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古代日本の転換点9-聖武&孝謙天皇(父娘)vs光明皇后&藤原仲麻呂(不比等の子と孫)

2016/07/01(Fri) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

反藤原のシンボルタワー東大寺大仏殿を作り上げ、さらに東大寺の盧舎那仏(アマテル)と宇佐神宮の比売大神(瀬織津姫)を招喚して、縄文を含む旧勢力を結集した聖武天皇は、大仏開眼の3年後に亡くなります。

藤原との闘いは娘孝謙へと引き継がれました。
それは、裏で糸を引く母(光明皇后)との闘いでもありました。

さて、人は皆「親の子」と「子の親」の狭間を生きています。子どもを満喫しなければ大人になれませんし、子を産んだからとて親になれるものではありません。親になるには親としての自覚が必要です。

しかも自分の脚本に無自覚なままに表層的な自覚をしていたりしますので、間違った方向に突っ走ってしまうことが殆どです。というのも、全ての人は「親のために生きる脚本」で「親以外とつながるな」という禁止令の中、「親の子」のまま生きることを無意識に決めているからです。同時に、存在不安から逃げ続けるために自ら進んでその脚本に埋没して生きています。

ここでは、聖武の妻にはならず、「親の子」として生き通した光明子の部分に焦点を当てましたので、表題のような表現になりましたが(光明子の謎解きは別項)、主役は孝謙天皇(聖武の娘)と藤原仲麻呂(不比等の孫)です。それを藤原仲麻呂を主軸に見てみたいと思います。


記事1、5の主な登場人物。
阿倍仲麻呂(698-770)
吉備真備 (695-775)(下道氏or加茂氏)
玄昉   (?―746)(阿刀氏)
鑑真    (688-763)

記事2の主な登場人物。
持統天皇  (645-703)(41代 690-697 天智の娘・鸕野讃良)
藤原不比等 (659-720)(天智の子?)
元明天皇  (661-721)(43代 707-715 天智の娘・阿部皇女)
草壁皇子  (662-689)(母・持統天皇、妻・阿部皇女)<早世>
県犬養三千代(665-733)(天武の忠臣の娘、708~橘三千代)
文武天皇  (683-707)(母・元明天皇)
橘諸兄    (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・県犬養三千代)
聖武天皇  (701-756)(45代 724-749)
光明皇后  (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂 (706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
橘奈良麻呂 (721-757)(橘諸兄の子)

記事3、4、5の主な登場人物。
鸕野皇后(645-703)(41代 690-697 天智の娘)
草壁皇子(662-689/鸕野讃良 天智の娘・妹)<早世>
大津皇子(663-686/大田皇女 天智の娘・姉)<謀反の罪で自害>
高市皇子(654-696/尼子娘)(長屋王の父)
葛野王 (669-706)(天智の子・大友皇子の長男)

記事6の主な登場人物。
聖武天皇、光明皇后、橘諸兄、吉備真備、玄昉
長屋王  (684-729)(高市皇子の子)

記事7,8の主な登場人物。
聖武天皇

本記事の主な登場人物。
長屋王  (684-729)(高市皇子の子)
光明皇后 (701-760)(不比等の娘)
藤原仲麻呂(706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
孝謙天皇 (718-770)(46代 749-758 聖武の娘)
大伴家持 (718-785)(征隼人持節大将軍・旅人の子)
淳仁天皇 (733-765)(47代 758-764 藤原仲麻呂の子飼い)
弓削道鏡 (700-772)(弓削氏<物部氏)

それでは、年代を追ってみてみましょう。





724年 辛巳事件/長屋王が防御した藤原の布石--------

718年、聖武と光明の間に第一子誕生。これがもし皇子であれば、皇太子を産んだ母として光明が立后され、その後聖武及び皇太子は殺されて藤原一族から母系天皇が誕生し、藤原王朝(天智王朝)が始まることになっていたかもしれません。けれど、誕生したのは女児(阿倍皇女)であり、その後生まれないまま、720年に不比等は亡くなりました。

不比等は、亡くなる3年前の717年に4兄弟の中で最も優秀な次男藤原房前(ふささき)を参議に入れ、長屋王に対抗する布石を打っています。721年、長屋王が右大臣になると、天智の娘・元明天皇(持統の妹)は藤原房前を内臣(うちつおみ/聖武の監視役)にして崩御。

724年、聖武の母・宮子は大夫人(だいぶにん)に昇格し、「中宮識」(天皇の妻の官房)が置かれます。宮子を特別扱いし、やがて藤原一族から皇后を出すための布石の一つでしょう。(やがて、「中宮」は皇后の別称になっていきます)

この布石を阻止したのが、同年に左大臣になった長屋王。大夫人という呼び方を撤回させ、「皇太夫人」と呼ぶよう決着を付けました(辛巳事件/しんしじけん)。




729年 長屋王vs光明子を立后したい藤原4兄弟(長屋王の変)

727年、聖武と光明の間に基皇子(もといのみこ)誕生。生後間もなく立太子するという異例のことが行われます。“異例”の背景には必ず“意図”があります。目的は、基皇子を確実に天皇にすることではなく、皇太子を産んだ母として光明子を皇后にすること。立后するために、藤原一族がごり押ししたのではないでしょうか。

一方、聖武にとっては「満6歳の法則」のスイッチが押されたことになります。このままでいけば、光明が皇后にされた後、733年頃に自分が殺され、その後皇太子も殺されて母系天皇誕生という流れになるかもしれない―そういうことを聖武も考えたかもしれません。けれど、基皇子は1歳になる前に亡くなりました。

(ところで、Wikiなどでは、『聖武天皇と光明皇后とのあいだに生まれた』などと書かれてあって、無意識に光明が皇后であったと暗示をかけられてしまいますが、この時点では光明子はまだ皇后ではありません)

翌728年、安積親王(あさかしんのう)(母は県犬養広刀自/あがたのいぬかいのひろとじ)が生まれますが、こちらはすぐに立太子されませんでした。基皇子の扱いと比べると不自然ですね。
藤原4兄弟の“邪魔”があったであろうことは、容易に想像がつきます。当時の風習通り、母方の里で育ったとすれば、県犬養氏は天武の忠臣ですから大事に守り育てられたことでしょう。そのまま育てば、いずれは皇太子となり聖武の血筋が出来てしまいます。

追い詰められた藤原4兄弟は強引に光明を立后しようとしますが、長屋王が反対。そこで、基皇子が亡くなったのは長屋王の左道(さどう/邪道)のせいであると濡れ衣を着せて、729年に一族滅亡に追い込みました。(長屋王の変)

そして、その半年後にようやく光明子を皇后にすることが出来たわけです。




744 安積親王を守れなかった聖武の悔い--------------

ところがその後、日照り、落雷、大地震、飢饉、疫病などが続き、ついに737年、天然痘で藤原4兄弟がいなくなると、聖武は738年に橘諸兄を右大臣にし、吉備真備・玄昉ら唐帰国組を援軍にして脱藤原を狙います。

ここで不思議なことがなされます。安積親王(10歳)がいるというのに、22歳の阿倍内親王が日本初の「女性皇太子」となるのです。聖武の息子ではなく、光明の娘を後継天皇に指名したわけですね。
安積親王を天皇にさせない決意が表れているように思いますが、藤原4兄弟が亡くなったにもかかわらず、光明皇后の力が大きかったことが推測されます。

740年、聖武の政治を不服とする藤原広嗣が乱を起こしますが、吉備真備が鎮圧。同年~744年まで聖武は各地を転々とするわけですが、それは藤原神道システムで動いている平城京を脱し、新たな都を造営する地を探していたのかもしれません。

それは、安積親王を藤原の魔の手から守るためでもあったでしょう。けれど、744年に安積親王が藤原仲麻呂に毒殺され、希望を断たれました。安積親王を守れなかった聖武の悔いはいかばかりだったでしょうか。

(なぜ仲麻呂毒殺説に肯けるのかと言えるのかといえば、仲麻呂は後に立太子させる大炊王を私邸に囲っていたからです)




749 紫微中台設置。光明=仲麻呂体制で橘諸兄を圧倒

その藤原仲麻呂(長男武智麻呂の子)を抜擢したのは、叔母の光明皇后。746年に式部卿(官吏の人事役員)に任ぜられた仲麻呂は、吉備真備・玄昉らを筑紫に左遷するなど諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成しました。

そして749年、先に見たとおり、聖武は強引に娘・孝謙天皇(46代 在位749-758)に譲位させられていますから、光明を後ろ盾にした人事役員・仲麻呂の勢力はすでに強大になっていたのでしょう。

孝謙が即位すると同時に、光明皇后は紫微中台を設置。玄宗皇帝の「紫微省」と則天武后の「中台」を合わせた名称で、皇太后の命令を施行し兵権を発動する権能を持ち、これによって不比等の娘・光明は天皇を超える最高権力者となりました。

その紫微令(紫微中台長官)と中衛大将に仲麻呂を任じ、政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は左大臣・橘諸兄の権力を圧倒。また、結婚を禁じられた孝謙は光明の傀儡天皇であり、ここに「光明=仲麻呂体制」が確立されました。




757 道祖王廃太子と子飼いの大炊王の立太子---------------

756年、聖武は崩御する際、後継に道祖王(ふなどおう)を指名しますが、757年に廃され、仲麻呂が私邸の田村第(たむらてい)に囲っていた天武の皇子・舎人親王の七男・大炊王(おおいおう)を立太子させました。仲麻呂が権力を掌握していたことがわかります。

孝謙がたびたび田村第を訪れたことから、「田村宮」などとも呼ばれていますが、孝謙は天武の孫たる大炊王に何らかの働きかけをしたかったのではないかと推測します。




757 橘奈良麻呂疑獄事件/旧勢力の一掃--------------

立太子に続いて仲麻呂は、橘諸兄の子奈良麻呂をはじめとした旧勢力の一掃を画策。道祖王(天武の孫)、黄文王(長屋王の子)、橘奈良麻呂(橘諸兄の子)を始め、多治比氏、大伴氏、佐伯氏、賀茂氏など旧勢力の重鎮を激しい拷問によって獄死させました。流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼりました。
(教科書では「橘奈良麻呂の乱」となっているが乱ではなく謀略→別項)

大伴家持(718-785)は、大仏建立のための黄金が陸奥国から採れたことを祝した歌の中で、大伴と佐伯の氏は、『海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ』と誓った祖先の末裔であると誇らかに歌っています。大伴氏、佐伯氏は古来から天皇を守る軍事氏族だったのです。

763年に家持も藤原仲麻呂を暗殺しようとしましたが未遂に終わり逮捕されます。が、藤原良継(不比等の三男・宇合の子/式家)が単独犯行を主張したため、薩摩への左遷ですみました。仲麻呂死去後は要職に返り咲きますが、桓武期に都を追放されたり再び将軍職に就いたり浮沈の激しい人生を送りますが、それだけ方向性が明確だったということでしょう。




758 淳仁天皇擁立、恵美押勝として独裁--------------

旧勢力を一掃した仲麻呂は、孝謙を上皇に退けて子飼いの大炊王を即位させ(47代淳仁天皇 在位758-764)、ここから傀儡天皇の元で仲麻呂の独裁が始まりました。
名を「恵美押勝」と改名しますが、「押勝」という名に聖武の勢力(天武系勢力)に“押し勝った”という自負が見られるようです。

その勢いに乗り、官名を唐風に改称させ(唐風政策)、淡海三船に漢風諡号を付けさせ、759年には新羅征伐まで行おうとします(孝謙上皇に阻まれてなされず)から、どれほどの権勢を誇ったかがわかります。




761 淳仁天皇と孝謙上皇を保良宮に幽閉----------------------

仲麻呂は邪魔な孝謙上皇を遠ざけるため、759年、地元近江国に保良宮(ほらのみや)を作り始めますが、760年に後見者であった光明皇后が崩御。紫微中台(坤宮官)は廃止され、人臣として史上初の太師(太政大臣)となったこの年から陰りが見え始めます。

焦る仲麻呂は、761年に未完成のまま保良宮に淳仁天皇と孝謙上皇を住まわせ(淳仁は、いわば孝謙の監視役)、平城宮を私物化し、762年に息子や娘婿を次々に重鎮に付けて体制強化を図りました。

一方、761年に保良宮に幽閉された孝謙上皇は病に倒れますが、弓削道鏡の看病を受けて平癒。762年、出家して法華寺に逃れました。




764 藤原仲麻呂の乱----------------------------

孝謙を警戒した仲麻呂は、諸国の兵を都に集めて訓練する規定を作り、それを元に764年に兵を動員しようとしました。が、密告により仲麻呂のクーデターを知った孝謙は淳仁から皇権発動に必要な鈴印を山村王(用明天皇の皇子)に奪取させます。

仲麻呂は三男訓儒麻呂(くすまろ)に奪回させますが、孝謙は坂上苅田麻呂(かりたまろ/後漢の霊帝の子孫)らを派遣。訓儒麻呂は殺され、再奪取に成功。後続の追っ手は紀船守が絶ちました。

孝謙は、造東大寺司長官であった吉備真備(当時70歳)に仲麻呂誅伐を命じます。仲麻呂は塩焼王(氷上塩焼/天武の孫)を立てて対抗するも、孝謙は太政官印のある文書を信用しないように通達。

戦乱は、藤原蔵下麻呂(くらじまろ/不比等の三男藤原宇合の子:式家)の援軍もあって仲麻呂一族は皆殺しにされ、淳仁は淡路国に流されました(淡路廃帝)。

(家持の項でも見ましたが、式家は反南家ですね。藤原一族の中で相克があるようです)

光明皇后の後ろ盾を得、
淳仁とともに栄華を極めた藤原仲麻呂は、
淳仁とともに没落しました。




<続く>




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Comment

 

こんにちは。はじめまして。

人間の営みの歴史
探索するほどに、課題が浮かび上がるよう。。
>子どもを満喫しなければ大人になれません
>全ての人は「親のために生きる脚本」で「親以外とつながるな」という禁止令の中、「親の子」のまま生きることを無意識に決めているからです。同時に、存在不安から逃げ続けるために自ら進んでその脚本に埋没して生きています。

これがタテ社会から循環社会に卒業できない元凶の1つでしょうか?
子が親を越える=人類の進化 とすれば、和の国ニホンのデントーはもう脱ぎ捨てたい。。
子ども時代を満喫させて、なおかつ子どもを自分につなぐことなく羽ばたかせる親を育てなくちゃなんですね。

 
    
 
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