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24.鞍馬寺:藤原政権に封じられた「靫明神」の秘密

2016/11/21(Mon) Category : 神社・寺・城・歴史
【京の奥座敷巡り旅】24

鞍馬寺の守護神・由岐神社---------------------------------------

お寺の中に神社。神仏習合の形ですね。

鞍馬寺46 由岐神社
鞍馬寺46 由岐神社 posted by (C)Hide

神仏習合は、日本初のお寺―飛鳥寺からそうでした。槻木が茂る真神野原に瀬織津姫に見守られる形で寺が建ち、瀬織津姫と見なされる竜石の上に日本最古の飛鳥大仏は座していました。

それに倣って、聖武天皇は瀬織津姫の化身である宇佐八幡を奈良大仏(毘盧遮那仏)の守り神にしました。このように二柱(アマテル&瀬織津姫)が封じられた持統以降は、神社(瀬織津姫)が仏(アマテル)を見守るという神仏習合の形を利用して二柱が復活しました。

ただそうとわからないように「縄文古来は大陸由来」に形を変えて、渡来神や渡来の習俗の形を借りて、由来や縁起が作られていったわけです。

ここ由岐神社も鞍馬寺を守る神社ですから、瀬織津姫の匂いがしますね。
由岐神社の主祭神は大己貴命と少彦名命。いずれ書くこともあろうかと思いますが、どうやらこの二柱は国常立神&瀬織津姫のカムフラージュでもあるようです(伊弉諾&伊弉冉もそうですね)。

で、大己貴命と少彦名命の二柱を総称して由岐大明神と呼び、別名を靫明神(ゆきみょうじん)と言うそうです。この「別名」というのがくせ者ですので、ちょっと調べてみました。




靫明神とは誰か-------------------------------------------------

まず靫を奉ったことから由岐神社になったそうですから、靫に何らかの神を仮託しているわけですね。

「靫」(ゆき、ゆぎ、うつぼ、うつお/サイ、サ)とは、「矢を入れる筒」のこと。箙(えびら)とも言う。表面を張り包む材質によって、皮靫(かわゆき)、錦靫 (にしきゆき) ・蒲靫 (がまゆき) 、白葛靫(しろくずゆき)がある。錦靫は、表に錦、裏に帛 (はく) をつけた檜の靫のことで、姫靫(ひめゆぎ)とも言います。
靫の名前を見ると、錦、姫、蒲、白葛―まんま瀬織津姫ですね。

下記に上記の各種靫の写真があります。
伊勢神宮式年遷宮奉納記念展


「矢」は、いわゆる武器の矢の他に、壺に向かって木の棒を投げ入れるゲームの棒のことも指します。「連ねる、正しい、誓う、施す」などの意味もあって驚きますね。

矢を納めた靫の形象は、そのまま陰陽合一を表しているでしょう。
つまり、矢がアマテル(国常立神)、靫が瀬織津姫ですね。

それに矢をまっすぐに飛ばす役割の「羽」も瀬織津姫ですから、靫に守られ羽でまっすぐに軌道修正され・・・なんとまぁ、男性というのは女性に守られ軌道を維持修正されて突っ走っているのね~、といろいろな感慨がわいてきます。

まぁ、カウンセリングの世界から見ると「靫明神」は「脳内母親」で、誰もがその脳内母親に支配されて脚本人生を突っ走っているわけです。だから、「脳内母親」のあり方がとても大事になるわけですね~。




「靫」が表しているもの-----------------------------------------

【靫草】(うつぼぐさ)
・花穂の形が靫に似ているところからそう言われるようになったそうですが、紫色の唇形花です。
「紫」は瀬織津姫カラーですし、
「唇」は七赤金星ですね。

・その上、夏枯草(かごそう)とも言うそうです。凄いネーミングセンス。
持統に奪われた夏―夏に枯れる・・・まさに瀬織津姫です。
・しかも読ませ方が「かごそう」→カゴ→籠ですからね。龍が閉じ込められています。
・さらに、ウツオグサともいうそうで、国常立神を表した「鬱金」(ウコン)の「鬱」を思い出しますね。(現代社会に鬱が蔓延しているのも時代の末期症状と国常立神復活の前夜?)


【靫葛】(うつぼかずら)
・瀬織津姫の代名詞である葛の1種。口に縁歯=七星金星+碧。そして茎には白い綿毛が密生することも裏見草の葛の葉を思い出します。

【靫負】(ゆぎえ、ゆげい)
・弓を背負って宮廷を警護する者のことですが、瀬織津姫を背負っているわけですから心強かったでしょう。「守る」「見守る」―瀬織津姫の役目そのものですね。

【靫負の命婦】(ゆげいのみょうぶ)
・面白いのは、父か兄または夫が「靫負の尉(じよう)」である五位以上の女官のことをわざわざこう呼んだこと。女官も多々いたことでしょうが、名がつくということは特別視されていたと言うことでしょう。


ところで、矢ではなく弓を削って作る職人のことを
【弓削】(ゆげ)と言いますが、靫も弓削も古代にあっては重要な氏族だったのでしょう。(余談:ユギ、ユゲ→湯気、湯下、湯に通じますね)

そして、この靫から発展し、矢の大部分が外に表れるようになったものを胡簶(やなぐい)と言います。これにも、壺胡簶や平胡簶がありますが、「壺」や「平」も瀬織津姫を表しますね。

ところで、この「胡簶」(ころく)がついた「胡簶神社」というのが各地にあります。祭神や祭礼など眺めていると瀬織津姫の匂いがぷんぷんします。

以上、武具としてのいくつかある「靫」の名前や「靫」のついた植物などからも、「靫」が瀬織津姫を表していることがわかりました。




「徒然草」第二百三段「勅勘の所に靫かくる作法」の意味------------

ところで、この「靫」がどのような使われ方をしていたのかがわかる資料がありました。吉田兼好(1283-1352?)の「徒然草」です。その第二百三段に「勅勘の所に靫かくる作法」という記事があります。

上記を見ると、兼好法師以前の時代に、天皇により謹慎処分を受けた人の所に靫をかける作法があったようです。役人がその家の門に靫をかけると、その家には人が出入りしなくなります。謹慎の実効をあらしめるための仕組みですね。靫は、その家を閉じる鍵(印)であったことがわかります。

言わば罪人に印を付けて、その罪人を閉じ込め外に出さないようにしたわけですが、その風習が途絶えた現在は、門に封を作ることになった―とあります。罪人の家の門に封を作ったのか、その風習自体がなくなったために誰が罪人かわからず、自己防衛のために各戸が門に閂(かんぬき)をかけるようになったのか・・・取り方によってまるで異なる風俗が見えてきますね。

兼好が生まれる以前、1221年頃までに成立した「宇治拾遺物語」の中に「関木(かんのき)」の記述があるそうですから、兼好の時代には各戸が閂をかける習俗が一般化していたのでしょう。それを残念なこととして兼行はエッセイにしたのかもしれません。


さて、その中に、天皇が病気になったり疫病が流行したりすると、五条の天神に靫をかけたことが記されています。これは、天神に鍵をかけ、天神を閉じ込めたことを意味していますね。つまり、天皇の病気や疫病を天神の祟りと見なしていたことがわかります。天神を閉じ込めることによってその収束を願った儀式だったのでしょう。

そして、『鞍馬にゆぎの明神といふも、靫かけられたりける神なり。』という一文があります。靫明神も政権から鍵をかけられている神だというのです。吉田兼好は、靫明神が権力によって封じられた神だとはっきりと言ってたんですね~。

では、なぜ封じられたのでしょうか?




大地震に国家大乱の938-940-----------------------------------

神を封じるとは、天変地異を収めるということです。
まず、下記年表をご覧ください。
大和政権成立後、列島激震の200年

由岐神社は朱雀天皇(在位930-946)の命により天慶3年(940年)に創建されたそうですが、その2年前の938年にM7の大地震が起こっていますね。

『宮中で死者4人。家屋全壊多数。』とあります。天災は天皇の不徳の致すところと見なされましたから、宮中にまで死者が出たとあっては天皇の権威も失墜。

実際、各地で国司は横暴を極め、承平天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱:939-40)が起こります。
受領の苛政と純友の乱(940-941)
まつろわぬ民達の怨念のタワー「新皇」将門

上記にあるとおり、『慌てた朝廷(朱雀天皇)は、なんと「将門を殺した者は、身分を問わず貴族にする」という前代未聞の太政官符を、しかも一般大衆に向けて発令しました。

それまで貴族は世襲の特権階級。入り込む余地はありませんでした。そこまで大和政権は追い詰められたわけです。そして、将門を殺した平貞盛は貴族となりました。結果的に、将門は貴族支配の壁に穴を開けたわけです。まさしく将門は武士の時代の扉を開いたのです。』―源平二氏が躍進するきっかけは、この乱の鎮圧にありました。

なお、朱雀天皇とありますが、乱当時天皇は16歳ですから、実際は藤原政権VS縄文末裔&旧豪族の闘いでしょう。まさに藤原政権転覆の危機にあったのが938-940年でした。




藤原基経一族が封じた靫明神------------------------------------

このときの左大臣は藤原仲平(937-945)。藤原基経の二男で、899~945年まで基経の長男時平→四男忠平→二男仲平と左大臣は継投されています。その後も、仲平の長男実頼が967年まで左大臣を勤めていますから、基経一族が日本を牛耳っていたと言ってもいいでしょう。

その基経は叔父の良房に働きかけ、応天門の変(866)で古代からの名族大伴氏(伴氏)や紀氏を没落させた策略家。これら旧豪族の不満も承平天慶の乱で噴出したのではないでしょうか。

そして、大地震および天下大乱を収めるべく、それまで御所に祀っていたのを北の山(鞍馬山)に封じることになったのが、靫明神でした。
つまり、藤原政権から見ると、靫明神こそが国家的危機を招いた神と見なされたわけですね。

それこそまさしく、持統&不比等が封じた二柱―国常立神&瀬織津姫だったでしょう。

『靫を奉ったことから由岐神社になった』とありますが、実は靫をかけられて封じられたのでしょうね。



<続く>





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