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「百人一首」随想4:唐の属国化を回避した天武~百済系桓武に至る時代の激動

2016/06/02(Thu) Category : 神社・寺・城・歴史
【「百人一首」随想】

●倭国→日本成立時の大陸情勢--------------------------------------

大陸の動乱→渡来人の帰化→日本国内の勢力地図の変化―それらの激動を経て、天武(新羅派)が日本の国体を作り上げました。その形を引き継ぎ、天皇+摂関家という体制で盤石の体制を作ったのが持統天皇&藤原不比等の百済派コンビでした。

この時代の朝鮮半島は、618年に成立した唐に新羅が急速に接近していき、危機を感じた百済は、かつての兄弟国高麗と同盟を組み、新羅討伐に乗り出します。新羅は唐に救援を要請し、660年に百済は滅亡することになります。

中大兄皇子(天智)は唐を敵に回して百済復興に乗り出しますが大敗。668年には高麗も滅び、半島は唐と新羅に制圧されますが、唐が新羅を属国としたために新羅が反発。669年には新羅が高麗の遺臣らを使って唐に蜂起させ、676年に新羅が半島を統一します。

このように唐、新羅、高麗、百済が組んずほぐれつしていた動乱の時代が推古天皇没後から天武に至る時代でした。
この大陸動乱前夜の推古朝も神道政権から仏教政権へ勢力地図が大きく変わる時期で、謎に包まれています(その象徴が聖徳太子)。




●唐(大陸)を後ろ盾にした天智vs海人が支えた天武----------------

ところで、敗戦国が無傷であるはずがありません。
663年の白村江の戦い後、665年に唐は254名の使節団を筑紫(福岡)に送り込み、そこで国書を渡しています。不思議なのは、筑紫で国書を渡したということは、そこが「国」であったということ。
そこに「倭国」があって、大和国が新にそこを領有したという見方もあります(九州王朝説)

ともあれ、中大兄皇子は、翌666年に百済人の男女2000人以上を東国に移住させていますが、それはこの敗戦処理の一環もしくは、自分の勢力の拡大のためだったのかもしれません。そして、667年に近江に宮を構えて668年に天智天皇となります。

以下は、「天武天皇 隠された正体」による関祐二氏の推論ですが、百済勢力を従えて近江に宮を構えたのは、神道派や新羅派などのいる大和に帰れなかったからであり、唐と国内勢力の板挟みで窮地に立たされたことでしょう。

そこに天佑とも言うべき事件―669年に新羅が唐に討って出たわけです。唐は当然、新羅派もいる倭国が新羅に荷担するのを牽制したでしょう。そこで、669年と671年に唐は2000人もの使者を日本に送り込んでいます。いわば、戦後占領軍GHQのようなものですね。

671年の軍団は病にあった天智が天武を牽制するために要請したのかもしれません。その軍事力を後ろ盾にして、天智は子の大友皇子を天皇に即位させます(弘文天皇)が、そのままであれば、倭国は唐の傀儡政権となっていたかもしれません。その主権を奪回したのが天武と言えるでしょう。以下の流れを見ると、そのことが彷彿としてきます。

671/10 天武が天智の元を去って吉野にこもる
671/11 唐から2000人来朝
672/01 天智崩御、弘文天皇即位
672/06 2000人唐へ帰還
672/06 壬申の乱

こうしてみると、天武の軍団が唐の軍団を追い返したとも言えそうです。つまり、天武vs天智というよりも、天武vs唐傀儡弘文の闘いだったのでしょう。

余談ながら、天武は大海人。天智が唐(大陸)を後ろ盾にしたことを考えると、大陸vs大海のようで興味深いです(海人は山人でもありますが)。




孝謙(天武系)vs藤原仲麻呂(天智系)---------------------------

こうして、唐の属国化の危機を回避して、ようやく天武がまとめ上げた日本を持統&不比等が支配していきますが、不比等の後、藤原4兄弟が相次いで病死し、藤原に代わって橘諸兄が台頭します。

が、叔母の光明皇后の信任と権謀術数により諸兄の勢力をそぎ、傀儡淳仁天皇を立てて孝謙天皇を上皇へと押しやり、最高権力者となったのが藤原仲麻呂(恵美押勝/不比等の孫)でした。

当然、親唐反新羅政策を邁進し、759年には47000人を派兵する新羅征伐まで計画していますから、国政を思うままに動かしていたといっていいでしょう。

その計画は、孝謙上皇の反対により潰えています。孝謙上皇が道鏡を天皇にしようと画策したのは、仲麻呂が擁立した淳仁天皇への対抗かもしれません。

仲麻呂は軍事を掌握しようとしますが、孝謙上皇に先手を打たれ、淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は自派の皇族から天皇を立て、「藤原仲麻呂の乱」を起こしましたが敗れ斬首されました(764年)。

その後、孝謙上皇は天皇に返り咲き(称徳天皇)ますが病没。後継争いは吉備真備が押す天武の孫と藤原一族の押す天智の孫対決。藤原氏が称德の遺詔に細工して天智系に決定(光仁天皇)。

そして、光仁天皇と高野新笠(百済人)との間に生まれたのが桓武天皇(737-806)です。藤原鎌足(百済王子の豊璋?600年代)から始まった百済派の天皇擁立作戦は、ついに天皇自身に百済派を登場させたのでした。

桓武は新皇統の樹立を宣言すべく、年号を「延暦」とし、平城京を捨て長岡京に遷都(→その後平安京造営)、藤原家、百済王氏、東漢氏(坂上田村麻呂)を重用しました。ここに藤原安泰の時代が続いていくことになります。

(詳しくは→古代日本の転換点9-聖武&孝謙天皇(父娘)vs光明皇后&藤原仲麻呂(不比等の子と孫)




諱(いみな)に意味あり漢風諡号---------------------------------

ところで、天皇名に漢風諡号を付けたのは天智の玄孫(やしゃご)の淡海三船(おうみのみふね:722-785)です。淡海三船に初代神武から44代元正天皇に至る天皇に漢風の名を付けることを命じたのが、上記唐礼賛者である藤原仲麻呂でした。つまり、「天智天皇」という名をはじめとして、天智系に肩入れした名付け方をしているということです。

たとえば、「天智」とは「天が与えた智恵」の他に、韻の暴君紂王を倒して周を起こした武王が手に入れた「天智玉」を意味し、蘇我入鹿を殺して権力を手に入れた正当性を示しているようです。

「天武」の存在を利用した日本書紀では、天武は天智王朝を乱す逆臣を倒して継承したことになっているようで、そこから「天武」と名付けており、天智の正当性を強化しているわけです。

「持統」は「継体持統」(体を継ぎ、統を持す)という熟語から来ており、断絶の危機に瀕した皇統を受け継ぎ、守り抜いたという意味だそうです。まさに、持統が天智の血統を守り抜いたことを讃えているわけですね。







【ご参考】












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