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古代日本の転換点20-桓武天皇と最澄

2016/09/24(Sat) Category : 神社・寺・城・歴史
【古代日本の転換点】

仏教を排除しては民衆を味方に付けることが出来ないことを悟った桓武は、藤原神道に加えて仏教の側面でも手を打つ必要性に迫られました。けれど東大寺仏教は、「1-遣唐使秘話~阿倍仲麻呂、吉備真備、鑑真」で見たように、唐から失明してまで命がけでやってきた鑑真が開いた由緒正しき仏教(755~)。その東大寺を超えなければなりません。

加えて、怨霊を鎮める法力のあるものでなくてはなりません。新都・平安京は、その新しい仏教で固めなければなりません。ここでいよいよ最澄が登場するわけですが、そこに至るまでの最澄の足取りを簡単に見ておきましょう。(空海の活躍は桓武の後です)


最澄の出自------------------------------------------------

先祖は、3世紀に渡来した後漢の孝献帝の末裔、登万貴王一族。
琵琶湖畔の下坂本辺りに三つの「津」(船着場:今津、戸津、志津)があり、総称して三津浜と呼びますが、その三津浜一帯の首長となったので「三津首」(みつのおびと)という姓になりました。

それから約350年後の766年、三津首百枝(みつのおびとももえ)と藤原藤子(ふじわらのとうし)の間に生まれたのが広野(ひろの)でした。

藤原藤子は中務少輔藤原鷲取朝臣(ふじわらのわしとりあそん)の娘と明確にされているのですが、なぜかwikiの藤原鷲取の項に藤原藤子の名がありません。なぜ隠されているのでしょうか。桓武天皇と最澄の間につながりがあったことがばれると何か不都合なことがあるのでしょうか。


光明皇后が慕った藤原房前(不比等の次男)の五男・藤原魚名と、藤原宇合(不比等の三男)の娘がいとこ同士で結婚します。そこに生まれたのが藤原鷲取。
一方、藤原宇合の次男・藤原良継の娘に藤原人数がおり、藤原鷲取と藤原人数が結婚しました。

ややこしいですが、藤原鷲取から見ると、父方の祖父と母方の祖父は兄弟。その上、母方の祖父も妻の祖父も宇合という異常なことになります。
宇合から見ますと、自分の息子と娘の子(孫)同士を結婚させたわけです。その藤原宇合の孫同士である鷲取と人数の間に生まれたのが、その名も藤原藤子でした(血が濃すぎますね~)。

その藤原藤子の子・最澄は、藤原一族の血をバリバリに引いているわけです。

また、鷲取のもう一人の娘・小屎は、なんと桓武天皇の夫人となっていますから、最澄にとってはおばさんが天皇夫人だったわけです。つまり、最澄は超超エリートの家系に生まれたわけです。




法華一乗への傾倒----------------------

広野は12歳で近江国分寺に入り、14歳で試験に合格して最澄と名乗ります。19歳で官僧(公務員)となり、東大寺で具足戒を受けて比丘僧となります。その後近江国分寺は焼失したため、比叡山に仏堂を建立し修行に入ります。

エリートコースを歩み、仏堂を建てる―これも、財力とバックアップがないとできないことでしょう。31歳の時、バックアップ者の一人である和気氏(百済系の帰化人)が最澄を内供奉十禅師に補任させます。

翌年、最澄は南都七大寺((南都とは奈良の平城京のこと))の大徳10人を比叡山に招いて学び、特に鑑真が招来した天台大師の『三大部』に触れ、法華一乗の教えに傾倒していきます(招くわけですからね~、それだけのバックアップがなければできないでしょう)。

さて、法華一乗とは、悟りを開くのに声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)の三乗を実践する必要はなく、法華経のみでよいとする考え(法華経という「乗り物1つでよい」ということから「一乗」→さらにそれが「南無妙法蓮華経」を唱えれば誰もが極楽往生できると流布されていきます)。

誰もが仏になれることを実践したい最澄にとって最高の教えであり、最澄は自らの宗派を「天台法華宗」と名乗ったくらいでした。最澄は奇しくも、聖徳太子及び聖武天皇の意志を継いだと言えます。




最澄をバックアップした叔父・桓武----------------------

804年(38歳)、最澄は1年間の還学生(げんがくしょう)として第16次遣唐使船の第2船に乗りました。還学生とは、通訳も従える国策エリートで、帰国すれば国に重用されることが決まっています。

第1船には20年間の留学生(るがくしょう)として空海が乗っていました。こちらは後は野となれ山となれの扱いです。
いずれにせよ、成功率50%!なので命をかけるのは同じ。実際、この時第3&4船は難破しています。

天台宗を修め密教を学んだ最澄は、805年に帰国すると桓武天皇の要請で高雄山神護寺にて日本最初の公式な灌頂(密教儀式)を行いました。
そして、806年に天台宗を開宗したその年、桓武天皇は崩御されました。


この流れを見ますと、甥の最澄が優秀なことは小屎夫人を通じて桓武天応の耳に届いていたことでしょう。新たな仏教を導入したい桓武天皇は、その任を最澄にさせるべく全面的にバックアップしたようにも思えます。

たとえば、近江国分寺がタイミングよく焼失していますが、歴史上の焼失事例を眺めていますと、意図的なものが多いんだろうなぁ、と漠然とわかってきます。桓武にとって聖武が残した国分寺は目の上のたんこぶ。まして、最澄が国分寺に向かうことは避けたかったでしょうから、建物そのものをなくすことはしたかもしれません。

ところで、疑問が出てきますね。
桓武は脱聖武、脱聖徳太子=脱法華経です。
にもかかわらず、なぜ法華経に傾倒してしまった最澄のバックアップを桓武は続けたのでしょうか?




最澄の理想を利用した桓武天皇-------------------------------------

最澄は12歳(788年)で近江国分寺に入っていますから、聖武が大仏を完成させ、755年に鑑真が東大寺大仏殿で日本初の登壇授戒をしてから30年以上たっており、その伝統は受け継がれてきました。

当時はこれによって自称坊主の跋扈を防ぐことができましたが、出家者となるためには守らなければならない250もの行動規範(具足戒)を身につける必要があり、そのことが、「すべての人が仏に成れる」という理想を持つ若き最澄の意に沿わないところでした。

何事もそうですが、「国」を背負ってしまうと柔軟性が失われ、権威優先となって頑なになっていくのでしょう。また、お役人仕事的になっていた部分もあったのかもしれません。その壁を打ち破りたいのが最澄でしたから、聖武の「国家仏教」(隠れ「物部神道」の東大寺仏教システム)を骨抜きにしたい桓武天皇にとっては、最澄は“使える”男だったわけですね。

そして、桓武は最先端の密教を日本に導入することで、国家仏教を骨抜きにすべく最澄を抜擢したのでしょう。また、密教儀式を行わせ、もって自分の不安を取り除くために使ったわけです。

けれど、桓武は天台宗独自の大乗戒壇院を建立することは許可しませんでした。これまでの戒壇(僧尼となる許可)は修行を積んだ者だけを対象とするので「小乗」(少ない人しか乗れない)。けれど、最澄の目指す「大乗戒」とは、具足戒と異なって在家・出家の区別なくさずけることができるもの。苦労して具足戒を得たものにとっては、「何それ!」って反発するのも頷けます。

桓武にとっては、南都(平城京)仏教を骨抜きにするためにはいい方法でしたが、一方で大乗戒は反「藤原神道」である法華経を爆発的に広めることになりますので、そこが困りものだったのでしょう。ですから、法力のある密教部分だけは利用しますが、最澄の主目的である大乗戒壇院の建立は禁じたのです。




最澄の執念が実らせた:「国家仏教」から「宗派仏教」の時代へ

さて、最澄は法華一乗ですから、法華経を唯一最高のものとし、密教さえもその中に取り込もうとしました。また、法華経が最高であることを示すために、他宗派は議論で撃破すべき相手としての存在でした。

一方の空海は、諸仏教の到達地点が密教であると考えていましたので、すべての宗派はその過程であり内包されるものでしたから、対立はしませんでした。ここに空海と最澄の決定的な違いがあります(空海と最澄については、またいずれ)。

さて、桓武の没後、奈良の僧侶たちの猛反対に逢いながらも、最澄は比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立する願いを朝廷に出し続けました。818年(52歳)には、自ら範を示すべく『みずから誓願して250戒を棄捨す』と宣言して、東大寺で受けた具足戒を捨てました(現代で言えば、国家資格を捨てたということ)。南都(平城京)仏教側からすれば、それは「僧ではなくなった」ことになります。

が、その努力と願い空しく822年、56歳で亡くなります。この時に弟子達に述べたのが、「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」という言葉でした。

この言葉は、「私のことを思っている暇はないぞ、大乗戒壇院ができるまであきらめるな」ということだったのかもしれませんね。

最澄遷化七日後に、大乗戒壇院の建立を許す詔が下されました。ここに、国に縛られない(国家資格ではない)宗派が成立したことになり、この後宗派乱立の鎌倉仏教へと展開していくことになり、国家が運営する国分寺と国分尼寺は廃れていくことになります。


面白いですね~。
「国家仏教」破壊という桓武の目的は達せられましたが、「形」は破壊されても法華経を根っこに持つ様々な宗派が雨後の竹の子のごとく現れ、桓武の嫌った法華経は日本全国に広まることになったのです。

いや~、つくづく面白い。
時代はあざなえる縄のごとしですね・・・・

聖徳太子、そして聖武天皇―この2人が蒔いた種は、このような形で広がっていったんだなぁと感慨深いものがあります。種を蒔いていたからこそ芽が出たわけですからね。

そして、最澄と空海―それぞれに役割があったんだなぁと思います。






*このシリーズ、ひとまずここで筆を置きます。
空海という超大物について、遠からず書く時が来るでしょう。では、また。





【alan  「久遠の河」】


誰もが新たな種を蒔く
古の詩を語る壁の跡に




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