古代日本の転換点18-「楽毅論」~「光明」を捨て「藤三娘」に込めた決意
2016/09/21(Wed) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】
気持ち=自己存在の本体ですから、心で生きている人は自分の存在証明などいりません。けれど、気持ちを封じて役割(脚本)で生きている人は、自己存在が希薄ですから自分の存在価値を常に確認(証明)し続けなければ不安でなりません。
そのために「使命」を見つけ、それに邁進し、結果後世の人から「偉人」と見なされる人は多々あります。けれど、天変地異ほか何らかによってその道が閉ざされた時、本当はそのときこそ自分と向き合うチャンスなのですが、得てしてそれはなされず、次なる「使命」を探すことになります。
このような時、書に頼ることがあります(それが聖書であれ資本論であれ)。自分を不安から逃す都合のよい書を見出すと、今度はそれによって自分を正当化し、その正当性を示し続けるために硬直した姿勢で周囲をなぎ倒して生き続けることになります。
たとえば、「仮面の家」のりょう先生がそうでしたね。生き方モデルを本の中に見出したりょう先生は、文字によって自分を正当化し、それを貫くために子殺しまでしてしまったわけです。
【第4部-2、借りてきた「男性モデル」と「父親モデル」】
「金光明最勝王経」の中で出逢った福宝光明のエピソード。それにすがって善行を積む決意をし、聖徳太子(蘇我入鹿)の使命に生きた半生。けれど、その生き方モデルに終止符を打った時、光明皇后は新たな生き方モデルを探さなければなりませんでした。そこに出逢ったのが「楽毅論」でした。
●光明皇后が「楽毅論」に見出した救い-----------------------------
安積親王が毒殺された744年、光明皇后は王羲之の「楽毅論」を臨書しています。「楽毅論」とは、楽毅を評価した書。概要は次の通り。
紀元前3世紀、秦と並んで「帝」を名乗った強国・斉がありました。
その斉に滅ぼされかけた燕の昭王は、復讐に燃えて人材を集めており、そこに仕官したのが楽毅です。当時、傲慢となった斉に反発する他国に楽毅は働きかけて密かに連合し、韓・魏・趙・秦の五国連合軍を率いて斉軍を打ち破ります(済西の戦)。
その後、楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を閉ざされるほど。そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位しましたが、恵王は楽毅をよく思っておらず、楽毅を解任。楽毅は、趙へ亡命した。楽毅は「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」を送り、恵王と和解。彼は燕と趙両国を行き来し、趙の地で死にました。
光明皇后は、どういう思いでこの書を写したのでしょうか。
昭王は天智。
楽毅は藤原鎌足。
“傲慢となった斉”を蘇我氏と見なしてみましょう。
すると、前半は天智&鎌足軍が蘇我氏を滅ぼしたという藤原一族を正当化する物語になります。その後、長屋王一族など夥しい血を流してきたことも、正当化されるのです。
さて、後半を見るに当たって知っておくべきことは、光明の甥の仲麻呂が天武の孫・大炊王を囲っており、大炊王は仲麻呂のことを「朕が父」とまで言って信頼していたことです。
この事実の上に物語に戻りますと、昭王の後を継いだ恵王は天武と見なされ、天武に藤原氏が嫌われた―その通りです。けれど、天武の孫が不比等の孫を「朕が父」と言っている―つまり、「和解」したわけですね。
つまり、「楽毅論」にいう「恵王と楽毅の和解」というのは天武と藤原一族との和解ということになります。
う~ん、すごいですね。
光明皇后は、また凄いものに辿り着いたものです。
聖徳太子(蘇我入鹿)は2度殺されました。
1度目は、天智天皇と藤原鎌足によって。
2度目は、光明皇后によって。
けれど「楽毅論」によって、自分及び我が祖、天智と藤原鎌足がやったこと(蘇我入鹿の暗殺)を正当化できる上に、藤原一族が滅ぼしてきた天武の末裔と和解できるのです。
光明皇后が聖徳太子(蘇我入鹿)から大炊王に乗り換えた理由は、まさにここにありました。もう太子の祟りを恐れることはありません。自分は正しいことをしている―光明にとって、これ以上の救いの書はなかったでしょう。だから、「楽毅論」にのめり込み、それを全て書写したのでしょう。
●「楽毅論」の臨書に見える光明の決意------------------------------
書は体を表すといいますが、Wikiには次のようにあります。
「筆力は雄健であるが、文字構成の軽視が目立つ。紙には縦線があるので気をつければ文字列を整えるのは容易なはずだが、表題の「楽毅論」からいきなり右にずれ、その後も真っ直ぐ書くのを二の次とし、行間も不揃いである。文字の間隔や大きさも不均一で、行末で文字が小さく扁平になってしまう誤りを何度も繰り返す。文字単体を見ても、毛筆の状態が良くなかったのか、筆先が2つに割れたりかすれている箇所がしばしば見られ、均衡を欠いた結字も散見する。
しかし、流した文字が一切なく、日本の書道史上殆ど類例のない強く深い起筆、強い送筆、そして強く深い終筆のもつ表現力が、構成の杜撰さを覆い隠し、光明皇后の強い決意と決断を感じさせる魅力的な作品に仕上がっている。」
【光明皇后―楽毅論】
右にずれるということは、その行を建物とみると左に傾くということ。
人でいえば右肩上がり=左脳優位。
また、『行末で文字が小さく扁平』というのも、頭でっかち尻すぼまり。
これはいずれも、IPが強い人に見られることがあります(いろんなパターンがあって一概に言えませんが)。
光明皇后は、揺れる心を上から押さえつけるかのように、
繰り返し繰り返し行を重ねて自分を説得し、
覚悟を決めていくかのように、
「楽毅論」を自分にしみこませていったのでしょう。
『紙が突き破れてしまうのではないかと言うくらいの運筆上の激しい気迫が感じ取れます』
『あらゆる画の、そのどの部分を切り取っても、そこから血が噴出すような強さが感じられます』
【「光明皇后 楽毅論」の用筆法】
光明皇后のなりふり構わぬ気迫が伝わってきます。
ICを閉ざし、髪振り乱した鬼が書に向かっているようです。
聖徳太子(蘇我入鹿)の亡霊にとどめを刺し、
安積親王を毒殺し、
娘・阿倍内親王を大炊王のための道具に使い、
夫・聖武の遷都の計画をつぶしました。
贖罪の道を歩むことをやめた光明皇后は反転して、
藤原一族の願望成就のために邁進する決意をしました。
内なる不安と向き合えない人は、結局脚本に戻らざるを得ません。
ギクシャクとする文字の部分にインナーチャイルドの抵抗が見えるようにも思います。それを押さえつけて書き上げたのでしょう。
書くということは自分に対する宣言、約束でもあります。
新たな脚本を作り上げるための自己洗脳の書―それが「楽毅論」でした。
●「光明」を捨て、「藤三娘」に込めた意味-----------------------
そして、この「楽毅論」の最後の署名は、光明子ではなく、「藤三娘」(とうさんじょう:藤原不比等の三女という意味)です。

【光明皇后「楽毅論」署名―「藤三娘」】
『善行を積んだ福宝光明』の真似をするのはやめたんですね。
そして、自分は「藤原不比等の三女」であると、堂々と名乗りました。
「楽毅論」によって、血塗られた歴史を正当化できたからです。
天智以来、藤原一族のやってきたことをすべて正当化できました。
そして、現在自分がやっていることさえも―。
光明皇后の自筆の書に「積善藤家」(せきぜんのとうけ:善行を積んできた藤原家)というのがあるそうです。
これは、天智が鎌足に「積善余慶」(せきぜんのよけい:善行のおかげの幸福)として報償しようとした際、鎌足がそれを辞したという伝説があり、それを元に、「藤原家は謙虚で(天智のために)善行を積む一族」ということを示すために書かれたようです。自己洗脳のための座右の銘となったでしょう。
「名は体を表す」と言いますが、「藤三娘」と署名した時から、安宿媛の人生は第二幕に入りました。
と言っても心で生きる人生ではなく、相変わらずの脚本人生劇場の舞台です。だから相変わらず仮面を付けています。ただ、その仮面が小面(福宝光明)から般若に変わりました。
生きる方向が変わるわけですから、当然パートナーも変わります。
不安から逃げ続けるのは一人ではできませんから。
聖武に変わって新たに選んだパートナーは藤原仲麻呂(と大炊王)。
そして、この仲麻呂にかつてない最高権力を与えて娘(孝謙天皇)を押さえつけ、仲麻呂は天武系勢力を大虐殺していくことになります。
【吉岡亜衣加 「白き誓い」】
あなたの志こそが
私の往く道… そう決めた
気持ち=自己存在の本体ですから、心で生きている人は自分の存在証明などいりません。けれど、気持ちを封じて役割(脚本)で生きている人は、自己存在が希薄ですから自分の存在価値を常に確認(証明)し続けなければ不安でなりません。
そのために「使命」を見つけ、それに邁進し、結果後世の人から「偉人」と見なされる人は多々あります。けれど、天変地異ほか何らかによってその道が閉ざされた時、本当はそのときこそ自分と向き合うチャンスなのですが、得てしてそれはなされず、次なる「使命」を探すことになります。
このような時、書に頼ることがあります(それが聖書であれ資本論であれ)。自分を不安から逃す都合のよい書を見出すと、今度はそれによって自分を正当化し、その正当性を示し続けるために硬直した姿勢で周囲をなぎ倒して生き続けることになります。
たとえば、「仮面の家」のりょう先生がそうでしたね。生き方モデルを本の中に見出したりょう先生は、文字によって自分を正当化し、それを貫くために子殺しまでしてしまったわけです。
【第4部-2、借りてきた「男性モデル」と「父親モデル」】
「金光明最勝王経」の中で出逢った福宝光明のエピソード。それにすがって善行を積む決意をし、聖徳太子(蘇我入鹿)の使命に生きた半生。けれど、その生き方モデルに終止符を打った時、光明皇后は新たな生き方モデルを探さなければなりませんでした。そこに出逢ったのが「楽毅論」でした。
●光明皇后が「楽毅論」に見出した救い-----------------------------
安積親王が毒殺された744年、光明皇后は王羲之の「楽毅論」を臨書しています。「楽毅論」とは、楽毅を評価した書。概要は次の通り。
紀元前3世紀、秦と並んで「帝」を名乗った強国・斉がありました。
その斉に滅ぼされかけた燕の昭王は、復讐に燃えて人材を集めており、そこに仕官したのが楽毅です。当時、傲慢となった斉に反発する他国に楽毅は働きかけて密かに連合し、韓・魏・趙・秦の五国連合軍を率いて斉軍を打ち破ります(済西の戦)。
その後、楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を閉ざされるほど。そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位しましたが、恵王は楽毅をよく思っておらず、楽毅を解任。楽毅は、趙へ亡命した。楽毅は「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」を送り、恵王と和解。彼は燕と趙両国を行き来し、趙の地で死にました。
光明皇后は、どういう思いでこの書を写したのでしょうか。
昭王は天智。
楽毅は藤原鎌足。
“傲慢となった斉”を蘇我氏と見なしてみましょう。
すると、前半は天智&鎌足軍が蘇我氏を滅ぼしたという藤原一族を正当化する物語になります。その後、長屋王一族など夥しい血を流してきたことも、正当化されるのです。
さて、後半を見るに当たって知っておくべきことは、光明の甥の仲麻呂が天武の孫・大炊王を囲っており、大炊王は仲麻呂のことを「朕が父」とまで言って信頼していたことです。
この事実の上に物語に戻りますと、昭王の後を継いだ恵王は天武と見なされ、天武に藤原氏が嫌われた―その通りです。けれど、天武の孫が不比等の孫を「朕が父」と言っている―つまり、「和解」したわけですね。
つまり、「楽毅論」にいう「恵王と楽毅の和解」というのは天武と藤原一族との和解ということになります。
う~ん、すごいですね。
光明皇后は、また凄いものに辿り着いたものです。
聖徳太子(蘇我入鹿)は2度殺されました。
1度目は、天智天皇と藤原鎌足によって。
2度目は、光明皇后によって。
けれど「楽毅論」によって、自分及び我が祖、天智と藤原鎌足がやったこと(蘇我入鹿の暗殺)を正当化できる上に、藤原一族が滅ぼしてきた天武の末裔と和解できるのです。
光明皇后が聖徳太子(蘇我入鹿)から大炊王に乗り換えた理由は、まさにここにありました。もう太子の祟りを恐れることはありません。自分は正しいことをしている―光明にとって、これ以上の救いの書はなかったでしょう。だから、「楽毅論」にのめり込み、それを全て書写したのでしょう。
●「楽毅論」の臨書に見える光明の決意------------------------------
書は体を表すといいますが、Wikiには次のようにあります。
「筆力は雄健であるが、文字構成の軽視が目立つ。紙には縦線があるので気をつければ文字列を整えるのは容易なはずだが、表題の「楽毅論」からいきなり右にずれ、その後も真っ直ぐ書くのを二の次とし、行間も不揃いである。文字の間隔や大きさも不均一で、行末で文字が小さく扁平になってしまう誤りを何度も繰り返す。文字単体を見ても、毛筆の状態が良くなかったのか、筆先が2つに割れたりかすれている箇所がしばしば見られ、均衡を欠いた結字も散見する。
しかし、流した文字が一切なく、日本の書道史上殆ど類例のない強く深い起筆、強い送筆、そして強く深い終筆のもつ表現力が、構成の杜撰さを覆い隠し、光明皇后の強い決意と決断を感じさせる魅力的な作品に仕上がっている。」
【光明皇后―楽毅論】
右にずれるということは、その行を建物とみると左に傾くということ。
人でいえば右肩上がり=左脳優位。
また、『行末で文字が小さく扁平』というのも、頭でっかち尻すぼまり。
これはいずれも、IPが強い人に見られることがあります(いろんなパターンがあって一概に言えませんが)。
光明皇后は、揺れる心を上から押さえつけるかのように、
繰り返し繰り返し行を重ねて自分を説得し、
覚悟を決めていくかのように、
「楽毅論」を自分にしみこませていったのでしょう。
『紙が突き破れてしまうのではないかと言うくらいの運筆上の激しい気迫が感じ取れます』
『あらゆる画の、そのどの部分を切り取っても、そこから血が噴出すような強さが感じられます』
【「光明皇后 楽毅論」の用筆法】
光明皇后のなりふり構わぬ気迫が伝わってきます。
ICを閉ざし、髪振り乱した鬼が書に向かっているようです。
聖徳太子(蘇我入鹿)の亡霊にとどめを刺し、
安積親王を毒殺し、
娘・阿倍内親王を大炊王のための道具に使い、
夫・聖武の遷都の計画をつぶしました。
贖罪の道を歩むことをやめた光明皇后は反転して、
藤原一族の願望成就のために邁進する決意をしました。
内なる不安と向き合えない人は、結局脚本に戻らざるを得ません。
ギクシャクとする文字の部分にインナーチャイルドの抵抗が見えるようにも思います。それを押さえつけて書き上げたのでしょう。
書くということは自分に対する宣言、約束でもあります。
新たな脚本を作り上げるための自己洗脳の書―それが「楽毅論」でした。
●「光明」を捨て、「藤三娘」に込めた意味-----------------------
そして、この「楽毅論」の最後の署名は、光明子ではなく、「藤三娘」(とうさんじょう:藤原不比等の三女という意味)です。

【光明皇后「楽毅論」署名―「藤三娘」】
『善行を積んだ福宝光明』の真似をするのはやめたんですね。
そして、自分は「藤原不比等の三女」であると、堂々と名乗りました。
「楽毅論」によって、血塗られた歴史を正当化できたからです。
天智以来、藤原一族のやってきたことをすべて正当化できました。
そして、現在自分がやっていることさえも―。
光明皇后の自筆の書に「積善藤家」(せきぜんのとうけ:善行を積んできた藤原家)というのがあるそうです。
これは、天智が鎌足に「積善余慶」(せきぜんのよけい:善行のおかげの幸福)として報償しようとした際、鎌足がそれを辞したという伝説があり、それを元に、「藤原家は謙虚で(天智のために)善行を積む一族」ということを示すために書かれたようです。自己洗脳のための座右の銘となったでしょう。
「名は体を表す」と言いますが、「藤三娘」と署名した時から、安宿媛の人生は第二幕に入りました。
と言っても心で生きる人生ではなく、相変わらずの脚本人生劇場の舞台です。だから相変わらず仮面を付けています。ただ、その仮面が小面(福宝光明)から般若に変わりました。
生きる方向が変わるわけですから、当然パートナーも変わります。
不安から逃げ続けるのは一人ではできませんから。
聖武に変わって新たに選んだパートナーは藤原仲麻呂(と大炊王)。
そして、この仲麻呂にかつてない最高権力を与えて娘(孝謙天皇)を押さえつけ、仲麻呂は天武系勢力を大虐殺していくことになります。
【吉岡亜衣加 「白き誓い」】
あなたの志こそが
私の往く道… そう決めた