡

秦氏  636年成立隋書→   倭に「秦王国」
百済人 663年 百済王子善光 摂津国百済郡
高麗人 716年 高麗王若光  武蔵国高麗郡

民族としては、次の3民族の混血でしょうか。
・イスラエル>秦>新羅
・扶余>高麗>百済
・漢

現在は、何百万という桁違いのシリア難民に心が痛むと同時に、それを作り出した勢力に怒りが湧きますが、動乱の時代、日本にも帰化する民族が多々いたわけですね。



●百済派vs新羅派----------------------------------------------------

さて、移民が大挙して来ると、当然勢力地図が変わるわけで(5/5にイギリスで初のイスラム教徒のロンドン市長が誕生しましたね)、国内でも政治的大変動があったことでしょう。とても大きな政権交代があれば、新政権は神話(伝説)を作って権力の正当性を認めさせようとします。

それが神功皇后による三韓征伐の伝説であり、その伝説の皇后から生まれた応神天皇の正当性の主張であり、仁徳へと受け継がれていきます。このへんまだよくわかりません。

なんとなくわかるのは、新羅シンパと百済シンパがいたんだろうなぁと言うこと。その伏流が、天智天皇(百済派)と天武天皇(新羅派)の対立となって顕在化したのでしょう。で、天智は唐に滅ぼされた百済を復興するため出兵しますが大敗し(663年)、百済王族を連れ帰って、その勢力を背景に近江で即位したのでした。

けれど反百済派が結集して天武が反旗を翻し、日本を統一して「日本」という国名、「天皇」という呼称を使うよう国体を整備していきますが、その権力を再び内側から奪っていったのが、持統天皇&藤原不比等コンビ(百済派)だったわけです。

そして、百済派が摂関家となって貴族政治に君臨し、660年代~1240年代まで約600年間の藤原の時代を謳歌したわけです。





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