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古代日本の転換点17-道が分かれた聖武天皇と光明皇后

2016/09/20(Tue) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

光明皇后は、聖徳太子(蘇我入鹿)鎮魂のためと自分の宿命を乗り越えるべく、その教えを実践する道に邁進し善行を積みました。その人生第一幕は、法隆寺に夢殿を作り、そこに太子等身像を葬ることで幕を引きました(739)。

両親から愛を得られなかった子供は何かにすがりますが、安宿媛が代理父としてすがったのは藤原四兄弟の次兄、藤原房前でした。その 房前が見てくれていればこそ、「光明子」という別人になって頑張ることができたのでしょう。

別人になり続けるのは、できることではありません。房前がこの世から居なくなることは、安宿媛を現実の世につなぎ止めるよすががなくなったと言うこと―それこそが絶望=夢を持っても意味がなくなることでした。だから、房前の死とともに自分の夢も葬ったのでしょう。聖徳太子を2度殺すことによって―

ここから、安宿媛は一体どこに向かうのでしょうか?



分水嶺中の分水嶺―738年--------------------------------------

振り返ってみますと、727年に聖武と光明の間に基皇子誕生したときは、生後間もなく立太子するという“異例”のことが行われました。皇太子を産んだ母として安宿媛を立后するために、藤原一族がごり押ししたのでしょう。けれど基皇子は1歳になる前に亡くなります。

しかし、翌728年、今度は聖武と県犬養広刀自との間に安積親王が産まれます。こちらが立太子されることは藤原一族にとって不都合なので、立太子されませんでした。

その後、藤原一族は立后に反対する長屋王一族を滅ぼし、強引に安宿媛を立后させました。これで皇后は皇太子を産む必要はなくなったのです。あとは聖武天皇が亡くなれば、母系天皇として藤原一族から天皇を立てることができます。
(かなり強引ですが、不比等が天智天皇の子であれば天智系の復活ということになります)

ところが、安宿媛も藤原一族の単なる操り人形ではありません。自分の宿命を乗り越えるべく聖武天皇とともに聖徳太子(蘇我入鹿)の教えを広めるために動き出したのです。

しかし、737年、藤原四兄弟が死去し光明皇后は絶望します。
一方、母・橘三千代の子橘諸兄(光明の異母兄)は力を付け738年には右大臣となり、吉備真備・玄昉ら唐帰国組の優秀な援軍も揃いました。この時が藤原の野望を挫く分水嶺だったと思います。ここで、安積親王を皇太子にすれば藤原の力は大きくそがれることになったでしょう。

実際、740年には藤原広嗣(不比等の三男宇合の子)が反乱を起こしますが、大将軍大野東人が宇佐神宮に戦勝祈願して鎮圧。
741年には「国分寺建立の詔」を発して「東大寺仏教システム」で「藤原神道システム」を骨抜きにしていく宣言を行いました。

また、「藤原神道システム」のシンボルとしての都・平城京を捨て、「東大寺仏教システム」を展開するにふさわしい地(大仏建立の地)を探すべく、聖武は関東行幸に出かけています(広嗣の乱を恐れたためとWikiなどには書いてありますが、それが天武のルートを辿っているとなれば、旧勢力に呼びかけにいったのでしょう)。
このように、738年以降、脱藤原の社会システムを構築するために夫・聖武天皇は着々と動いていました。

けれど、この738年、
聖武が橘諸兄を脱藤原の布石として右大臣に置いた年、
光明は阿倍内親王を藤原復活の布石として立太子しました。

この意味は何でしょうか?




聖徳太子から大炊王に乗り換えた光明皇后-------------------------

思わぬ伏兵がいたのです。亡くなった藤原武智麻呂(長男)の子・藤原仲麻呂が、なんと天武天皇の孫・大炊王を私邸に囲っていたのです。

藤原を含む天智系一族が次々に葬ってきた天武系一族。その末裔を甥の仲麻呂が囲い、しかもなんと「朕が父」とまで慕われていたのです。それは、本来殺されるべき自分が、仲麻呂によって救われたという思いもあったからでしょう。

藤原四兄弟が死去して希望に向かって進む聖武の傍らで、
藤原四兄弟が死去して絶望の底にいた光明皇后。

その光明が仲麻呂の事実を知った時、大炊王が一筋の光明に見えたのではないでしょうか。そして、聖徳太子(蘇我入鹿)にすがることで乗り越えようとした自分の宿命を、今度は自分たちが滅ぼしてきた天武の孫そのものにすがることで乗り越えようとしたのではないでしょうか。

(このように、まるで帰依するかのごとく全身全霊を捧げるあり方は「存在不安」の強い方に見られます。その強い依存の対象がなくなるとすぐに次を探します)

乗り換えた証拠が、夢殿を作る前年の738年に阿倍内親王を女性皇太子として立太子したことです。しかも結婚を禁じて。

かつて、生まれたばかりの基皇子を立太子するという“異例”をおこなった上に、今度は安積親王(10歳)がいるにもかかわらず、女性を皇太子にしたのですから異例中の異例です。この異例づくしを見ますと、阿倍内親王は安積親王が成人するまでの中継ぎではなく、大炊王が成人するまでの中継ぎだったのだろうということがわかります。

738年、
聖武が橘諸兄を脱藤原の布石として右大臣に置いた年、
光明は阿倍内親王を藤原復活の布石として立太子しました。

その翌年(739)、来世で生まれ変わって菩薩になるという“夢”に終止符を打つかのごとく「夢殿」を建て、聖徳太子等身像の頭と心臓に杭を打ち込み、夢と太子にすがった自分に終止符を打ちました。

この時、「聖」は「鬼」に変わりました。




「難波の夢」を葬った光明皇后-------------------------------------------

元々役割(脚本)で生きてきた安宿媛。聖武という似たもの同士が出会って一時期は燃え上がりますが、あくまでも自分が救われるためにやっている慈善事業であり、心からのものではないため限界があります。夢潰えた後は、不安を見ずに生き続けるためには「役割(脚本)」に戻るしかないのです。

そして、そう決めたからには安積親王は邪魔者です。聖武の気力もそがなければなりません。そこで光明皇后は、藤原仲麻呂に命じて安積親王を毒殺させた(744)のではないでしょうか。

聖武が新京候補地を探したのは、大仏建立地探しだけではなく、安積親王を守るためもあったでしょう。歴代天皇は、自分を支える豪族の地に都を構えていますから。

けれど、安積親王が殺されてしまえば、新都を探す半分の理由が失われてしまいます。744年に聖武は、天武が「双京の都」とした地、難波京に遷都しますが、翌年平城京に戻っています。その責任をとらされたのか、玄昉は筑紫に左遷され、聖武は不予(鬱状態)となりました。

難波京は夢と消えました。
自分の夢を夢殿に葬った光明皇后は、
夫・聖武の夢を安積親王とともに葬ったのです。

その後、皇后は天皇を上回る権限を持つ紫微中台を設置し、その長官に仲麻呂を抜擢して仲麻呂独裁と粛正が始まることになります。






でも、まさか、あんないい人が・・・・と思う気持ちはよくわかります。
が、外では良妻賢母、むしろ理想の女性と見られつつ、家庭の中は地獄という例も多々あるのです。

存在不安から逃げ続けている人は、善し悪しやモラルの次元には居ません。あらゆることを利用してただ逃げ続ける―その布石を打ち続けること、それだけが人生なのです。

それに、光明皇后が聖徳太子から大炊王に乗り換えた証拠があります。
書家に有名な光明皇后の「楽毅論」の臨書(手本を見て書くこと)です。




<続く>






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