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藤原摂関体制確立の時代に生きた菅原道真

2017/03/10(Fri) Category : 神社・寺・城・歴史
【石山寺を歩く】 番外:菅原道真

梅について見た後は、菅原道真について―まず、時代背景から。


780-940 天変地異と藤原摂関体制確立の時代年表----------------

○ 天皇即位
△ 権力内クーデター
▼ 縄文勢力征討
▲ 縄文勢力反乱
■ 地震・津波・噴火・天然痘
(フォントの関係で記号の大きさがバラバラですが)

781 ○(50)桓武天皇即位(737-806/在位781-806)
784  長岡京遷都(←藤原種継 737-785/式家)
785  早良親王憤死
788  桓武の皇后や后が相次いで亡くなる
789 ▼紀古佐美の蝦夷征討失敗
790 ■天然痘が流行
794 ▼大伴弟麻呂蝦夷征討/平安京遷都
800-2■富士山延暦大噴火(東側斜面に西小富士を形成)
800  早良親王に崇道天皇の追号
801 ▼坂上田村麻呂蝦夷征討(→アテルイ)
806 ○(51)平城天皇即位(←藤原種継の子の仲成&薬子が利用)
809 ○(52)嵯峨天皇即位(平城天皇の弟)
810 △薬子の変
811 ▼文室綿麻呂蝦夷征討
814 ▲荒橿の乱(出雲)
818 ■弘仁地震(北関東:死者多数)
823 ○(53)淳和天皇即位
827 ■京都で地震
830 ■出羽地震
833 ○(54)仁明天皇即位
841 ■伊豆地震(死者多数)
842 △承和の変(じょうわのへん) 皇太子を巡る政変で大伴氏と橘氏に打撃を与え、藤原良房(804-872/北家)の甥(道康親王→文徳天皇)が皇太子となった(藤原氏繁栄の基礎)。
848 ▲上総俘囚の乱
850 ■出羽地震(死者多数)
850 ○(55)文徳天皇即位(32歳で崩御)
858 ○(56)清和天皇即位(良房の娘の子9歳)/藤原良房が人臣(皇族以外)で初の太政大臣→初の摂政(君主に代わって政を摂る)となる
863 ■越中・越後地震(死者多数)
864 ■富士山貞観大噴火(剗の海埋没し西湖と精進湖、溶岩流の上に青木ヶ原樹海形成)
864-7■阿蘇山噴火
866 △応天門の変(藤原良房が大伴氏を陥れて流刑→伴氏・紀氏勢力の一掃)
868 ■播磨地震(山崎断層)
869 ■貞観地震&貞観津波(多賀城損壊/被害甚大)
871 ■鳥海山噴火
874 ■開聞岳大噴火
875 ▲下総・下野俘囚の乱
876 △太極殿炎上
876 ○(57)陽成天皇即位(藤原長良の娘の子9歳)/藤原基経(836-891 良房の養子)が摂政
878 ■相模・武蔵地震(死者多数)
878 ▲秋田俘囚の大乱
880 ■出雲地震
880年代 歌物語「伊勢物語」
883 ▲上総俘囚の乱
884 ○(58)光孝天皇即位/藤原基経が関白となる(関白=天皇代行のはじまり)
886 ■伊豆諸島噴火(房総にも被害)
887 ■仁和地震(越後津波→信濃山崩れ・洪水→五畿七道諸国大震)
887 ○(59)宇多天皇(867-931)即位/阿衡事件(あこう)―宇多天皇が藤原基経の謀略に負け左大弁橘広相を解官した事件
889 宇多天皇は勢力拡大の為、桓武天皇の曾孫の高望王に平姓を与える(桓武平氏)。平将門は高望王の孫。菅原道真を重用。左大臣・時平(871-909 基経の子)と右大臣・道真の体制に。
894 菅原道真の建議で遣唐使を廃止(907唐滅亡)
897 ○(60)醍醐天皇即位
897 ▲俘囚を奥羽に帰還させようとする
890年代 日本最古の物語「竹取物語」
901 △昌泰の変(しょうたい) - 菅原道真を大宰府へ左遷
902 延喜の荘園整理令
903 道真薨去
910 ■洪水
911 ■洪水
912 ■洛中で大火
914 ■洛中で大火
915 ■十和田火山大噴火(過去2000年で最大規模の噴火)
917 ■渇水
918 ■洪水
922 ■咳病が大流行
930 ○(61)朱雀天皇(基経の娘が母8歳)/藤原忠平(880-949 基経の子)が摂政
939 ▲出羽国で俘囚の反乱
940 ▲駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾
940 ■承平天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱)


【他参考:【縄文vs弥生】2.列島激震の200年、縄文人と弥生人の融合






藤原内紛:式家と北家の暗闘(784-810)------------------------

藤原鎌足(百済王子の豊璋?600年代)から始まった百済派の天皇擁立作戦は、およそ100年後、ついに天皇自身に百済系を登場させました。それが高野新笠(百済人末裔)の子、桓武天皇(737-806/在位781-806)です。

桓武は、聖武天皇が反藤原の拠点として建立した東大寺のある平城京を嫌って、重用していた藤原種継のすすめに従って藤原式家の本拠地である長岡京に遷都(784)しますが、種継が暗殺されます。この後、藤原北家が台頭していきますので、北家の謀略(藤原家の内紛)だったのでしょう。

ところでこのとき、弟の早良親王が東大寺の重鎮であることをまずいと思った桓武は、後継をにおわせて還俗させていましたが、種継暗殺に関与したとして淡路に配流しようとします。無実の罪を着せられ、桓武の魂胆に怒った早良親王はハンストを起こして憤死(785)。

その後、桓武の皇后や后が相次いで亡くなったり、天然痘が流行したりして早良親王の祟りを恐れた桓武天皇は、長岡京を捨てて新たな地に移り(794)、そこで強力な結界都市平安京を作り上げることになります。

その一方で、反藤原勢力を弱体化させるために紀氏や大伴氏に蝦夷征討をさせています。紀古佐美など、乗り気でない様子がありありとわかりますし、わざと失敗したのではないかとさえ思えます(789)。

祟りに怯えつつ亡くなった桓武の子の平城天皇に取り入ったのが、藤原種継の子の仲成&薬子の兄妹。おそらく父種継を殺された北家への復讐を図っていたのでしょう。わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位して上皇とさせ(809)、都を旧都平城京に移して嵯峨天皇に対抗させました(二所の朝廷)が、810年に鎮圧されました(薬子の変)。このとき、嵯峨天皇に重用されたのが北家の藤原冬嗣で、北家が勢力を伸ばしていくことになります。




大伴氏と橘氏を打倒した藤原氏(810-842)----------------------

嵯峨天皇の皇后は橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣・橘清友の娘である橘嘉智子(たちばなのかちこ)でした。
橘氏は、不比等の后となった県犬養三千代(橘三千代)に始まり、その子橘諸兄は聖武天皇を支えますが、その子橘奈良麻呂は、光明皇后のバックアップを受けた藤原仲麻呂によって、大伴氏、佐伯氏、賀茂氏など旧勢力の重鎮らとともに獄死させられた藤原氏の仇敵。

その橘氏が皇后であり、嵯峨天皇は譲位した後も政治を見続けましたから、嵯峨―淳和―仁明と続く809-842の間は、比較的穏やかに見えますが、水面下での攻防は続いていました。

冬嗣の子、順子(良房の妹)が仁明天皇の中宮となり道康親王(文徳天皇)が生まれます。既に、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子(恒貞親王)が立てられていましたので、ここで後継争いが勃発。

嵯峨上皇崩御後、恒貞親王は廃太子され、恒貞親王についた伴健岑と橘逸勢(はやなり/橘奈良麻呂の孫)は逮捕。伴健岑は隠岐へ配流、橘逸勢は姓を「非人」と改められた上で伊豆に流罪となりました。(842 承和の変)

「橘憎し」の藤原の怨念があからさまに見える仕打ちですが、藤原一族に逆らうとどうなるのか見せしめる意図もあったのでしょう。これで古代名族、大伴氏と橘氏に打倒すると同時に、藤原良房は甥を文徳天皇とし藤原繁栄の基礎を作りました。




藤原氏による日本の私物化と天変地異----------------------------

その文徳天皇は在位わずか8年、32歳にして崩御し、良房の娘の子がわずか9歳で清和天皇として即位。ついに良房が摂政として天皇権限を振るうようになるわけです(858)。天皇を陥れ、天皇に代わってついに日本を私物化したわけですね。

その6年後に富士山、阿蘇山という日本の2大火山が大爆発していますから、神の怒りやいかばかりか。それもものともせず、良房は「応天門の変」(866)を仕掛けて伴氏・紀氏勢力を一掃していきます。

まぁここまで見ただけでも、紀氏、大伴氏、佐伯氏、賀茂氏、橘氏と次々に葬っていった藤原一族。また、古豪の力をそぐために縄文勢力の征討に行かせた藤原一族。古代名族や縄文人の怒りが列島に渦巻いたことでしょう。

その怒りが地震や噴火、反乱を招きます。応天門の変以降、その3つが立て続けに起こっていますね。記録に残る歴史津波の最古のものである貞観津波も、このときに発生しています(869)。
【「仙台平野の歴史津波」が教えること】

858年から始まる藤原摂関体制確立の時代は、「摂関政治」という名がつけられてはいますが、実際は藤原が天下を支配した時代。そして、東北から九州に至るまで日本全土天変地異の時代でもありました。




反藤原の旗手だった道真(845-903)--------------------------

まさに藤原の日本統治が確立していくこの時代に菅原道真はいたわけです。権力の対立構造としては次のようになるでしょうか。

<権力>藤原良房(804-872)+藤原基経(836-891)+藤原時平(871-909)左大臣
<権威>宇多天皇(867-931)+菅原道真(845-903)右大臣

国家権力を牛耳った藤原一族は、良房→基経→時平と継投して隙を見せず、かろうじて基経が亡くなったときに宇多天皇が道真を起用して対抗しようとするわけで、道真は反藤原勢力の支えでした。

この目の上のたんこぶを取り去るべく、藤原側は道真を遣唐大使に任じます。煙たい人間は唐送りにする―これは、吉備真備の頃から行われていたことでした。

菅原道真は遣唐使を廃止することで難を逃れますが、道真を支える宇多天皇から醍醐天皇に代が替わって後、謀略により醍醐天皇に嫌われ太宰府に左遷されます。



天神信仰の始まり(903-987)----------------------------------

太宰府で59歳で薨去(903)後、909年に時平が病死、謀略の一味・右大臣源光が溺死(913)、その他、年表にあるとおり洪水・大火・大噴火・咳病などが相次ぎ、醍醐天皇の皇子(時平の甥)が薨去(923)、930年には清涼殿に雷が落ちて多くの死傷者が出て、その3ヶ月後に醍醐天皇が崩御するなど都で異変が相次ぎました。

道真の祟りと恐れた権力側は、923年に右大臣の称号を授けて名誉を回復し、さらに987年には「北野天満宮天神」の称号を贈り、ここに天神信仰が広まっていくことになります。




<続く>






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