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古代日本の転換点6-「物部神道」vs「藤原神道」(国津神vs天津神)

2016/06/28(Tue) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

前記事で、「吉野の盟約」で6皇子が無力化され、6皇子から天皇は生まれず、その孫の文武が天孫降臨神話の通りに即位したことまで見ました。藤原氏との闘いは文武の子どもである聖武以降に持ち越されました。まず、聖武天皇の闘いを見ていきましょう。

記事1の主な登場人物。
阿倍仲麻呂(698-770)
吉備真備 (695-775)
玄昉    (?-746)
鑑真    (688-763)

記事2の主な登場人物。
持統天皇  (645-703)(41代 690-697 天智の娘・鸕野讃良)
藤原不比等 (659-720)(天智の子?)
元明天皇  (661-721)(43代 707-715 天智の娘・阿部皇女)
草壁皇子  (662-689)(母・持統天皇、妻・阿部皇女)<早世>
県犬養三千代(665-733)(天武の忠臣の娘、708~橘三千代)
文武天皇  (683-707)(母・元明天皇)
橘諸兄    (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・橘三千代)
聖武天皇  (701-756)(45代 724-749)
光明皇后  (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂 (706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
橘奈良麻呂 (721-757)(橘諸兄の子)

記事3、4、5の主な登場人物。
鸕野皇后(645-703)(41代 690-697 天智の娘)
草壁皇子(662-689/鸕野讃良 天智の娘・妹)<早世>
大津皇子(663-686/大田皇女 天智の娘・姉)<謀反の罪で自害>
高市皇子(654-696/尼子娘)(長屋王の父)
葛野王 (669-706)(天智の子・大友皇子の長男)

本記事の主な登場人物。
聖武天皇 (701-756)(45代 724-749)
光明皇后 (701-760)(不比等の娘)
長屋王  (684-729)(高市皇子の子)
橘諸兄  (684-757)(敏達天皇の末裔、美努王の子)
吉備真備 (695-775)(下道氏or加茂氏)
玄昉    (?―746)(阿刀氏)





●聖武の即位が遅くなった理由と持統・不比等の野望---------------------

不比等の長女・藤原宮子と文武の間に首皇子(聖武天皇)が、不比等と県犬飼三千代の間に光明子が生まれます(701)。

そして、「満6歳の法則」で見た通り、首皇子が数え7歳の時に文武はわずか24歳で殺され、母の阿部皇女(天智の娘)が元明天皇(在位707-715)になっています。その後、元明→元正(元明の娘:在位715-724)と不比等の傀儡天皇が続き、聖武が天皇になったのは724年、23歳になったときでした。

持統が孫の文武を即位させた時は、葛野王というサクラまで仕立てて親子継承の流れを強引に作って、当時は前代未聞の15歳で即位させたわけですから、聖武が15歳になったときに元明が孫の聖武を即位させてもよかったはずです。けれどそうはせずに、元明は中継ぎとして娘を天皇にしました。なぜそうしたのでしょうか。

それは、聖武に男児を産ませたかったからだと思います。首皇子と光明子は、716年、15歳の元服と同時に結婚させられ、17歳の時(718)に第一子が生まれています。けれど残念ながら、生まれたのは女児(阿倍皇女―後の孝謙)でした。


これがもし男児(皇太子)であれば、皇太子を産んだ母ということで光明子を民間初の皇后にするという藤原一族の野望の駒が揃います。男児が生まれた時点で聖武を天皇にし、その子を立太子させ、同時に光明子を立后させる―そういう青写真を描いていたのかもしれません。そのため、男児が生まれるまでは、中継ぎとして結婚を禁じられた元正を天皇にしたのでしょう。

さらに野望はそこでとどまらず、「満6歳の法則」の通り、皇太子が6歳を過ぎたら聖武を殺し、さらに皇太子まで殺してしまえば、跡継ぎなし。仕方がないので女系天皇(母のみが皇統に属する天皇:母系天皇)とし、ここで光明皇后に藤原一族から天皇を擁立すれば、天武系の血が一切入っていない藤原王朝(天智王朝)が始まるわけです。

つまり、男児を誕生させる目的は、あくまで光明を皇后にすることのみにあるわけで、聖武も皇太子も最初から捨て駒なのです。かなり強引ですが、持統&不比等の存在不安コンビは命を道具にしていますから、次のように徹底できるのです(それほど不安が深かったということです)。

・持統は、アマテル+セオリツヒメ→アマテラスに強引に変え、前二柱は日本国中から抹殺していきました。
・持統は天武系皇子たちを皆殺しにしていき、不比等の血を引く2人の子ども(聖武と光明)が誕生した2年後に亡くなりました。
・天武系の血を絶やさなければ安心できないという持統の執念は、そこで終わらなかったはずです。後を継いだのが不比等。それが、天皇・皇后ともに藤原(天智?)の血を引く天智王朝を生み出すことだったのだと思います。




●旧権力ナンバー1物部氏を旧都に封印したナンバー2藤原不比等-------

元明―元正期は不比等及び藤原4兄弟の傀儡政権下で、古事記(712)・日本書記(720)を完成させて内外に対して国の形の理論武装をすると共に、九州や東北に国を置いたり城を築いたりして縄文人を支配し、「日本国」という形を整えていく時期でした。

701 大宝律令制定。首皇子(聖武)&光明子誕生。
702 薩摩国・多禰国を置く

707 文武天皇崩御→元明天皇即位-----------------------
709 巨勢麻呂・佐伯石湯、蝦夷を平定
710 平城京に遷都        <藤原神道システムの開始>
712 「古事記」完成
713 丹後国・美作国・大隅国を設ける

715 元明→元正天皇即位------------------------------------
716 吉備真備・玄昉ら入唐
718 首皇子に阿倍皇女(孝謙)誕生。能登・安房・石城・石背国設置。
720 「日本書記」完成。不比等薨去。隼人の乱に大伴旅人(征夷大将軍)を派遣。


その元明期の710年、不比等は天武が構えた藤原京から平城京に遷都します。この当時の左大臣(総理)は石上麻呂(物部氏)であり、右大臣(ナンバー2)が不比等でしたが、石上麻呂は旧都の留守役に命じられ、ここに物部氏の没落は決定的となりました。

(「かぐや姫」では、石上麻呂は中納言石上麻呂足、不比等は車持皇子のようですね。石上麻呂足は「燕の子安貝」を持ってくるように言われ、自ら取りに行きますが、腰の骨を折ってしまいます。左大臣にありながら置き去りにされてしまった―まさに、“腰砕け”の石上麻呂を彷彿とさせます)

この遷都は旧勢力を一掃するためだったのでしょう。そして、遷都から10年、折しも「日本書記」が完成した年に不比等は亡くなりました。




●長屋王一族の滅亡と藤原系皇后の誕生---------------------------------

そして、不比等が亡くなった4年後、23歳で即位したのが聖武天皇(在位724-749)でした。自らも不比等の孫であり、后は不比等の娘光明子、臣下は不比等の子―藤原4兄弟に囲まれた完全な傀儡天皇。

けれど不比等亡き後、聖武は長屋王(高市皇子の子、天武の孫)を左大臣に据え、脱藤原に舵を切ります。

さらに、聖武は727年に生まれた男児をすぐに皇太子としましたが1歳になる前に亡くなります。藤原一族は、皇太子が亡くなったのは長屋王の呪詛だ、謀反を企てていると騒ぎ立て、自害に追い込みました(729 長屋王の変)。

光明子を皇后にすることに反対していた長屋王の死後半年で、藤原一族は光明子を皇后(光明皇后)にし、ここに日本初の天皇の血統を持たない皇后が誕生しました。

かくして、物部氏は旧都に残され、長屋王という右腕をもがれ、おまけに光明子が皇后となって、聖武は完全に四面楚歌ならぬ「四面藤歌」。向かうところ敵なしの藤原時代がスタートしたわけです。




●「四面藤歌」の中、仏教勢力に託した聖武天皇--------------------------

聖武天皇にとって藤原一族は、父・文武及びわが子を殺めた敵であり、物部氏や長屋王を失脚させた敵であり、けれど孤立無援、形成は圧倒的に不利でした。

が、吉備真備・玄昉らの援軍が帰国(735)、さらに「天敵」―天然痘が藤原4兄弟を滅亡させます(737)。これを機に聖武は反撃。橘諸兄、吉備真備、玄昉ら遣唐使帰国組を登用。反発した藤原広嗣(不比等の三男宇合の子)が反乱を起こしますが、吉備真備が鎮圧(740)。

しかし社会不安は深刻になり、聖武は大仏建立を目指します(なぜ目指したのかは別項)。聖武天皇は大仏建立に当たって大量の金を必要とし、唐に派遣することまで考えていましたが、それを陸奥国で発見して献上したのが百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)でした。これにより敬福は7階級特進。以降、朝廷は百済王氏を重用していくことになります。

それがどれくらい嬉しかったかというと、黄金が献上された749年、喜びのあまり元号を「天平感宝」に改元したくらいです(別項)。その上、建立中の大仏に拝礼し、「三宝の奴」(仏・法・僧の三宝の僕)となる儀式を行いました。国家最高の神官である天皇が仏教に帰依する姿を“見せた”のです。聖武は、なぜこれほど仏教に頼ったのでしょうか・・・。




●「物部神道」vs「藤原神道」--------------------------------------

それをひもとくには、まず神道です。
神道はおおざっぱには、縄文神道→国津神系の神道→天津神系の神道→明治以降の国家神道と変遷していきますが、国津神系の神道を「物部神道」、持統&不比等が整備した天津神系の神道を「藤原神道」と呼ぶことにします。(物部神道という呼び方はありますが、藤原神道という呼び方がないため)

物部神道は、太陽神アマテル (男神)(ニギハヤヒのこと)
藤原神道は、太陽神アマテラス(女神)

藤原京と共に物部神道は終焉し、
平城京と共に藤原神道がスタートしました。

藤原神道(日本書紀)は明治に先立つ国策神道だったわけです。

そういう流れの中で、聖武をサポートしたのは玄昉、その娘孝謙をサポートしたのは道鏡という仏教勢力でした。

ところで、玄昉の俗姓は阿刀。道鏡の俗姓は弓削。
実は、阿刀氏も弓削氏も物部氏。
つまり、聖武父娘が頼った相手は、神武以前の大和の王ニギハヤヒの末裔である物部氏だったということです。

中大兄に狙われた大海人が一度出家したように、権力争いに巻き込まれたくない皇族は命を狙われないために仏教界に身を置いていましたが、同様に、物部神道は仏教界に形を変えて続いていたわけです。物部氏は藤原京と共に封印されたと思いきや、このような形で生きていたわけですね。

藤原神道システムで動いていた奈良の都平城京の水面下では、仏教に形を変えた物部神道が伏流していたと言えるかもしれません。

つまり、聖武は仏教に頼ったというよりも、仏教勢力に形を変えた物部勢力に頼ったと言えるでしょう。


では、黄金を得るために唐に派遣してまで大仏を建立したかった意味は何なのでしょうか。





<続く>










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