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古代日本の転換点12-光明皇后が鎮魂したのは長屋王ではなく聖徳太子

2016/09/13(Tue) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

先の年表を見ながら、安宿媛に注目して歴史を眺めてみましょう。

安宿媛を皇后にするため長屋王一族を葬る--------------------------

716年、安宿媛(あすかべひめ)は首皇子(聖武)の皇太子妃となります。
718年、阿倍皇女(孝謙)が誕生。

720年に不比等が薨去し、藤原氏の氏寺である興福寺は国営とされます(造興福寺仏殿司という役所創設)。その後、興福寺は大和の土地を所有し、隆盛を誇っていきますから、藤原氏の勢力のほどがうかがわれます。その藤原一族の目の上のたんこぶが長屋王。

721年に長屋王が右大臣になります。(当時、左大臣・石上麻呂は717年に没するまで、旧都・藤原京に取り残されたまま最高位にありましたので、平城京では右大臣が最高位だったと思われます)

一方で、天智の娘・元明上皇は、不比等が投入した4兄弟の中のエース藤原房前を内臣(聖武の監視役)とし、亡くなりました。首皇子は徹底して囲われていますね。一方の安宿媛にとっては、兄がお目付役としてきたわけです。

724年、聖武が天皇として即位すると安宿媛が天皇の「夫人」となったことを理由に、聖武の母・宮子を「大夫人」となし、初めて中宮識が設けられました。これは、藤原家を皇族化しようとする布石だったと思われますが、長屋王に阻止されました。
【724年 辛巳事件/長屋王が防御した藤原の布石】

727年、ついに聖武と安宿媛の間に基皇子が誕生します。藤原一族にとっては、安宿媛を皇后にするためのチャンス到来。が、1歳前に死去し、そのチャンスはなくなります。

728年、今度は聖武と県犬養広刀自の間に安積親王誕生。こちらは、安宿媛が皇后になるチャンスを奪う者であり、絶対に皇太子にさせてはいけませんでした。

藤原一族は、長屋王と聖武が力を付ける前に安宿媛を皇后にすることと安積親王を葬ること―この2つをしなければならなくなりました。

そこで、729年、基皇子が亡くなったことに言いがかりを付けて長屋王一族を滅亡させ、目の上のたんこぶがいなくなったところで、安宿媛を立后しました。また、藤原4兄弟が要職に就き、完全な藤原政権となります。
(安積親王は744年に不比等の長男の子・藤原仲麻呂が毒殺)




異常気象、天変地異と法隆寺-----------------------------------

ところが翌730年、日照りで苦しむ諸国に盗賊が発生、神祇官庁舎に落雷して複数名が死亡。長屋王の祟りに怯えたこの年、興福寺に置かれていた施薬院・悲田院を皇后宮職に置くことにします。慈善事業を本格化することで、罪を贖おうとしたのではないでしょうか。

けれど、732~737年にかけて日照り、飢饉、疫病と天変地異が続き、そういう中、母・橘三千代も亡くなり(733)、その弔いのために興福寺の東金堂に対面する西金堂を造営しています。西金堂の仏像は、聖武が広めようとした「金光明最勝王経」に説く釈迦浄土を表したものです。

完全な藤原政権下で聖武が733年に宇佐神宮二之御殿(瀬織津姫)の造営を始められたのも、天変地異を収めるため葬られた御霊を慰めるという名目が立ったからかもしれません。

734年には畿内七道地震が発生。山崩れ、川の閉塞、地割れが数えきれないほど発生、家屋倒壊、圧死者多数。天然痘も流行って世は荒廃しました。壮絶な祟りと受け止められたことでしょう。民がそのように受け止めたということが、返す刀で政治批判となり問題となるわけです。この時、皇后は法隆寺に施入(財物を献上)しています。

けれど天然痘は引き続き、翌年736年にも法隆寺に施入していますが、それも空しく737年にはついに四兄弟が死去しました。この衝撃は大きかったと思われます(後述)。

738年には藤原房前一周忌に法隆寺に施入しています。
四兄弟そのものの鎮魂であれば、藤原氏の氏寺である興福寺に施入するはずです。なので、長屋王の祟りを恐れ、その鎮魂のためだとされていますが、でもなぜ法隆寺なのでしょうか。

それまでも、施入先はことごとく法隆寺ですね。法隆寺といえば、聖徳太子。その法隆寺に施入したのですから、聖徳太子を鎮魂したことに間違いはありません。なぜ、聖徳太子を鎮魂する必要があったのでしょうか。





法隆寺
【法隆寺】より


<続く>






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