古代日本の転換点14-「光明」という通称に込められた安宿媛の悲願
2016/09/15(Thu) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】
前記事で、聖武と光明が聖徳太子の意志を継ぐかのように行動していたことがわかりました。
聖武天皇が、「天照(アマテル)+瀬織津姫」を、聖徳太子の教えを利用して「国分寺+国分尼寺」&「金光明経+法華経」の形で日本全国に再復活させようとしたことはわかりましたが、加えて興味深いのは、光明皇后が20年にわたって法隆寺に喜捨し続けていることです。
これは、縄文の神の「復活」や、聖徳太子の教えを「広める」という以外の意味が込められているように思います。それはなんでしょうか。
そこに入る前に、なぜこれほどまでに聖徳太子に帰依しようとしたのかその心理を見てみましょう。
●安宿媛の「不安」と「宿命」----------------------------------
安宿媛(あすかべひめ)の視点からその時代を見て見ましょう。
母(三千代)はわが子(諸兄)が赤ちゃんの時に引き離され、
代わりに母が育てた文武は自分が6歳の時に崩御します(707)。
姉の宮子も、わが子(聖武)が生まれてすぐに引き離され、
病という理由で幽閉されることになります。
しかも、自分が15歳の時(716)に聖武と結婚させられますが、その子は自分と同い年ながら姉・宮子の子であり、父・不比等の孫というおぞましい関係。
父親の立場で考えてもみてください。
娘の新郎が自分の孫!させる側も、相当におぞましい。だから、そのおぞましさをものともしない目的と執念が必要だとわかります。不比等は宿願のために自分を捨ててるな、と感じました。
母は実子と引き離された挙げ句、育てた子を殺され、姉も実子と引き離された挙げ句幽閉され、その引き離された姉の子と自分が結婚させられる・・・この豪腕な父には逆らえないと安宿媛は思ったことでしょう。
母も姉も自分も「道具」であり、自分の周りの全ての関係が不自然で人工的(作為的)で、強引にねじ曲げられた環境でした。
10才の時に都が遷り、旧システムを崩壊させるため神社の改変がなされ、11才と19才の時には、偽りの書が正史であり国書とされました。“虚”で構成された「虚構空間」が作られていったわけです。
旧都に置き去りにされた物部氏、造都のために費やされた膨大な労力、そして旧勢力の力をそぐための遠征で旧豪族(大伴・佐伯・巨勢など)と隼人・蝦夷双方に流された無駄な血。さらに、自分を皇后にする事と引き替えに贖われた長屋王一族の夥しい血(729)・・・。
膨大なる運命がねじ曲げられ、力が浪費され、血が流された―その目的は、ひとえに自分を皇后にすることだけにあり、兄たちも含め一族郎党がそれに向かって邁進している。
母や姉に降りかかっている不幸も、自分のおぞましさも、周囲に巻き起こっている血なまぐさい事件も、そのすべては自分を皇后にするために起こっている・・・。
自分は完全に道具であり、自分という個性は存在しないかのように無視されているという強烈な「存在不安」。
一方で、自分のためにこれだけの命が、人生が犠牲になっているからこその、民間初の皇后を目指さなければならないという逃げようがない「宿命」。
人は、「不安」から逃げるために「役割(脚本)」にしがみつき、その上を突っ走って生きていますが、安宿媛も皇后という「役割(宿命)」にしがみつかざるを得なかったのだろうなぁと思います。
●安宿媛が「光明」を名乗った理由--------------------------------
血で汚れた自分の宿命を安宿媛は恨んだことでしょう。
けれど、救いがありました。それが仏教でした。
聖徳太子が広めようとした「金光明最勝王経」の中に次のような話があります。
釈迦が過去世で福宝光明と呼ばれる女性だった時、善行を積んだ福宝光明は「汝は生まれ変わりを重ねた後、はるかな未来において悟りを開いて仏となるであろう」と予言を受けた話です。
【光明皇后の「光明」の典拠】
つまり、善行を積んだ女性が生まれ変わって釈迦になったということですね。現世で救われない血(宿命)を持つ安宿媛は、この話に自分の来世を託したのかもしれません。そして、自らを救うべく、善行を積む決意をしたのではないでしょうか。
「光明」という通称は、この話が書かれてある「金光明最勝王経」から取ったのでしょう。光明子の通称は、聖武が国分寺と国分尼寺=「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」を建てることを決意する740年頃から自称して使われているようです。この時から、善行を積む決意があったのだと思います。
その善行の中に、施薬院・悲田院という慈善事業を行うこと、及び法華経を広めることがありました。なぜ法華経かというと、『仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世で菩薩になれる』という教えだからです。「金光明最勝王経」と同じですね。
そして、これを広めることが功徳となりますから、法華経を広める寺を全国に建立しようとしたのでしょう。その名も「法華滅罪之寺」という呼称に皇后の悲願が込められているように思います。
仏教に救いを求める光明と、仏教により藤原神道システムを崩そうとする聖武。ここに、聖武と光明の仏教帰依という手段は合致し、741年の「国分寺建立の詔」につながったのでしょう。
<続く>
【カスタマイZ 「一筋の光明」】
足元に広がる犠牲
たとえ未来が暗闇で 見えなくても切り拓け
正しき道があるのなら たとえ長く険しくとも
さぁいざ行かん
前記事で、聖武と光明が聖徳太子の意志を継ぐかのように行動していたことがわかりました。
聖武天皇が、「天照(アマテル)+瀬織津姫」を、聖徳太子の教えを利用して「国分寺+国分尼寺」&「金光明経+法華経」の形で日本全国に再復活させようとしたことはわかりましたが、加えて興味深いのは、光明皇后が20年にわたって法隆寺に喜捨し続けていることです。
これは、縄文の神の「復活」や、聖徳太子の教えを「広める」という以外の意味が込められているように思います。それはなんでしょうか。
そこに入る前に、なぜこれほどまでに聖徳太子に帰依しようとしたのかその心理を見てみましょう。
●安宿媛の「不安」と「宿命」----------------------------------
安宿媛(あすかべひめ)の視点からその時代を見て見ましょう。
母(三千代)はわが子(諸兄)が赤ちゃんの時に引き離され、
代わりに母が育てた文武は自分が6歳の時に崩御します(707)。
姉の宮子も、わが子(聖武)が生まれてすぐに引き離され、
病という理由で幽閉されることになります。
しかも、自分が15歳の時(716)に聖武と結婚させられますが、その子は自分と同い年ながら姉・宮子の子であり、父・不比等の孫というおぞましい関係。
父親の立場で考えてもみてください。
娘の新郎が自分の孫!させる側も、相当におぞましい。だから、そのおぞましさをものともしない目的と執念が必要だとわかります。不比等は宿願のために自分を捨ててるな、と感じました。
母は実子と引き離された挙げ句、育てた子を殺され、姉も実子と引き離された挙げ句幽閉され、その引き離された姉の子と自分が結婚させられる・・・この豪腕な父には逆らえないと安宿媛は思ったことでしょう。
母も姉も自分も「道具」であり、自分の周りの全ての関係が不自然で人工的(作為的)で、強引にねじ曲げられた環境でした。
10才の時に都が遷り、旧システムを崩壊させるため神社の改変がなされ、11才と19才の時には、偽りの書が正史であり国書とされました。“虚”で構成された「虚構空間」が作られていったわけです。
旧都に置き去りにされた物部氏、造都のために費やされた膨大な労力、そして旧勢力の力をそぐための遠征で旧豪族(大伴・佐伯・巨勢など)と隼人・蝦夷双方に流された無駄な血。さらに、自分を皇后にする事と引き替えに贖われた長屋王一族の夥しい血(729)・・・。
膨大なる運命がねじ曲げられ、力が浪費され、血が流された―その目的は、ひとえに自分を皇后にすることだけにあり、兄たちも含め一族郎党がそれに向かって邁進している。
母や姉に降りかかっている不幸も、自分のおぞましさも、周囲に巻き起こっている血なまぐさい事件も、そのすべては自分を皇后にするために起こっている・・・。
自分は完全に道具であり、自分という個性は存在しないかのように無視されているという強烈な「存在不安」。
一方で、自分のためにこれだけの命が、人生が犠牲になっているからこその、民間初の皇后を目指さなければならないという逃げようがない「宿命」。
人は、「不安」から逃げるために「役割(脚本)」にしがみつき、その上を突っ走って生きていますが、安宿媛も皇后という「役割(宿命)」にしがみつかざるを得なかったのだろうなぁと思います。
●安宿媛が「光明」を名乗った理由--------------------------------
血で汚れた自分の宿命を安宿媛は恨んだことでしょう。
けれど、救いがありました。それが仏教でした。
聖徳太子が広めようとした「金光明最勝王経」の中に次のような話があります。
釈迦が過去世で福宝光明と呼ばれる女性だった時、善行を積んだ福宝光明は「汝は生まれ変わりを重ねた後、はるかな未来において悟りを開いて仏となるであろう」と予言を受けた話です。
【光明皇后の「光明」の典拠】
つまり、善行を積んだ女性が生まれ変わって釈迦になったということですね。現世で救われない血(宿命)を持つ安宿媛は、この話に自分の来世を託したのかもしれません。そして、自らを救うべく、善行を積む決意をしたのではないでしょうか。
「光明」という通称は、この話が書かれてある「金光明最勝王経」から取ったのでしょう。光明子の通称は、聖武が国分寺と国分尼寺=「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」を建てることを決意する740年頃から自称して使われているようです。この時から、善行を積む決意があったのだと思います。
その善行の中に、施薬院・悲田院という慈善事業を行うこと、及び法華経を広めることがありました。なぜ法華経かというと、『仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世で菩薩になれる』という教えだからです。「金光明最勝王経」と同じですね。
そして、これを広めることが功徳となりますから、法華経を広める寺を全国に建立しようとしたのでしょう。その名も「法華滅罪之寺」という呼称に皇后の悲願が込められているように思います。
仏教に救いを求める光明と、仏教により藤原神道システムを崩そうとする聖武。ここに、聖武と光明の仏教帰依という手段は合致し、741年の「国分寺建立の詔」につながったのでしょう。
<続く>
【カスタマイZ 「一筋の光明」】
足元に広がる犠牲
たとえ未来が暗闇で 見えなくても切り拓け
正しき道があるのなら たとえ長く険しくとも
さぁいざ行かん