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石山寺を歩く14-芭蕉庵~「石山の石にたばしるあられかな」に積み重なる歴史

2017/03/03(Fri) Category : 神社・寺・城・歴史
【石山寺を歩く】

芭蕉庵----------------------------------

さて、若宮の並びに芭蕉庵があります。
中秋の名月の時に行われる「秋月祭」で、お茶席が設けられるそうです。

石山寺75 芭蕉庵

ここも、若宮―芭蕉案―月見亭と並んでいますので、芭蕉案が国常立神で若宮と月見亭が瀬織津姫とみてもいいでしょう。その芭蕉庵の前に見事な龍樹がありました。

石山寺76 芭蕉庵  龍樹1

自然にこうなったというよりも、このように造形していったんでしょうね~。

石山寺77 芭蕉庵 龍樹2

芭蕉がここで詠んだ句。

「石山の 石にたばしる あられかな」

この俳句にもいろいろとありそうですね~。
まずは、雨冠の気象を表す漢字から。




雪・霙・霰・雹-----------------------------------------

『雪(ゆき)、霙(みぞれ)、霰(あられ)、雹(ひょう)という漢字の成り立ちについて』という記事がありました。

雪(ゆき) ヨは「彗」(ほうき)
霙(みぞれ)英は「花」
霰(あられ)散はパラパラとちる音(5mm未満の氷の粒)
雹(ひょう)包は丸く覆う形   (5mm以上の氷の粒)

雪は祓戸大神を
霙は女神(花)を
霰は玉散る滝しぶきを
雹は菊を
それぞれ思い出しますね。

「彗」「英」「散」には、“先端をそろえ箒の象形が2つ”“草の生えた象形が2つ”“竹の象形が2つ”と2つ並びの象形文字が入っていますので、2柱を思わせます。
「彗」「散」「包」には手でつかむ、包む象形が入っています。「央」は「首かせをつけられた人」の象形で、人が首かせの中央にある事から「まんなか」を意味しますが、つまりは「英」も一度くくった後に開くイメージです。「手」や「くくる」「つつむ」は瀬織津姫ですね。

また、「散」の左側は、「竹+肉月」で、皮を分離された竹を意味し、そこから「ばらばらにする」を意味することになったちょうですが、竹も月も瀬織津姫ですから、瀬織津姫の魂がまさに玉となって散るイメージを連想させます。

まぁ、すべて水の変化ですから、いずれも水神・瀬織津姫の権現(仮の姿)です。




藤原不比等vs柿本人麻呂、「日本書紀」vs「万葉集」------------------

さて、和歌の後ろには他の人が詠んだ和歌があり、さらにその向こうにも和歌があり・・・と、重層的に意味が織りなす世界です。また、一つ一つの言葉が、駄洒落、掛詞、連想の世界です。

上記芭蕉(1644-1694)の句の向こうには、
源実朝(1192-1219)、その向こうに
柿本人麻呂(660?-724)がいるようですが・・・
すごいね~人麻呂から芭蕉まで1000年だよ。重層的日本文化の奥深さを見る思いです。

柿本人麻呂は藤原不比等(659-720)と全くの同時代人。
そして、「万葉集」第一の歌人。

不比等の「日本書紀」(720)に対して、
人麻呂の「万葉集」(成立は759以降)です。

「万葉集」と言えば反藤原の歌集ですね。




さて、人麻呂が詠んだ歌に次のような歌があります。
「我袖尓  雹手走  巻隠  不消有  妹為見」

「我が袖に 霰た走る 巻き隠し 消たずてあらむ 妹が見むため」
と訳されているようで、そういう意味にとれるように作っているのでしょう。

妻に見せるために巻かくして持ち帰るというのは、雪や霙であればもっとはかない風情が出る気がしますが・・・それに、天智の失政であわや中国の属国となりかねなかった日本を再統一した天武に仕えて喜びを味わった後、急転直下、その後天武系皇子達が粛正されていく凄惨な歴史と、国常立神&瀬織津姫の二柱が容赦なく封印されていく驚天動地の歴史を目の当たりにしたのが柿本人麻呂です。

そういう激動の時代にあって、こんなのんきな歌を詠んではいないでしょう。
隠された意味があるように思います。




「我が袖に 霰た走る 巻き隠し」(柿本人麻呂)---------------------

「我袖尓  雹手走  巻隠  不消有  妹為見」
―袖・霰・手走・巻が気になりますね。

「袖」=「衣」+「由」ですが、「衣服のえりもと」+「底の深い酒つぼ」の象形。ここから、「衣服の筒状になっていて腕を通す部分」の意味が生まれ、本体の両側にあることから、「両脇にあるもの」(袖机)、「舞台の袖(左右の端)」「肩から肘の部分を覆って矢や刀を防ぐもの」、さらに「端」という意味から「そでにする(冷たく扱う、無視する)」という意味ができました。

まず、漢字の成り立ちが酒壺=「佐気」壺ですからね~。
次に、本体の両側にある→赤鬼・青鬼、前鬼・後鬼、阿吽の仁王、毘沙門天と観音―そう、ツインで瀬織津姫でしたね。
しかも、矢を防ぐ=矢(国常立神)と同等の力を持つ=瀬織津姫。
さらに、持統に封印されて以降、無視されました。
まぁ、ことごとく「袖」=「瀬織津姫」を表しているわけです。

「霰」は、上記に見たとおり。

「手走」は、「手」が瀬織津姫、「走」から“速い”“速川”が連想されますし、速川からは『落ち多岐つ速川の瀬』、つまり、瀬織津姫が連想されます。
「たばしる霰」と「たぎつ速川」は、ともに玉(氷の玉と水の玉)が散るイメージが重なりますね。実際、「たばしる」ではなく「玉散る」と書いてあるものもあり、そちらはより直悦的に「玉」=瀬織津姫を表しています。

「巻」は、真ん中が空洞になっていて糸を巻きつけて使う、糸を繰る道具です。つまり、織姫(瀬織津姫)の道具ですから、巻も瀬織津姫の暗示に使われます。

ということは、「巻隠」で「瀬織津姫を隠したこと」を暗示しているように思えます。

また、人麻呂は巻向(まきむく)のことを結構詠んでいるんですね。
「巻向の弓月が岳」「巻向の桧原の山」「巻向の川音」「巻向山に春されば」「高き巻向の崖」・・・巻向につながる月、桧、川、春、高き崖―これらは全て瀬織津姫を象徴します。ここからも「巻」が瀬織津姫を暗示していると言えるでしょう。

(前方後円墳発祥の地、纒向(まきむく)の都が興味深いですね。前方後円墳とは、方+円=四角+丸=瀬織津姫+国常立神です。前方後円の形で二柱合体を表しているのではないでしょうか)


すると、「我袖尓  雹手走  巻隠  不消有  妹為見」の歌の意味は次のように思えます。(不消=必要としない、するに及ばない)

私の袖に霰がパラついてきた。
瀬織津姫は隠されたが、形としてある必要もない。
この霰の玉を、あなたと見なそう。




日本三大悪妖怪「玉藻前」-------------------------------

続いて、わずか28歳で暗殺された悲劇の鎌倉3代将軍、源実朝の歌。

「もののふの矢並つくろふ籠手の上(え)に 霰たばしる那須の篠原」

『那須の篠原で狩りをする武人が、次の獲物を狙うまでのわずかな間、降る霰の中でひと息入れて、馬上で矢並を直しているという勇壮な情景』と解釈されているようです。また、「たばしる」「玉ちる」両方あるようです。

ところで、那須に行ったことがない実朝が、なぜこのような歌を詠んだのでしょうか?

芭蕉の「おくのほそ道」では、『那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ』とあります。芭蕉もわざわざ訪れているくらいですから、「那須の篠原」およびそこにある「玉藻の前の古墳」に皆さん惹かれていたようですね。

「玉藻前」(たまものまえ)というのは妖狐(白面金毛九尾の狐)で、「那須の篠原」にはその玉藻前を祀る玉藻稲荷神社があります。

玉藻前
【玉藻前】

「玉藻前」とは、「日本三大悪妖怪」の一人。
日本三大悪妖怪は、酒呑童子(鬼)、玉藻前(白面金毛九尾の狐)、崇徳天皇(大天狗)。まぁ、権力にとって都合が悪い相手を「悪」としていますから、この3人はいわば「三傑」なのでしょう。


「藻」といえば、地球誕生時、放射能が出なくなって最初に発生したのが藻です。藻は生命の源ですね。

また、生命にとって必須の塩―ちなみに、父の実家は塩以外は味噌・醤油も含めて全て自給自足。“買う”ものは塩だけだったそう。その塩づくりの原点が「藻塩焼き」。藻は塩まで供給してくれていたわけですね。

その藻塩焼きを詠んだ定家の歌から、「藻塩草」と言えば定家の「小倉百人一首」のことを指す暗号となっています。【百人一首の「秘伝」とは何か?】

藻だけを見ても、藻が瀬織津姫を表していることが見えてきますが、玉藻・白面・金毛・九尾・狐―まぁ完璧にわかりやすく瀬織津姫を表していると思います。

「前」というのは、神を直接指すのを避けて“前”ということもあり、高貴な女性を尊称していうこともあります(→千手の前)。

玉藻前は、瀬織津姫の化身のごとき絶世の美女だったのでしょう。




「玉藻前伝説」---------------------------------------------------

こちらに「玉藻前伝説」がありました。それによると
「玉藻前」は、吉備真備(695-775)の乗る遣唐使船に同乗して日本に渡ってきた「若藻」という美少女。上記によれば『二八ばかりの美女』とありますね。二八=十六歳です。それをわざわざ瀬織津姫ナンバー「二」「八」で表したわけですね。
吉備真備も聖武天皇が重用した反藤原勢力の筆頭でしたね。

その若藻が玉藻前という美女になり、鳥羽上皇(1103-1156)の女官となって寵愛を受けるようになりますが、鳥羽上皇が病気がちになったので陰陽師が真言を唱えたところ、玉藻前は白面金毛九尾の狐となって那須の篠原に脱走。「篠」というのは、矢を作るのに用いる細い篠竹のこと。つまり、竹原です。

玉藻前(那須の篠原)
【玉藻前(那須の篠原)】

朝廷は八万の軍勢で討伐し、九尾の狐は息絶えた直後、巨大な毒石(殺生石)に変化して人の命を奪ったとのこと。後に玄翁和尚が殺生石を破壊したところ、その破片が各地へと飛散したそうです。

「玄」も「翁」も国常立神を表しますから、殺生石(瀬織津姫)に対抗できるのは「玄翁」しかいなかったわけですが、実際にいたんですね~。(源翁心昭 1329-1400)

なお、前後の平たい大きな鉄鎚をゲンノウ(玄翁、玄能)と呼びますが、それはこの殺生石を砕いた話が由来となっていたとは!
【能「殺生石」】




「あられ玉ちる那須の篠原」(源実朝)-------------------------------

この伝説は2つのことを連想させます。
1つは、鳥羽上皇に冷遇され、鳥羽上皇崩御後に保元の乱を起こして破れ、その後も近衛、後白河と弟たちに冷遇されて憤死した崇徳天皇(1119-1164)。
もう1つは、藤原政権に封じられた瀬織津姫。

そして、この両者は「日本三大悪妖怪」のうちの2人です。
おそらく、この2人の境遇をかけたんだろうなぁと思います。


「もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原」

「玉藻前伝説」を念頭に源実朝の歌を見ると、矢繕いをする武士の姿は、その昔に玉藻前(白面金毛九尾の狐)を討ち取らんとした武士の姿に重なります。

「霰玉ちる那須の篠原」は、まさに那須の篠原で魂が散った「玉藻前」を彷彿とさせます。その那須の篠原で、後世同じように狩りをする武士の籠手に叩きつけるように「たばしる霰」―けれど、すでに封じられた神がいたことさえ知らぬ時代にあっては、その霰はただの霰。なんとも無常感が漂います。

加えて、父からも兄弟からも冷遇されて憤死した崇徳天皇の身の上。
崇徳天皇の境遇は、母方の北条家の謀略により出家させられた挙げ句暗殺された2代将軍・兄頼家の身の上にも重なったことでしょう。そして、その災いが自分の身に及ぶことをどこかで予感していたのではないでしょうか。(子供は母親のことをよく見ていますからね。にしても、北条政子は持統天皇のようです)




「軒端の梅よ 春をわするな」(源実朝辞世)--------------------------

実朝は、鶴岡八幡宮に拝賀したとき甥(頼家の子)の公暁に討たれるわけですが、その出発前に事件を予見したかのような次の歌を詠んでおり、これが辞世の句となってしまいます。

「出でいなば主なき宿と成ぬとも 軒端の梅よ春をわするな」

出で去なば―ここを出立したら、もはや帰って来られぬかもしれない。たとえ、私という主がいなくなっても、軒端の梅よ、春には私を思って花を咲かせてほしい。

さて、軒端にゆれる「軒端の梅」です。実朝は歌に耽溺したことになっていますが、歌とは歴史を秘したものですから、秘された歴史を紐解いたのでしょう。当然、瀬織津姫封印の歴史も知っていたことでしょう。

すると、「主なき宿」とは「国常立神なき日本」です。
しかも自分は将軍=日本の最高権力ですから、まさに国常立神にかぶるわけですね。

「主なき宿」と「軒端の梅」で、国常立神と瀬織津姫、将軍たる自分と瀬織津姫をかけているように思います。

また、柿本人麻呂の「巻隠  不消有  妹為見」―「瀬織津姫は隠されたが、形としてある必要もない。この霰の玉を、あなたと見なそう。」という歌も心にあったことでしょう。
そこに、自分が隠されても、春の梅を見て私のことを思い出してほしい―という思いが託されているように思います。

そして、もう一つ、菅原道真(845-903)の次の句が念頭にあったと思います。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」

道真がこの歌を残したことによって、実朝は300年前の道真を思い起こすことができました。しかも時空を超えて道真の心と共鳴したのです。後世の人が自分の残した歌を詠んで、自分の置かれた境遇や無念の心をわかってほしい―そういう願いも託したのだと思います。

(道真の歌については「東風の苑」(こちのその)の記事で書きましょう)




「石山の 石にたばしる あられかな」(芭蕉)------------------------

さて、時代の目撃者、柿本人麻呂が詠んだ歌。
「我袖尓  雹手走  巻隠  不消有  妹為見」

その200年後の菅原道真の命運。

その300年後に成立していた「玉藻前伝説」と源実朝が詠んだ歌。
「もののふの矢並つくろふ籠手 の上に 霰たばしる那須の篠原」

瀬織津姫と崇徳天皇と源実朝の境遇。
菅原道真を思い起こす実朝の辞世の句。

さらに500年後に芭蕉が詠んだ句。
「石山の 石にたばしる あられかな」

柿本人麻呂から芭蕉に至るまでに約1000年近くが経っているわけです。
その1000年間、思いは歌に残され、つむぎつながれ、新たな思いとなって継承されてきたわけですから、思いって素晴らしいなぁと思います。
そして、その思いを形に残すことができた「文化という器」もすごいなぁと思います。



「石山の 石にたばしる あられかな」



皆様は、この句にどういう思いが湧くでしょうか。








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