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古代日本の転換点3-鸕野讃良(持統天皇)に葬られた天武系皇子たち

2016/06/23(Thu) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

前記事で、県犬養三千代(橘三千代)に焦点を当ててこの時代を見てきましたが、天武の皇子たちが次々に犠牲になっていきました。天孫降臨神話まで用意して文武を天皇にした挙げ句、その文武まで殺すわけですから、持統&不比等の野望は徹底していました。文武の子、聖武も危なかったですが、聖武がかろうじて踏みとどまりましたね。

ここでは、天武系の優秀な皇子たちが、どのようにして葬られていったのかに焦点を当てます。持統が擁立した文武から遡っていくと、たどり着いたのは「吉野の盟約」でした。が、その前に天武及び皇子たちがどのように葬られたのか―そこを見てみましょう。

記事1の主な登場人物。
阿倍仲麻呂(698-770)
吉備真備 (695-775)
玄昉    (?-746)
鑑真    (688-763)

記事2の主な登場人物。
持統天皇  (645-703)(41代 690-697 天智の娘・鸕野讃良)
藤原不比等 (659-720)(天智の子?)
元明天皇  (661-721)(43代 707-715 天智の娘・阿部皇女)
草壁皇子  (662-689)(母・持統天皇、妻・阿部皇女)<早世>
県犬養三千代(665-733)(天武の忠臣の娘、708~橘三千代)
文武天皇  (683-707)(母・元明天皇)
橘諸兄    (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・県犬養三千代)
聖武天皇  (701-756)(45代 724-749)
光明皇后  (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂 (706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
橘奈良麻呂 (721-757)(橘諸兄の子)

本記事の主な登場人物。
草壁皇子(662-689/鸕野讃良 天智の娘・妹)<早世>
大津皇子(663-686/大田皇女 天智の娘・姉)<謀反の罪で自害>
高市皇子(654-696/尼子娘)(長屋王の父)
葛野王 (669-706)(天智の子・大友皇子の長男)





天孫降臨のニニギ=文武天皇------------------------------------------

天武&鸕野讚良(天智の娘:うののさらら→持統)の子、草壁。草壁皇子の后(阿部皇女)も天智の娘(持統の妹)。押しも押されぬ天皇血統であり、次の天皇の有力候補は草壁でした。

683年には草壁に軽皇子(文武天皇)も生まれていたわけですから、686年に天武が崩御したとき、24歳の草壁が天皇になっていても何らおかしくなかったでしょう。

けれど、鸕野讚良は草壁を天皇にさせず、自分が権力を握って称制をしき、軽皇子が7歳になったときに草壁は葬られ、当時としては前代未聞の15歳という若さで軽皇子は即位します(文武天皇 在位697-707)。

もし草壁が若いために称制を敷いていたというのであれば、草壁が亡くなった後も、軽皇子が育つまで称制を続けたはずです。けれど、24歳の草壁は天皇にせず、15歳の軽皇子は天皇にしているのですからおかしいですね。

また、仮に草壁が病弱で心配なので天皇にしなかったのであれば、そもそもの第一候補者である大津皇子がいたでしょう。「懐風藻」に書かれていることを見ても、草壁よりも大津の方が天皇適格者です。

また、若いとか病弱とか理由を付けても、天武崩御後に皇太子として殯の儀式を行わせていますから、諸侯の前で殯を立派に勤め終えれば、それこそ次期天皇として迎え入れられたことでしょう。けれど殯を終えても即位させず、その半年後に草壁は亡くなり、さらに半年後に鸕野讚良は天皇として即位しました。

鸕野讚良の行動は、至る所突っ込みどころ満載なのです。
少なくともわかる事実は、鸕野讚良は大津皇子も草壁皇子も天皇にせず、自分が天皇になったということ。そして、軽皇子が15歳になったときに天皇(文武)にしたということです。

まさに、アマテラスが孫のニニギに国の統治を命ずる天孫降臨神話そのまま。天孫とは、「天武の孫」と見せかけながら、天智の血を引く鸕野讚良の孫。(漢風諡号は後でつけたものなので、天智の玄孫の淡海三船は“天孫”を意識して天智、天武とつけた部分もあるのでしょう)。

そして当然、文武の后は不比等(659-720)の娘(宮子)でした。淡海三船が、文武両道及び「周の文王と武王」の両方を兼ねるという最高の諡号を贈ったのも、藤原系の皇統の始祖ということだからのようです。
(参考:「百人一首」随想4:唐の属国化を回避した天武~百済系桓武に至る時代の激動

つまり、鸕野讚良&不比等は、最初から天智の血を引く「鸕野讚良の孫」と「不比等の娘」を天皇&皇后にすることを目指して突き進んでいたのだと思います。




封印された天武の皇子たち------------------------------

さて、鸕野讚良の行動を見ていますと、鸕野讚良が草壁を天皇にする気など端からなかったことがわかりますが、では、草壁を皇太子にすることを公認させたと世に言われている「吉野の盟約」の本質とはなんだったのでしょうか。

一般には、千年事なき世を作るために兄弟力を合わせよ、と天武が争うことを戒めた美談になっていますが、まず、集められた皇子とその結末を見てみましょう。
以下の順位は生まれた順ではなく、序列です。()内には母の名、<>にはその後どうなったかを記しています。

1.草壁皇子(662-689/鸕野讃良 天智の娘・妹)<早世>
2.大津皇子(663-686/大田皇女 天智の娘・姉)<謀反の罪で自害>

3.高市皇子(654-696/尼子娘)(長屋王の父) <毒殺?>
4.川島皇子(657-691/忍海色夫古娘)(天智皇子)
5.忍壁皇子(?―705/かじ媛娘)       <公職追放>
6.志貴皇子(?―716/越道君伊羅都売)(天智皇子)


壬申の乱で天武が頼りにし、かつ最も軍功があったのは長男の高市皇子でした。ただ、母親が皇女ではないため、母親が天智の娘姉妹である草壁、大津の2人は別格扱いだったわけです。

すると、鸕野讃良の視点で見れば、高市皇子は敵ではありません。それに、軍功があった高市皇子に何かあれば天武勢力が結集するでしょうから、ここは触らないで当たらず障らずです。自分と不比等が権力を牛耳っておけばいいわけです。

むしろ最大の敵は、姉の子大津皇子ですね。姉の大田皇女は皇后となるはずでしたが、大津が4歳の時に亡くなっており後ろ盾はいません。と、思いきや683年に夫・天武が大津皇子を政治に参加させました。しかし、天武が686年に崩御すると、その1ヶ月後に謀反の罪でとらえ、自害させました。




天武の異次元に長い殯期間(2年2か月)----------------------------------

では、天武崩御後の流れを見てみましょう。

686.09.09 天武崩御
686.09.11 南庭に殯宮を立てる
686.10.25 大津皇子自害
687.01.01 草壁皇太子が公卿百寮人を率いて殯宮に哭す
687.10.22 大内稜を築く
688.11.04 草壁皇太子が公卿百寮人、諸藩の賓客を率いて殯宮に哭す
688.11.11 遺体を大内稜に埋葬する
689.05.07 草壁皇太子薨去(子の軽皇子→文武天皇数え7歳)
690.01.01 持統天皇即位

本来ならば、天皇崩御後いの一番にすべきことは陵墓の造成です。造成が終わってようやく天皇は埋葬されるわけで、その間を「殯」(もがり)と言います。日本書紀によれば天皇の殯期間が平均6か月ということは、造成半年で埋葬されたということ。

けれど、そもそも陵墓の造成が始まったのが1年後ですし、さらに造成自体にも1年かかっており、結局殯宮を立ててから大内稜に埋葬するまで2年2か月もかかっていて歴代天皇の中で突出しています。一体、この間延びした期間は何を意味しているのでしょうか?




鸕野讃良に葬られたナンバー1大津皇子(686)----------------------------

天武が死に際して次期天皇を任命していなかったとは考えられません。千年事なき世を作るためには何より広い視野を持つ人材が大切であることは、天智の大失敗を見ていただけに痛切なるものがあっただろうからです。天皇の失敗は国を傾けることを知っているため、人格と実力で後任者を決めたことでしょう。

すると、当然亡くなった皇后の皇子、大津皇子に白羽の矢が立ったはずです。だからこそ、政治に参画させたのでしょう。

しかし、上記で見たとおり、鸕野讃良は大津どころかわが子草壁さえも天皇にする気はありませんでした。けれど、まさか妻がそういうことを考えているとは、天武は思いもしなかったでしょう。せいぜい兄弟間で権力争いするな―そこまでだったのだろうと思います。そして、天武が生きている間は、鸕野讃良は天武の方針に従うそぶりを見せ続けたのかもしれません。

天武が亡くなるのを待ち望んでいたのは鸕野讃良であり、天武亡き後に、いの一番にすべきことは大津を葬ることだったのだと思います。そこで、大津が皇太子であることを握りつぶすために、鸕野讃良は大津に謀反の罪を着せて自害させたのではないでしょうか。




鸕野讃良に葬られたナンバー2草壁皇子(689)---------------------------

また、世間が、草壁が皇太子だと知ったのは、687年の元旦に草壁が天武葬送の儀を執り行ったときかもしれません。というのも、天武と大津がいなくなったからこそ、初めて草壁を皇太子にすることが出来たからではないでしょうか。

ならばこの時、草壁が次期天皇として殯を行っても何らおかしくはなかった。まして、諸侯の前で殯を立派に終えた後なら、即位しても確実に受け入れられたでしょう。けれど、天武を大内稜に埋葬した半年後に草壁は葬られ、その半年後に天皇に即位したのは鸕野讃良だったわけです。

草壁は死後「岡宮御宇天皇」(おかのみやぎょうてんのう/おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)と追諡され、岡宮(現在の岡寺)に住んでいたことがわかっています。岡宮は、中臣鎌足が生まれた大和国高市郡大原(現明日香村小原)の外れにあり、藤原不比等に幽閉されていたと考えていいでしょう。

私は、天武の殯期間が異様に長かったのは、時間稼ぎだったのだと思っています。なんの時間稼ぎか? それは、鸕野讃良が軽皇子の成長を見極めるための時間稼ぎです。古代、満6歳を過ぎると一人前と見なされ口分田をもらえたように、満6歳が一人前の分岐点でした。そこで、前記事「満6歳の法則」で見たとおり、子が一人前になった時に、その父親(ここでは草壁)を葬ったのではないでしょうか。

つまり、その計画から逆算し、陵墓の造営や殯の儀式の日程を組んだのだろうと思います。




持統天皇に葬られたナンバー3高市皇子(696)----------------------------

大津、草壁亡き後の大物は太政大臣を務める皇族の重鎮高市皇子です。が、高市はどういうわけか42歳の働き盛り(同時代にも長生きはいますからね~)にして薨去します(696)。

それをきっかけに、持統は皇太子選出の会議を招集。皇族・公卿・官人を宮中に集めたそうですから、だいたいのシナリオは想像がつきます。各派閥の利害関係者を多人数呼ぶということを普通はしないでしょう。会議は当然紛糾しますから、サクラが登場して一説ぶって、それを天皇が承認して全員に周知させて終わり―という形です。

この時、サクラ役が天智の嫡孫・葛野王 (天智の子・大友皇子の長男)でした。彼は次のように主張しました。
・神代から親子間で継承されている。兄弟継承は乱の元。
・どの人が皇太子に適切か、という人の器量は測れない
・これ以上、余計なことをいうな

つまり、葛野王は天皇位は人物(人格)ではなく、親子継承以外にないと言ったわけです。これに対して、天武天皇の第9皇子である弓削皇子が反論しようとしましたが一喝され、「黙認」となり、結果、数ある天武天皇の皇子達はここで一挙に退けられることになりました。

さて、葛野王がわざわざ「兄弟継承は乱の元」と言い、「人物(人格)の器量など測れない」と言っていることが、逆に当時は兄弟継承もあり、人物(人格)も問われていたことを証明しています。実際、皇位の兄弟間継承も多かったし、それに持統自身が(間に文武という傀儡天皇を立てていますが)、異母妹の元明天皇に皇位を継承させていますからね~。

何より、親子継承を言うのであれば、天武崩御後、なぜすぐに草壁を天皇にしなかったのか。3年間も天皇位を空位にしたまま、その間草壁を岡宮に幽閉していた事実を一体どう説明するのでしょうか。

持統がこれを葛野王に言わせたのは、天武が人格と実力を重視しており、天武系豪族たちもそのような見方をしていたからだけではなく、自分に言う資格がなかったからでしょう。そこで、葛野王に頼み、その一喝で「兄弟継承」と「人物(人格)重視」の選択肢を一掃したわけです。

かくして持統は、天武の子の筆頭である高市大臣の死と共に、その他全皇子を一網打尽にし、これによって軽皇子を皇太子にさせ、翌年即位させたわけです(697)。トントン拍子ですね。おそらく軽皇子の元服年齢を計って高市大臣を死に至らしめたのではないでしょうか。




鸕野讃良が天皇になった理由----------------------------------------------

持統は、「その一言の国を定めしことを嘉(よみ)したまふ」あまり、葛野王に正四位を授け、式部省(八省の中で2番目に重要な省)の長官に大抜擢しました。(天智の娘が天智の息子の子を大抜擢したわけです)

語るに落ちましたね。
『皇太后その一言の国を定めしことを嘉(よみ)したまふ』―この「一言」で、隠しに隠してきた鸕野讃良の謀略を、日本書紀は白日の下にさらしてしまいましたね。


ポイントは、この時点で鸕野讃良は天皇になっていたということです。だから、「親子継承」と言えば、孫の軽皇子しかいないわけです。

そう考えると、なんとも用意周到ですね~。
1.ゴール:なんとしても天孫継承(天智の孫継承)を実現する
2.そのために、自分が天皇となり、天智の血を引く孫を持つ。
3.天武系の子は消す
4.兄弟間継承から親子継承へと流れを変える
5.天武系の皇子たちも一掃する

強引に「親子継承」に持って行く汚れ役を葛野王にやらせるとしても、何が何でも自分が天皇になっていなければ、軽皇子に継承は出来ないわけです。ここまでハッキリすれば、もはや鸕野讃良に逃げ場はありません。数多の人を殺めてきた鸕野讃良の殺人動機。それは、自分が天皇になって、孫に親子継承をさせるためでした。つまり、天武の皇子たちには誰一人、皇位を継がせる気がなかったということです。



鸕野讃良は、
天武崩御と共に大津皇子(No1)を葬り、
草壁(No2)を殺して自らが天皇になり、
高市大臣(No3)を殺して天武系皇子を一網打尽にすると共に軽皇子を皇太子にし、その翌年、天皇として即位させ、冒頭の天孫降臨を実現させたのです。






<続く>




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