プロフィール
 

中尾英司

Author: 中尾英司
Doing(させる,働きかける)ではなく、Being(共にある,見守る)―半歩あとから


カウンセリング申込み要領

中尾真智子ブログ

ホ・オポノポノ to IC―
「ごめんね」「ゆるしてね」
「ありがとう」「愛している」

 
ピックアップ目次
最近の記事+コメント
 
 
カレンダー(月別)
 
02 ≪│2017/03│≫ 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
 
カテゴリ
 
 
全ての記事を表示する
RSSフィード
 
 

古代日本の転換点2-不比等の野望~県犬養三千代と結婚した理由

2016/06/22(Wed) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

さて、「百人一首」が総括しているように、「藤原の時代」は天智・持統父娘に始まる天智王朝の時代です。天武から政権をもぎ取るためには相当な執念が必要だったと思われますが、その執念の原動力が持統と不比等(姉と弟?)でした。

目標が低ければ大きな障害に見えることも、目標が高ければ些細なことに見えると言いますが・・・容赦ない悲劇を生み出していった持統&不比等。一体不比等の野望はどこにあったのでしょうか。

それを見るに当たって、不比等の妻、県犬養三千代(橘三千代 665-733)に焦点をあててみたいと思います。県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)も古代日本の転換期、天武―持統―文武―元明―元正―聖武―孝謙と関わったキーマンの一人でした。不比等はなぜ、県犬養三千代を妻にしたのでしょうか・・・。


記事1の主な登場人物。
阿倍仲麻呂(698-770)
吉備真備 (695-775)
玄昉    (?-746)
鑑真    (688-763)

本記事の主な登場人物。
持統天皇  (645-703)(41代 690-697 天智の娘・鸕野讃良)

藤原不比等 (659-720)(天智の子?)
元明天皇  (661-721)(43代 707-715 天智の娘・阿部皇女)
草壁皇子  (662-689)(母・持統天皇、妻・阿部皇女)<早世>
県犬養三千代(665-733)(天武の忠臣の娘、708~橘三千代)

文武天皇  (683-707)(母・元明天皇)
橘諸兄    (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・県犬養三千代)
聖武天皇  (701-756)(45代 724-749)
光明皇后  (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂 (706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
橘奈良麻呂 (721-757)(橘諸兄の子)




県犬養三千代関連年表-----------------------------------------

662 鸕野讃良(天智の娘)が天武の子、草壁皇子を生む
683 阿部皇女(天智の娘)が草壁の子、軽皇子(文武天皇)を生む
684 県犬養三千代が葛城王(橘諸兄)を生む

686 天武崩御
687 鸕野讃良称制
689 草壁崩御 <軽皇子が満6歳>
690 鸕野讃良→持統即位
696 高市皇子(太政大臣)薨去
697 文武即位

701 県犬養三千代が不比等の子、光明子を生む
701 宮子(不比等の長女)が文武の子、首皇子(聖武天皇)を生む
703 持統崩御
707 文武崩御 <首皇子が満6歳>
707 阿部皇女→元明即位

708 県犬養三千代→橘三千代に改名
710 平城京に遷都(物部氏を藤原京に置き去り)
715 元明の娘が元正として即位
718 光明子が首皇子の子、阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)を生む
720 不比等薨去。「日本書紀」成立。

724 聖武即位
729 長屋王の変→光明子は光明皇后となる
730 光明が施薬院・悲田院を設置し救済事業
733 光明の母・橘三千代亡くなる

737 藤原4兄弟死去。玄昉が宮子を快癒させ、聖武と母・宮子が会う
740 藤原広嗣の乱
741 国分寺建立の詔(743 大仏造立の詔)
749 聖武→娘・孝謙に譲位。光明は紫微中台を設置し藤原仲麻呂を抜擢
753 大仏完成
756 聖武崩御
757 橘奈良麻呂の乱(藤原仲麻呂が旧勢力一掃)
760 光明皇后薨去
764 藤原仲麻呂の乱





天武を継ぐ草壁皇子を排除した母・持統天皇(天智の娘)---------------

県犬養氏は壬申の乱で天武を支え、「八色の姓」制定時に「宿禰」となり、神別氏族へ格上げとなりました。
県犬養三千代は、敏達天皇のひ孫である美努王(みぬおう/壬申の乱で天武方)に嫁し、葛城王(橘諸兄)を19歳で出産します(684)。

が、その県犬養三千代を683年に生まれた軽皇子(文武天皇)の乳母に抜擢したのが、阿部皇女(天智の娘)でした。三千代をわが子(天武系)から引き離し、天智方に囲まれた後宮に囲ったわけです。

阿部皇女は、天武&鸕野讚良(持統)の子で次期天皇候補である草壁皇子の后。けれど阿部皇女の異母姉であり姑が持統(天智の娘)ですから、なんともはやすごい関係で、阿部皇女は持統の操り人形と言っていいでしょう。つまり、阿部皇女の裏で糸を引いているのは持統&不比等。三千代を後宮に囲わせたのは、この二人でしょう。

実際、天武が686年に崩御後、(息子であり妹の夫である)草壁を天皇にさせずに鸕野讚良自ら称制(即位せずに政治)をしき、草壁が689年に27歳で亡くなると自ら持統天皇(在位690-697)となっています。

持統は孫の文武を15歳にして天皇にしていますが、わが子草壁は24歳でも天皇にさせず、その後686~689まで天皇を空位にしたまま実権を握っていたわけで、草壁が亡くなるとすぐに自らが天皇となっていますからね。鸕野讚良は天皇位を奪取するためにわが子草壁を排除したと言えるでしょう(詳細は別項)。




草壁を継ぐ文武天皇を排除した母・元明天皇(天智の娘/持統の妹)---

県犬養三千代が乳母に抜擢され、夫美努王は九州の筑紫大宰率へ単身赴任させられるわけですから、意図が明白ですね。後宮に取り残された三千代に不比等(659-720)が迫るのは造作もなかったでしょう。三千代は美努王と離別させられ不比等の妻となり、光明子(701-760)を出産します。

さて、乳母・三千代が育てた軽皇子が満6歳になると父草壁は崩御(27歳 689)し、祖母・持統が天皇となりました。そして軽皇子を15歳の元服と同時に即位させました(文武天皇 在位697-707)。まさに「天孫降臨」(天智の孫降臨)です(持統も阿部皇女も天智の娘ですからね)。

続いて、文武(天智の孫)に宮子(不比等の娘)を嫁がせ、701年に首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)が生まれ、ここでようやく不比等の外孫に天皇候補が現れたわけです。そして、首皇子が満6歳になったときに文武は崩御(24歳 707)。文武の母の阿部皇女(天智の娘)が元明天皇として即位します(在位707-715)。

子が亡くなって、その母が即位する。阿部皇女は、姉の鸕野讚良と全く同じことをしましたね。



「満6歳の法則」----------------------------------------------------

私が、草壁皇子、文武天皇ともに“殺された”と思うのは、「満6歳の法則」があるからです。まぁ、その名称は私が勝手に付けたものですが、草壁は軽皇子が満6歳になると突如崩御し、その軽皇子は首皇子が満6歳になったときにやはり崩御しています。誰がどう見たっておかしい。

古代、満6歳を過ぎると一人前と見なされ口分田をもらえたように、満6歳が一人前の分岐点でした。つまり、満6歳を過ぎたら一人前と見なし、一方でその父親が天皇として力を付ける前に殺したのでしょう。文武までは天武の孫ですから、確実に根絶やしにするつもりだったでしょう。(文武の次の聖武がようやく不比等の外孫です)

そして、天武の子孫皇子が若い間に、天智の娘たちが相次いで天皇となって藤原を押し、天武系の重臣たちの力をそいでいきました(詳細は別項)。




天智の子、持統&不比等の野望-------------------------------------------

701年は、不比等にとって喜びの年だったでしょう。文武に嫁がせた娘の宮子が首皇子(聖武天皇)を生んだからです。同時に、自分の妻とした県犬養三千代が光明子を生んだからです。自分の孫(聖武)と自分の子(光明子)を結婚させれば、自分の血を継いだ天皇が誕生します。

さて、もし不比等が生きている間に聖武に男児が生まれていたらどうだったでしょうか。聖武は、不比等の血も引いていますが、天武直系のひ孫でもあります。それはその後も薄まっていっても続くものです。

するとどうするでしょうか?

そう、我が娘光明子をついに皇后にしたわけですから(後述)、女系天皇(母のみが皇統に属する天皇:母系天皇)にすればいいわけですね。つまり、聖武に皇太子が生まれたら聖武を殺害し、幼き皇子も早世させ、“仕方ないので”光明皇后に藤原一族から天皇を擁立する・・・そこから天武系の血が一切入っていない藤原王朝(天智王朝)の始まりです。


そんな馬鹿なことをと思ってしまいますが、存在不安の強い人間は、止めどなく邁進していきます。ただただ邁進し続けることこそが、不安から逃げ切る方法なので、終わりはありません。以前、「瀬織津姫物語(セオリツヒメ)」で、持統の存在不安を見ましたが、その持統と意気投合した不比等もまた、強大な不安を抱えていたことでしょう(存在不安の同程度の人が一緒になりますからね)。

おそらく不比等は藤原の血(天智の血?)を天皇にしたいと思っていた。そのためには、天武の子孫は根絶やしにし、その過程で藤原の血を引く皇后を作り、そこに藤原一族から婿入りさせて女系天皇を作る―これで、天皇皇后両方とも藤原の血にすることが出来ます。




不比等が県犬養三千代と結婚したわけ-----------------------------------------

さて、野望を持つ不比等は絶対に死ぬわけにはいきません。身を守る有力な手段の1つは、天武系豪族から妻をめとることでしょう(言い換えれば人質を取る)。県犬養氏は、大海人皇子が吉野を脱出するときから従っている天武の忠臣です。

そこから妻をめとることは、天武の忠臣に手を出させないということです。同時に、自分の子どもにも手を出させないことが出来ます。つまり、自分と子どもを守るために天武系の有力豪族から妻をめとる必要があったのでしょう。

では、子どもとは男児?女児? 不比等が県犬養三千代との間に何が何でも男児を作ろうと思っていればそうしたはずです。けれど、そうしなかったのは、上で述べたとおり、元々皇后擁立が本当の目的だったからではないでしょうか。ということは、皇后の母となれる才媛を求めていたはずです。つまり、県犬養三千代は天武の有力豪族というだけでなく、器量を備えていたということです。

そして、三千代が光明子を生んだ後に改名させたのも、将来の皇后となるべき母親の名が「県犬養」では通らないからでしょう。いくら「宿禰」となり、神別氏族へ格上げとなっていたとしても、県犬養は品部の姓です。なので、708年に橘姓を贈り体裁を整えたのでしょう。
(橘三千代が皇別氏族「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)のひとつである橘氏の祖となります)




あわや藤原王朝を阻止した聖武天皇--------------------------------------

一方の首皇子(聖武)は、自分が満6歳の時の父(文武)の死に不自然なものを感じていたに違いありません。その父が満6歳の時に祖父(草壁)が早世していることを知ったとき、誰しもそこに不自然なもの=人工的なものを感じるでしょう。自分に男児が生まれて、その子が満6歳を超えたとき、もしかして自分も・・・そう考えるのも当然のように思います。

けれど、幸いにして首皇子17歳の時(718年)に生まれたのは、自分を殺す男児ではなく阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)でした(これも、天然痘の時のように天の采配でしょうか)。
その後男児(皇太子)が生まれない中、不比等は720年に亡くなります。この間、男児を生まなかったのは首皇子の抵抗だったのかもしれません。そして、この父娘は反藤原で動いていくことになるのです。


ところで・・・もし聖武に男児が生まれて、その子が満6歳の時に聖武が殺されたとしたら、6-6-6(草壁-文武-聖武)が揃うわけで、日本はもっと深い闇に落ちていたのかもしれません(今でも十分深いですが)。聖武は、その後の日本の鍵を握る宿命を背負っていました。




橘三千代の息子(橘諸兄)vs橘三千代の娘(光明皇后)-----------------

この後をざっと概観しておきますと、首皇子は23歳で聖武天皇(在位724-749)として即位すると、長屋王(天武の孫)を左大臣に据え、脱藤原に舵を切ります。

けれど、727年、聖武は生まれた男児をすぐに皇太子としましたが1歳になる前に亡くなり、それを長屋王の左道(呪い)のせいだと藤原一族が騒ぎ立て、長屋王一族もろともを絶ちました(729)。

なぜか。亡き不比等の野望は光明子を皇后にすることでしたが、長屋王が反対したからです。消すしかありませんでした。そして、長屋王の死後半年で光明子は皇后(光明皇后)となり、ここに日本初の天皇の血統を持たない皇后が誕生します。

向かうところ敵なしの藤原一族の巻き返しが始まりましたが、「天敵」がいました。天然痘が藤原4兄弟を滅亡させたのです(737)。

これを機に聖武は再反撃。不比等の死後、橘三千代が高官にあげていた橘諸兄を右大臣にすると同時に、吉備真備、玄昉ら遣唐使帰国組を登用。反発した藤原広嗣(不比等の三男宇合の子)が反乱を起こしますが、吉備真備が鎮圧(740)。

ところが、749年に聖武から娘・孝謙に譲位がなされ、同時に光明は皇后直属で兵権を持つ紫微中台を設置します。これで光明は天皇の上に立つ権力を持つことになり、その紫微中台の長官に亡くなった藤原4兄弟の長男の子、藤原仲麻呂を抜擢するのです。

750年、吉備真備は権力を握った藤原仲麻呂に左遷され、さらに752年に遣唐副使として国外追放。さらに、聖武が756年に崩御すると、仲麻呂は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)を謀略にかけ、連座する443人もの天武系勢力を拷問により獄死させるなどして一掃していきました(757 橘奈良麻呂の乱)。

いずれ詳細を見ていきますが、なんともはやすごいバトルです。天武と持統が理想の夫婦に見られたように、聖武と光明も夫唱婦随に見えましたが(謎解きはまたいずれ)・・・天武系と天智・藤原系のバトルはずっと続いていたのです。

橘三千代からすれば、自分の娘(光明子)が抜擢した「不比等の孫」によって、自分の息子(橘諸兄)の子=「自分の孫」が殺されたわけですね。藤原vs橘―いずれも橘三千代の子孫でもあり、その後も相克を続けていくことになります。




<続く>






関連記事
 
Comment0  |  Trackback0
 
 

Trackback

 

Trackback URL :
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 
 

Comment

 
    
 
Home | Top ▲
 
はじめにお読み下さい
 

読まれる上での留意点
自分を取り戻す方法総目次
*全記事リンクフリーです

 
ブログ内検索
 
Google

Web このブログ
 
会場でお会いしましょう(^^)
風化させまいカレンダー
 
 
著作
わが子を守るために
記事
写真/動画集はこちら↓
 
 
お問い合わせなどあれば↓
 

名前:
メール:
件名:
本文:

 
ブックマークに追加
 
 
月齢
 
Today's Moon phase
 
↓このパーツを設置すると14本の苗木を植えられます
QRコード
 
QRコード