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古代日本の転換点13-聖徳太子の遺志を継ぐ聖武天皇と光明皇后

2016/09/14(Wed) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

光明皇后が鎮魂したのは、藤原一族が滅ぼした長屋王ではなく聖徳太子でした。安宿媛にとっては、自分が生まれる約80年前に亡くなった人物が聖徳太子(現代の歴史年表上では)。けれど、わずか80年であれば、どういう人物でどのように亡くなったのかは生々しく伝わっていたことでしょう。

さて、聖武天皇及び光明皇后の仏教に関わる出来事を挙げてみましょう。




聖武&光明―仏教関連年表--------------------------------------

720 藤原氏の氏寺・興福寺を国営とする
722 元明一周忌に法隆寺に施入。               (*)
723 国営となった藤原氏の氏寺興福寺に施薬院、悲田院を建てる。(*)
725 宇佐神宮一之御殿(アマテル)を造営
728 「金光明経」を諸国に配布。                 (*)
730 施薬院・悲田院を皇后宮職に置く。           (*)
730 興福寺に五重塔を建てる                 (*)
731 皇后宮(旧不比等邸)の隅に角寺(海竜王寺)を建立。(*)
733 興福寺維摩会復興。                    (*)
733 宇佐神宮二之御殿(瀬織津姫)を造営
734 法隆寺に施入。                       (*)
734 興福寺の東金堂に対面する西金堂を造営(母・三千代の弔い)(*)
735 阿倍内親王、法華経購読。                (*)
736 法華経講読の法会。法隆寺に施入。          (*)
736 玄昉が持ち帰った五千余巻の経論の書写始まる(~749) (*)
737 藤原四兄弟死去。法隆寺に経函(経箱)四合を奉納 (*)
738 藤原房前一周忌に法隆寺に施入            (*)
739 法隆寺の東院を造営(聖徳太子一族の斑鳩宮跡)  (*)
740 「一切経」の書写供養を発願「五月一日経」。     (*)
740 国ごとに法華経十部を写して七重塔を建てさせる  (*)
741 国分寺建立の詔                      (*)
741 藤原不比等の封戸三千戸を国分寺に施入      (*)
743 大仏造立の詔                       (*)
743 「一切経」の書写供養を発願               (*)
752 大仏開眼供養。                       (*)
752 東大寺二月堂で修二会(しゅにえ)(お水取り)開始  (*)




●聖徳太子の遺志を継ぐ聖武と光明--------------------------------

年表で(*)がついているもの―実は、2人が聖徳太子の関連で行動しているものに(*)を付けたんですが、なんとほぼすべて!
いや驚きました。この二人は、生涯にわたって聖徳太子のために働いているかのようです。ちょっと見てみましょう。


施薬院、悲田院は、聖徳太子が四天王寺に置いた「四箇院」(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)の真似でしょう。そのうち、施薬院、悲田院を国営とし(723)、さらに皇后宮職直轄とした(730)わけですから、時代を経るに従って本腰が入っていることがわかります。

728年に聖武天皇が諸国に配布した「金光明経」は、そもそも聖徳太子が広めたもの。金光明経の思想に基づいて建てられたのが四天王寺(金光明四天王大護国寺)です。

730年に光明皇后が興福寺に五重塔を建てています。五重塔と言えば法隆寺。また、釈迦を祀る墓でもあります。それを藤原一族の菩提寺に建てたということは、藤原一族も聖徳太子が広めようとした仏教を大事にしているという意志を示すためだったのか。

734年に、母・橘三千代の弔いのために造営した興福寺の西金堂の仏像群は、聖武が広めようとした「金光明最勝王経」に説く釈迦浄土を表したものです。(金光明最勝王経は金光明経と同じ)

聖武は741年の「国分寺建立の詔」によって、全国に「金光明四天王護国之寺」を建てようとしました。聖徳太子の教えを全国に広めようとしたわけです。その国分寺に光明皇后は不比等の封戸三千戸を寄進までしています。

その総本山が、東大寺であり大仏殿ですから、国分寺建立と大仏造立は一体ですね。

733年に興福寺で維摩会を復興していますが、「維摩経」「法華経」「勝鬘経」も聖徳太子が日本に広めたものです。その維摩経を復興するほか、法華経を国分尼寺(法華滅罪之寺)を通じて全国に広めようとしましたね。

施薬院、悲田院、金光明経、維摩経、法華経・・・聖武と光明は、聖徳太子がやりたかったことを、代わりに二人で全力で行っているようです。




十一面観音はアマテルと瀬織津姫の合体もしくは瀬織津姫-------------

731年に建立された海龍王寺は、玄昉から教えを請うために宮廷寺院として建てられたもの。玄昉は暴風雨の中で海龍王経を一心に唱えて種子島に漂着し、九死に一生を得ます。この秘仏は十一面観音の王子です。観音なのに王子・・・何を表しているのでしょうか。

752年から東大寺二月堂で始まる「お水取り」は罪を懺悔する行事。その二月堂の本尊も十一面観音です。

十一面観音の別名は大光普照(だいこうふしょう)観音。つまりは太陽神。
十一面観音の三昧耶形(さんまやぎょう/仏を表す象徴物)は水瓶。つまりは水神。

太陽神であり水神。(仏なので性別なし)
もうおわかりですね。アマテルと瀬織津姫の合体したものが十一面観音です。

また、十一面観音菩薩の脇侍には、不動明王がついていることが多いそうです。不動明王は大日如来の裏の顔。つまり、怒った太陽神が不動明王ですから、この場合は十一面観音が瀬織津姫で、不動明王がアマテルでしょう。

滝の前に不動明王→これは、滝そのものが瀬織津姫で、不動明王がアマテルでしょう。

先の記事で見ましたように、聖武は藤原神道に対抗するために、物部神道の神、アマテル&瀬織津姫を復活させました↓
725 宇佐神宮一之御殿(アマテル)を造営
733 宇佐神宮二之御殿(瀬織津姫)を造営

さらに、聖武はアマテルを大日如来(大仏)に習合させました。
そして、「金光明四天王護国之寺」の教えがアマテル、「法華滅罪之寺」の教えが瀬織津姫―として、全国に普及させることで藤原神道システムの崩壊を狙いました。

つまり、藤原一族がアマテラスを用意するために葬った「天照(アマテル)+瀬織津姫」を、聖徳太子の教えに則り、「国分寺+国分尼寺」&「金光明経+法華経」の形で日本全国に再復活させようとしたのです。すごいねー、聖武。


この聖武の思想は光明も共有していたことでしょう。
アマテルと瀬織津姫―火と水で火水(かみ)。それが、
不動明王と十一面観音。あるいは
不動明王と滝。
または、十一面観音一体で火水(かみ)。

光明もまた、自分の一族がやってきたことへの懺悔を込めて、「お水取り」を始めたのかもしれません。


木造十一面観音立像(法華寺)
【木造十一面観音立像 法華寺(平安時代、国宝)】





さぁ、これで上記年表は(*)で埋まりましたね。
聖武天皇は、生涯をかけて聖徳太子の教えを広めようとし、それは藤原一族との闘いでもあり、そして闘い抜いたということです。

国を私物化しようとする藤原一族への怒り。
それは、自分の人生を私物化されたことへの怒りもあったでしょう。

では、聖武とともに行動した光明皇后はどうだったのでしょうか。




<続く>








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