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【平安京の結界】6.大将軍神社の謎―1)肝心要(扇の要)の藤森神社

2016/10/10(Mon) Category : 神社・寺・城・歴史
【平安京の結界】

桓武天皇は、鬼門(東北)と早良親王の祟り(南)の両方を結界線で押さえました。しかし、それでも足りないとばかりに大将軍神社を建立します。
大将軍とは陰陽道における八将神の一柱で、軍事を司る金星の星神で魔王天王とも呼ばれます。後世にスサノオと習合しましたが、桓武天皇は陰陽道も用いて都を守ろうとしたわけです。

大将軍神社は次の所に立てられました。

平安京 大将軍神社結界
【平安京 大将軍神社結界】

・西賀茂大将軍神社 (磐長姫)<一番北>
・今宮神社の疫社  (素盞嗚)
・大将軍八神社   (素盞鳴+五男三女)

・岡崎神社     (速素盞鳴尊)東天王、狛兎(うさぎ神社)
・東三条大将軍神社 (素戔嗚)(鵺の森)
・藤森神社の大将軍社(磐長姫)<一番南>菖蒲の節句発祥の神社




「対長岡京結界」の第4結界線--------------------------------------

図を見ますと、次のように対になっていることがわかります。
・西賀茂大将軍神社―岡崎神社
・今宮神社―東三条大将軍神社
・大将軍八神社―藤森神社

最初の2対は、対鬼門結界とわかりますね。
では、最後の1対は何のためのラインなのでしょうか。

これは、朱雀大路を上っていくとわかります。
前記事で、対長岡京の結界線を見ましたが、3つありましたね。
その3つを突破されたら、大内裏(平安宮)に入ってしまうわけです。

そこで、大内裏に入る直前に最後の結界線を持ってきたわけです。
朱雀門直前の最終防衛ラインですね。この結界線は、「対裏鬼門結界」と「対長岡京結界」の2つを兼ねていると言えるでしょう。

(詳しくは別項で。この項の主目的は藤森神社です)




「神泉苑―朱雀院ライン」の意味すること-------------------------

さて不思議なのは、神泉苑と朱雀院の位置。
大将軍八神社―藤森神社ラインを道路とみると、神泉苑と朱雀院が「仁王門」であるかのように立っていますね。つまり、「神泉苑―朱雀院ライン」も結界線となっているわけです。

結果、「藤森神社―大将軍八神社ライン」と「神泉苑―朱雀院ライン」の2つで、朱雀門は完全に封印されるわけですが、一体何から守っているのでしょう。

そう思って、藤森神社の縁起を見てみましたら、早良親王は800年に京都市東山区本町十六丁目に祀られたとありました。図の臨済宗大本山東福寺の卍マークの辺りですね(南東角)。

なるほど、南北に走る「藤森神社―下賀茂神社ライン」は、何よりも早良親王防御ラインだったのかもしれません。

すると次のようになります。
「藤森神社―大将軍八神社ライン」=南から来る早良御霊防衛最終ライン。
「神泉苑―朱雀院ライン」=祀られた所から来る早良御霊防衛最終ライン。


時代が下がって応仁の乱(1467~1477)以降は、早良親王も藤森神社に祀られています。けれど、仮に藤森神社から早良親王の御霊が大内裏に向かうとしても、やはり「神泉苑―朱雀院ライン」に阻まれるわけですね。




藤森神社が“そこ”にある理由----------------------------------

そこで、藤森神社が守っている方位を調べてみました。

平安京-藤森神社結界
【平安京 藤森神社結界】

1.東    藤森神社―賀茂御祖神社
2.東北東 藤森神社―賀茂別雷神社
3.西南西 藤森神社―大将軍八神社
4.南西   藤森神社―松尾大社
5.南    藤森神社―金蔵寺

すごいよね~。

1は、対東
2は、対鬼門
3は、対早良御霊最終防衛ライン
4は、対裏鬼門
5は、対長岡京
と考えてよいでしょう。

藤森神社がここに設置された理由は、第一に下賀茂神社を真南に下るラインと大将軍八神社との交点なのだと思います。「内裏の守護」ですね。

次に松尾大社との交点―「都の守護」ですね。ただ、内裏の守護が優先順位の第一なので、都の南西の隅は結界外となったわけです。

そして、本当は金蔵寺の真東にしたかったのでしょうが、上記理由で少し南に下がったのでしょう。


このように、桓武天皇は、都の守護と内裏の守護の2つを考えていることがわかります。





<続く>








【藤森神社 節分祭 追儺式 2015年】


【藤森神社 駈馬神事 2015年】




【神泉苑】


【神泉苑祭 静御前の舞】





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