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古代日本の転換点10-称徳(孝謙)天皇の道鏡事件の本質

2016/07/04(Mon) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

前記事で、藤原仲麻呂を主軸に聖武&孝謙天皇(父娘)vs光明皇后&藤原仲麻呂(不比等の子と孫)の闘いを見ましたが、ここでは孝謙天皇の立場から見てみましょう。

記事1、5の主な登場人物。
阿倍仲麻呂(698-770)
吉備真備 (695-775)(下道氏or加茂氏)
玄昉   (?―746)(阿刀氏)
鑑真    (688-763)

記事2の主な登場人物。
持統天皇  (645-703)(41代 690-697 天智の娘・鸕野讃良)
藤原不比等 (659-720)(天智の子?)
元明天皇  (661-721)(43代 707-715 天智の娘・阿部皇女)
草壁皇子  (662-689)(母・持統天皇、妻・阿部皇女)<早世>
県犬養三千代(665-733)(天武の忠臣の娘、708~橘三千代)
文武天皇  (683-707)(母・元明天皇)
橘諸兄    (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・県犬養三千代)
聖武天皇  (701-756)(45代 724-749)
光明皇后  (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂 (706-764)(不比等の長男武智麻呂の子/南家)
橘奈良麻呂 (721-757)(橘諸兄の子)

記事3、4、5の主な登場人物。
鸕野皇后(645-703)(41代 690-697 天智の娘)
草壁皇子(662-689/鸕野讃良 天智の娘・妹)<早世>
大津皇子(663-686/大田皇女 天智の娘・姉)<謀反の罪で自害>
高市皇子(654-696/尼子娘)(長屋王の父)
葛野王 (669-706)(天智の子・大友皇子の長男)

記事6の主な登場人物。
聖武天皇、光明皇后、橘諸兄、吉備真備、玄昉
長屋王  (684-729)(高市皇子の子)

記事7,8の主な登場人物。
聖武天皇

記事9の主な登場人物。
光明皇后、藤原仲麻呂、長屋王
孝謙天皇 (718-770)(46代 749-758 聖武の娘)
大伴家持 (718-785)
淳仁天皇 (733-765)(47代 758-764 藤原仲麻呂の子飼い)
弓削道鏡 (700-772)(弓削氏<物部氏)

本記事の主な登場人物。
和気清麻呂(733-799)
称徳天皇 (718-770)(48代 764-770 聖武の娘)





●元号でわかる聖武から孝謙へ譲位した裏事情-----------------------------

先の記事で、749年に光明皇后が、聖武を譲位させて娘を孝謙天皇にすると同時に、紫微中台を設置して天皇を上回る権力を持ったことを書きましたが、譲位がかなり強引になされたであろう事は、元号で想像できます。

改元するとは、これからその時代が来るという期待です。聖武は、これから新たな世を作るという期待に燃えて「天平感宝」という元号を作ったはずです。けれど、改元してわずか3ヶ月で譲位することになりました。

天皇交代となれば元号も変わらざるを得ませんから、最初から譲位するつもりがあれば、はなから改元などしなかったでしょう。実際、わずか3ヶ月で「天平勝宝」に変わりましたから、「天平感宝」が使われることはありませんでした。

なぜこのような強引なことが行われたのか? 
それは、先に見ましたように、この「天平感宝」という元号自体に、「藤原神道システム」ではなく「東大寺仏教システム」で世を統治していくという天皇の意志が込められており、それは藤原権力の剥奪につながるからです。なので、それが全国に行き渡る前に阻止しなければなりませんでした。ですから、強引に譲位させ、もって元号を変えさせたのだと思います。

しかも、突然の譲位ですから孝謙は当然中継ぎ。そのため結婚を禁じられました。娘が母親から道具としてしか扱われていないことがよくわかります。




●孝謙天皇(娘)vs光明皇后(母)------------------------------------------

けれど、即位した孝謙天皇は、ただの操り人形ではありませんでした。藤原氏の目論見に反して新元号を「天平勝宝」とします。「宝をもって勝つ」―ここに聖武(父)の無念を継いだ娘孝謙天皇の“密かな決意”が表れているように思います。孝謙天皇かっこいいですね。

ここから、聖武の子・孝謙天皇と不比等の孫・藤原仲麻呂の間で、天武系vs天智系の第2ラウンドの闘いが始まります。母親を始めとして藤原一族に囲まれた孝謙天皇の動きの本心は見えにくいですが、ここでは事実を元に推測で書いておきます。「聖武の娘:孝謙」vs「不比等の娘:光明」という観点で見るとわかりやすいかもしれません。
(ここではこの視点から眺めるということで、光明の心理については、また後日)




●橘奈良麻呂(孝謙)vs藤原仲麻呂(光明)----------------------------------

聖武は756年に亡くなる際に、道祖王(ふなどおう/天武の七男・新田部親王の子)を後継に指名しますが、藤原仲麻呂は子飼いの大炊王(おおいおう/天武の六男・舎人親王の七男)を天皇にすることを目論んでいました。大炊王は即位後に仲麻呂のことを「朕が父」とまで言った、完全なる子飼いです。

光明皇后(不比等の子)の後ろ盾を得ていた仲麻呂(不比等の孫)は、道祖王及びそれを支持する天武系勢力(橘諸兄の子の橘奈良麻呂など)の一掃を計画。

757年、道祖王を廃して大炊王を立太子。これは皇后でなければ出来ないでしょう。一方、仲麻呂は、橘奈良麻呂らに謀反の疑いがあると密告。けれど、孝謙天皇は「自分は信じない」と却下。

ところが、小野東人らを拷問にかけ、謀反の計画を強制的に供述させます。東人は獄死していますので、本当に供述したのかどうか・・・。名をあげられた人々は逮捕され、道祖王(天武の孫)、黄文王(長屋王の子)、橘奈良麻呂(橘諸兄の子)を始め、多治比氏、大伴氏、佐伯氏、賀茂氏など旧勢力の重鎮を激しい拷問によって獄死させました。
孝謙天皇及び殺された人々、その親族の無念いかばかりか。

流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼりました。死人に口なし―まさに手段を選ばないやり方です。こうして、天武系勢力は一掃されました。

両手を奪われた孝謙天皇は、翌758年譲位させられて上皇となり、大炊王は淳仁天皇(在位758-764)となります。
権力を握った仲麻呂は百済(藤原)の仇敵である新羅征伐まで計画(759)しましたから、どれほど絶頂期だったかがわかります。が、孝謙上皇に阻止されています。

そして、孝謙(娘)の本当の敵(ラスボス)である母親(光明)が亡くなると、娘の孝謙は復活し、追い詰められた仲麻呂がクーデターを画策するも吉備真備に討たれます(764)。孝謙は再び即位して称徳天皇(764-770)となりました。

(なお、道祖王とか雄略天皇とか、日本書紀がさんざんな書き方をしている人物について、私はそうは見ていません。文字はいくらでも嘘をつきます)




●称徳天皇の道鏡事件の本質-----------------------------------------------

しかし、結婚を禁じられた称徳に子はありません。窮余の一策で考えたのが道鏡を天皇にするという策だったのかもしれません。道鏡事件(769)の概要は下記↓
宇佐神宮(宇佐八幡)と道鏡事件

道鏡の俗姓は弓削。聖武をサポートした玄昉の俗姓は阿刀。
実は、弓削氏も阿刀氏も物部氏。つまり、聖武父娘が頼った相手は、神武以前の大和の王ニギハヤヒの末裔である物部氏ということです。

こうしてみますと、世に言う「道鏡事件」の本質が見えてきます。それは、聖武-孝謙(称徳)2代にわたる、藤原独裁政治への闘いでした。

翌年、無念のまま称徳天皇は亡くなり、後継争いは吉備真備が押す天武の孫と藤原百川の押す天智の孫対決。が、藤原氏が称徳の遺詔に細工して天智系に決定(光仁天皇:770-781)。

その光仁天皇と高野新笠(百済人末裔)との間に生まれたのが桓武天皇(737-806/在位781-806)です。つまり、光仁天皇は最初から高野新笠と結婚させるために擁立されたようなものでした。

藤原鎌足(百済王子の豊璋?600年代)から始まった百済派の天皇擁立作戦は、およそ100年後、ついに天皇自身に百済系を登場させたのでした。




●「和氏(やまとうじ)」和気清麻呂(733-799)の野望------------------------

ところで、称徳天皇の道(道鏡事件)を阻んだのは和気清麻呂。
桓武天皇の下で、平安遷都を進めたのも和気清麻呂です。

実は、その和気清麻呂も高野新笠も和氏(やまとうじ)なのです。

高野新笠は、百済第25代武寧王を祖と称した帰化人の末裔。大和国城下郡大和郷に住んだため、「和史」(→後に和氏)を名乗りました。(いかにも日本的な名ですが、住んだ地名だったんですね)

史(ふみひと→ふひと)とは事務職のこと。
漢字を扱うため渡来人が当てられ、その一族を「史部(ふひとべ)」として編成し、そこに属する人々に「史」の姓が与えられるようになっていきました。当然、渡来系の人々が政府高官の要職を占めるようになっていくわけです。藤原不比等も、元は藤原史。

新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、白壁王(光仁天皇)に入侍していました。つまり、桓武天皇は召使いの子ということになります。

孝謙上皇に従事した和気広虫、その弟の和気清麻呂、桓武天皇の時に渡来系氏族として初めて公卿となった和家麻呂(乙継の孫)も「和氏」です。つまり、藤原氏と和氏という百済系の帰化人が、協力して百済系の天皇及び平安京を建てたのでした。

ここに、
日本書紀という神話、
律令という法と刑罰、
平安京という四神相応の地、
桓武という百済系の天皇、
藤原という百済系の左大臣(総理大臣)、
史部という渡来系高級官僚
を整えた千年の都が完成したのでした。
(その下に隠れて秦氏がいると思いますが)

(ご参考:孝謙(天武系)vs藤原仲麻呂(天智系)





<続く>





ここらで一息入れます。
この後も驚くことが出てきますが(って、自分で勝手に驚いてんですが)、再開は「まほろば講座」の後あたりかな。では。



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