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「百人一首」随想6:百人一首の「秘伝」とは何か?

2016/06/04(Sat) Category : 神社・寺・城・歴史
【「百人一首」随想】

●「来ぬ人」は後鳥羽天皇-------------------------------------------

藤原定家が和歌によって政治を変えようとした、その集大成が「小倉百人一首」でした。その97番に定家は自分の歌を入れています。

【来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ】

塩づくりの原点に「藻塩焼き」があったそうですが、後鳥羽上皇へのじりじりした思いが伝わってくるようです。彼は自分と志を同じゅうして日本に和をもたらしてくれる天皇を求めていました。

孔子の言った「詩経」の精神に則り、和歌をもって世の中を変えようとした定家にとって、文武両道の後鳥羽天皇は「關雎」の詩に出てくるような理想を体現しているように見えたのかもしれません。

後鳥羽も定家を気に入り、あの歌織物に現れた水瀬の里には8回も連れてきています。あの里の時代が、定家と後鳥羽にとってのよき時代だったのでしょう。

けれど、摂関政治を理想とする定家と天皇親政を実現せんとする後鳥羽はついに相容れませんでした。定家は詩経の精神で後鳥羽を「風刺」し、ついに出禁となり、その翌年承久の乱が起こり、後鳥羽は流刑の身となってしまいました。

定家の元には決して「来ぬ人」―後鳥羽。
その後鳥羽院へのいろいろな思いが、この歌には込められている気がします。




●世阿弥----------------------------------------------------

ところで、この歌から、「藻塩草」と言えば定家の「小倉百人一首」のことを指す暗号となっています。たとえば、猿楽(能)を完成させた世阿弥は、「拾玉得花」の中で、金春大夫には「芸能見所」があるので、「芸習道之秘伝」を「相伝」すると述べ、歌を添えています。

【もしほ草かきをく露の玉を見ば磨く言葉の花は尽きせじ】

「百人一首」に書かれた秘伝(露の玉)を発見すれば、芸能(言葉の花)はつきることなく磨かれていく―ということのようです。

「拾玉得花」という書のタイトルも、玉(秘伝)を拾って、花(世阿弥が完成させた能の芸)を得る―つまり、世阿弥は「百人一首」によって猿楽を完成させたと言っているわけですね。




●金春禅竹(こんぱるぜんちく)-----------------------------------

そして、秘伝を伝授された能役者、金春大夫(禅竹)も次のように詠んでいます。

【もしほ草の花も玉藻もかきあつめ見れば鏡の裏もくもらず】

「百人一首」の玉藻(秘伝)と花(それによって完成された能)が書かれた「拾玉得花」を見れば、鏡の裏まで曇らぬような神髄に至ることができる―と。




●「風姿花伝」--------------------------------------------------

超一流の2人をして、「秘伝」と言わしめた「百人一首」の秘密とはなんなのでしょうか。世阿弥は、花伝書(風姿花伝)「別紙口伝」で次のように述べています。

『その秘密もわかってしまうと、別に驚くほどのことではないものである。だからといって「秘事などと言ったってたいしたものではない」という人は、まだまだ秘事というものの持つ大きな効用を知らないからである』

『この秘事は、一代の間一人だけに相伝するもので、わが子といえども才能のない者には伝えてはならない』

『家、家にあらず。継をもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす。』
―家業の道を継いでこそ家。家人だからと言って、その道の人ではない。その道の奥義を知ってこそ家人。

厳しい姿勢ですね。
その姿勢をもって一人だけに伝えたのが、「百人一首」の秘伝でした。




●信長―秀吉―家康------------------------------------------------

この秘伝をもって「天下布武」をしようとしたのが、猿楽(能)を愛した織田信長。信長の「敦盛」は有名ですね。

秀吉は、その猿楽を管理しようとしました。秀吉の幼名は「日吉丸」。綽名は「猿」。近江日吉大社の神使いは猿。信長が比叡山延暦寺と共に焼き払った日吉大社を再興したのも秀吉。

日吉丸というのが後生に作られたものだとしても、秀吉が日吉大社及び猿楽の日吉座(ひえざ:比叡座)に関係していたことは確かでしょう。日吉座には、世阿弥が「犬王は花なり」と最高の賛辞を送った犬王道阿弥がいました。

おそらく秀吉も、どのルートからかわかりませんが、猿楽(能)に秘められた秘伝を知ったのでしょう。そこで、猿楽を監視するために猿楽4座を大阪城勤番と決めました。

家康も猿楽の家元を固定化して管理するだけでなく、「百人一首」に関する資料も回収しました。家康の猿楽指南役を務める観世十郎大夫からも家宝の「花伝書」を取り上げていますから徹底しています。

娯楽であった猿楽を大衆から取り上げるほどですから、「秘伝」がどれほどのものかがわかりますね。(その代わり、歌舞伎が広まります)




●細川幽斎----------------------------------------------------

この当時、秘伝を正式に受け継いでいたのは細川幽斎だったようです。関ヶ原合戦の時、石田三成勢に包囲され落城討ち死にという局面になったことを聞いた後陽成天皇は、次のように言って幽斎を救出しました。

「幽斎討ち死にせば、本朝の神道奥義、和歌の秘密、永く絶えて神国の掟も空かるべし、古今伝授を禁裏へ残さるべし」

一国を傾ける秘伝であることがわかります。なお、古今伝授とは古今和歌集の伝授ですが、「百人一首」の秘伝伝授も内包しています。そして、これ以降天皇へも伝授されることになりました。




●貞徳―季吟―芭蕉----------------------------------------------

その後幽斎は、天皇以外にも伝授しています。それが貞門俳諧の祖、松永貞徳。伝授された貞徳は、定家の藻塩草の歌を次のように言いました。

「表は恋の歌にして、下の心は世に名君の出給わぬのなげきなり」

貞徳は、定家と幽斎の命日が同じ8月20日であることから、幽斎を定家の生まれ変わりと考え、二人の追善供養を営んでいるそうです。

貞徳は秘伝を和歌の季吟に伝授し、季吟は俳諧の芭蕉に伝授し、芭蕉は俳諧を完成させました。


和歌、猿楽(能)、俳諧などを完成させた秘伝。
信長、秀吉、家康と渡って社会基盤を築いた秘伝。
天皇が神道奥義が失われると慌てたほどの秘伝。
とはいえ、
わかってしまうと驚くほどではないと世阿弥が言う秘伝。
それでも効用が大きく一代一人にしか伝えられないという秘伝。

そして現在、
かるた競技として認識され、誰もが目にする「百人一首」
だからこそ、それが隠れ蓑になった秘伝。


さて、脈々と受け継がれてきた「百人一首の秘伝」とは、なんなのでしょうか?





●百首=「六十四卦」+「三十六計」----------------------------------

結論から言えば、易の「六十四卦」と兵法の「三十六計」が百首の中に隠されているそうです。
その「六十四卦」を活用して俳諧を確立したのが芭蕉。
「三十六計」を用いて天下布武に邁進したのが信長です。



●芭蕉と「六十四卦」-----------------------------------------------

芭蕉は「不易」「流行」という易の言葉を用いて俳諧を教えたようです。
不易とは変わらないこと。
流行とは流れ行きとどまらないこと。

中国の古典を読む上で「易経」を知らなければ理解を深めることが出来ないと言われるのは、万物のことをとらえる根本に易の考え方があるからです。易の考え方とは、天地未分離の太極の状態から陰と陽が生じ、その相互作用が万物を消長させていくというもの。

「--」陰(柔:0)と「―」陽(剛:1)の組み合わせにより「八卦」を作り、たとえば「--」を3つ重ねて「地、母、牛、北・・・」などを表し、「―」を3つ重ねて「天、父、馬、南・・・」などを表しています。さらにそれを縦に6つ重ねて「六十四卦」ができており、それで森羅万象を見るわけです。

第六十四卦は「火水未済」(かすいびせい)で、未済=完全に終わらず、第一卦に戻るように構成されており、スパイラルを描いていくわけで、循環する宇宙そのものを構成しているのだなと思わせられます。

易には、変化する「変易」、変わらない「不易」、わかりやすい「易簡」(いかん)の3つがあり、森羅万象をこの3つの視点で説明しているようです。これを芭蕉は「不易流行」という言葉で説明したのでしょう。

これらの「易」の考え方が、格物(道理を極める)、致知(知識を極める)、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下という儒教的政治観の根本にあります。日本は、任那の西部に属する4郡・2県の権益を百済に割譲するのと引き替えに、513年に百済から五経博士を招き、その時に易がもたらされたようですが、領地と引き替えにするくらいに欲しい智恵だったのでしょう。




●信長と「三十六計」-----------------------------------------------

戦国時代、京の都は荒廃し皇室も困窮しました。その皇室再興のため公家は和歌や連歌や蹴鞠の伝授という名目で諸国を歩き、資金集めすると同時に有能な武将を物色しました。山科言継の「言継卿記」には、彼が接触した1200名に及ぶ大名や豪族の名が記されているそうです。

そして白羽の矢を立てたのが勤皇の志が厚い織田信秀。信秀は天皇の使者から「古今集」を渡されます。つまりは裏で、藻塩草の伝授もあったということでしょうから、「三十六計」を用いて全国を統一せよとの使命が下ったようなものでした。

父からその使命を聞かされた信長は、幼少期から「三十六計」を用いたわけです(大うつけと噂されるなど)。「三十六計」で生きたとなれば、本当の信長像は誰も知らないのかもしれません。
となると、本能寺の変も「三十六計」の1つ―もしかすると明智光秀と組んでどこぞに行ったのかもね、などとも思ったりしてしまいます。

ともあれ、信長が「天下布武」に邁進できたのは、天皇の後ろ盾と「三十六計」があったからでした。


自衛隊の幹部候補生学校長を務められた武岡淳彦氏は「必勝の戦理学・正攻と奇襲」の中で次のように書かれているそうです。

『この三十六計を日本人が鮮やかにやってのけ、しかも、それにふさわしい成果をあげた男がいる。ほかならぬ織田信長だ。信長は「孫子」などは学んだと思われるが、「三十六計」は中国でも本自体が見つからなかったくらいだから、知るはずがない』

どっこい、定家から連綿と引き継がれて知っていたんですね。
定家は、どこから知ったのでしょうね・・・日本が渡来人の集積地であり、定家も四書五経を学んで世に役立てたいと願ったからこそ、そのような知恵が集まってきたのでしょう。

それにしても、日本には智が集積していますね。それも高度な形で―






以上書いたことは、下記の本のさわりでした。
興味のある方は、是非どうぞ。

百人一首 秘密の歌集―藤原定家が塗り込めた「たくらみ」とは

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「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」  【風姿花伝】






【谷村新司 「風姿花伝」 】





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