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瀬織津姫復活の隠れた立役者―百済人・山上憶良

2017/08/08(Tue) Category : 自然が教えてくれた
【春の庭模様】   【14.シレネ 追記】2

撫子を「瞿麦」と書いて「秋の七草」の一つに挙げたのが山上憶良です。山上憶良が百済からの帰化人だったと知って驚きました。
どういう人だったのでしょうか。

山上憶良の生きた瀬織津姫抹殺の時代----------------------------------

山上憶良は百済の滅亡に際して父親とともに日本に渡来し、天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人憶仁の子です。侍医ということは、両天皇の素の姿に接し、その人柄を誰よりもよく知っていたということ。憶良は、父を通じて天智・天武両天皇のことを深く知ったことでしょう。

「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」など社会派歌人として知られていますが、では彼が生きた社会はどういう社会だったのか。どういう思いでそれらの歌を歌ったのでしょうか。

山上憶良(660-733)の生きた時代は次のような時代でした。

天智天皇 (626ー672)(38代 668ー672)
弘文天皇 (648ー672)(39代 672)
天武天皇 (631ー686)(40代 673ー686)
持統天皇 (645-703)(41代 690-697 天智の娘)
藤原不比等(659-720)(天智の子?)
橘三千代 (665-733)(天武の忠臣の娘)
文武天皇 (683-707)(42代 697-707 元明の子)
橘諸兄   (684-757)(敏達天皇末裔美努王の子/母・橘三千代)
元明天皇 (661-721)(43代 707-715 天智の娘)
元正天皇 (680-748)(44代 715-724 元明の娘)
聖武天皇 (701-756)(45代 724-749 文武の子)
光明皇后 (701-760)(不比等の長女)
藤原仲麻呂(706-764)(不比等の長男武智麻呂の子)
橘奈良麻呂(721-757)(橘諸兄の子)


660 百済滅亡
663 白村江の戦い→百済人近江周辺に帰化
672 壬申の乱
676 藤原京建設
686 大津皇子自害
689 草壁皇太子薨去
696 高市皇子薨去
701 大宝律令制定
702 薩摩国・多禰国を置く
709 巨勢麻呂・佐伯石湯、蝦夷を平定
710 平城京に遷都<藤原神道システムの開始>
712 「古事記」完成
713 丹後国・美作国・大隅国を設ける
718 能登・安房・石城・石背国設置
720 「日本書記」完成
729 長屋王の変


山上憶良が見た時代―
それは、百済系勢力が天智を担ぎ上げ、けれど唐に大敗して唐の属国となりかねないところを天武が再興し、日本国の首都・藤原京を建設。
けれど持統という伏兵によって天武の皇子たちは次々に抹殺され、天武系の豪族達は縄文勢力討伐のために南北にかり出され、その間に持統・不比等らによって縄文古来の伝統をひっくり返す画策がなされ、平城京遷都と「日本書記」によって、天孫降臨神話に基づく藤原神道システムが動き出す―そういう時代でした。

祭政一致の時代ですから、これほどドラスティックな政体の転換には宗教改革が伴います。それが、全国津々浦々に及ぶ瀬織津姫の抹殺であり、アマテラスを頂点とする神々のヒエラルキー化、そして国家神道の樹立でした。

長屋王の変で旧勢力は最後の支えを失いますが、その中から不死鳥のごとく藤原一族(天智一族?)に闘いを挑んだのが、聖武天皇でした。
それがどういう闘いだったのか、【古代日本の転換点】で詳しく見ましたので、是非お読みいただければ幸いです。


もし、聖武なかりせば・・・と想像すると寒々しい限りですが、なんと憶良が首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)だったとは。

聖武は藤原一族と死闘を繰り広げつつ、神仏習合の形で二柱をミラクルに復活させたわけですから、憶良が聖武に与えた影響は極めて大きいと思います。そういう意味で、百済人・山上憶良は、瀬織津姫復活の隠れた立役者でした。




山上憶良が縄文古来を尊んだ理由--------------------------------------------

ではなぜ、百済からの帰化人山上憶良が、百済勢力である天智側ではなく、縄文古来側に同調したのでしょうか。

これは、私の体験も踏まえてですが、“外”から来ると誰しもそうだと思いますが、違う文化を持っていますので、地元の人が気づいていない良さを再発見できます。私も地域を転々としていたおり、地元の人が気づいていないその地域の良さがよく見えましたし、会社も合併したおり組織風土の違いもよく見えました。だからこそ、その良さを残そうと努力もするのです。

たとえば、協和発酵(今はありませんが)に合併されたとき、私はそこのユニークなレク文化(人材育成文化)に惚れ込みました。そして、その体験を元に階層別教育を再構築していきました。その当時、ある方の再来と言われたことがありました。その方は、初代社長に「教育経費は青天井にしてほしい」と申し入れ、協和の教育体系を作り上げた方でした。

つまり、中にいると気づかなかったり、どころか批判の対象になったりしているものも、外様だからこそその良さの本質が見え、それを残すべく尽力するということがあります。

けれど、時代の波があり、あらゆることがアウトソーシングされていく流れの中で、ユニークで優れた人材育成システムも消滅しました。
自社の社員に協力してもらって自前で研修を行うことの最大のメリットは、カリキュラムの内容もさることながら、その組織における自律モデルに生で接することができるところにあります。しかも、そのあり方が多様であるために、自分らしくていいんだと自信を持てること、また多様な人材を活かせる組織に対する求心力を培えるところにあるわけです。

それを3年しなければ、3年上の身近な先輩がもうその教育を知らないわけです。5年しなければ、ベテランの先輩も知りません。そして、10年たつ頃には砂漠化していき、組織への求心力はなくなっていきます。


閑話休題。
山上憶良は、百済滅亡の年に生まれています。百済人ですが育ちは日本。両親から百済の話も聞き、だからこそ生まれ育った日本の良さの本質がよく見えたのでしょう。

もう一つ言えること。
それは、いわば「時代の波」とてもいうべきものに対する憤りでしょうか。
たとえば、私たち(50代)が苦しんだのは親(80代)が心を閉ざして生きていたからですが、親がそうなった背景には戦争がありました。人を道具にする時代に生きた両親は、内なる存在不安を見たくないが故に脇目も振らずに突っ走っています。そう、持統天皇のように。

この大量の不幸が末代に連鎖して閉ざされた社会を形成していき、それがどのような末路をたどるのかを憶良は知っています。けれど、自分の親たちが経験したことと全く同じことが、ここ日本でも、まさに目の前で行われようとしています。瀬織津姫の抹殺は、土地を失うわけではないけれど縄文古来の文化の抹殺―まさに国を失うのと同じことです。

それがどれほど悲惨なことになるのかは、文化大革命以降の中国がどんな国になったのかを見てもわかります。「別の国」になってしまうのです。藤原一族がやろうとしていたことは、まさに当時の「文化大革命」でした。憶良は何としても、この流れを止めたかったのではないでしょうか。




命懸けで詠んだ「秋の七草」--------------------------------------------

憶良は、魔女狩りのような瀬織津姫抹殺の時代に生きました。
その中で詠んだ歌が、「秋の七草」の歌です。

「秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」

「芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴  朝皃之花」
「萩の花 尾花葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」

ここで瞿麦と呼んでいるのが撫子で、朝貌(あさがほ)と呼んでいるのが桔梗ですね。

さて、億良は「秋」が瀬織津姫を表す季節と知った上で、瀬織津姫植物である「草」を「七つ」そろえて見せました。そして、その七つの名を挙げたのです。

平和な時代にのんきに七草の歌を歌っていたのではありません。瀬織津姫の名を外さない神社は焼かれ、神官は殺される―そういう時代にこの歌を詠んだのです。命をかけていたと言ってもいいかもしれません。




「いざ子ども」の意味--------------------------------------------

当然、権力者(藤原一族)にとっては目の上のたんこぶ。42歳(702年)で遣唐使に出されますが、それは抜擢されたというよりも、藤原一族がよく使った手―体のいい島流しの可能性もあったでしょう。何しろ、難破せずに成功する確率は1/2ですから。

その後704年(もしくは707年)に無事に帰ってきますが、憶良が帰国に際して詠んだとされる歌があります。

「去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武」

「いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ」

「御津」(みつ)は遣唐使船が出港した摂津難波の港のことで、大伴氏の本拠地が御津であったことから、枕詞として「大伴の」がかかると解説されています。

「子等」については、いろいろと解釈がなされていますが、当時は「石松子」「川平子」「撫子」と、「子」を「瀬織津姫の分霊(わけみたま)」として使っていたことを考えると、ここでいう「子等」とは、瀬織津姫の精神を受け継ぐ人々のことを言っているのではないでしょうか。

おそらく、自分と同じように藤原一族によって唐に飛ばされた人々がいたのでしょう。けれど無事唐に辿り着くことができて(702)、いざ帰国の日を迎えたわけです(704もしくは707)。

日本には、縄文古来の天皇に仕えた名氏大伴氏が待っています。その大伴氏を「浜松」→「松」=「アマテル(国常立神)」になぞらえ、自分たちを「子」=「瀬織津姫」になぞらえて、「大伴氏よ待ってろよ。私たちが戻った暁には、いざ二柱復活ののろしを上げようではないか」―そういう思いを込めているのではないでしょうか。「秋の七草」の歌を詠んだ気骨が、ここにも現れている気がします。

718年に大納言が長屋王、中納言が大伴旅人という体制になると、720年に地方に配されていた憶良(61歳)は京に戻され、このとき首皇子(聖武)の侍講者になりました。長屋王―大伴旅人―山上憶良が聖武に命を吹き込んだのです。聖武天皇の藤原一族との死闘を支えたのは、こういう人々だったんだなぁとつくづく思います。

晩年(726)、左遷された筑紫の地で、大伴旅人とともに筑紫歌壇を形成します。中央権力(藤原一族)からどんな目に遭っても、決して挫けることのなかった憶良の闘志を見る思いがします。732年に筑前守任期を終えて帰京しましたが、間もなく亡くなりました。




「言霊の幸はふ国」--------------------------------------------

「大和の国は皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国」
―日本をよく表すこの言葉が、憶良の言葉だったとわかったとき、改めて感慨を覚えました。

よくぞ、日本の本質を表してくれた、と。
言葉とは文化の集大成ですから、極端に言えば、「日本語を話すことができれば日本人」だと私は思っています。百済人の億良が、誰よりも深く日本の本質を表したように。

その憶良が首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となったことは、日本の命運を大きく変えました。憶良は縄文古来の日本の良さを伝え、同時に、滅びることの哀切、帰る場所を持てないことの永遠なる絶望を伝えたことでしょう。億良の思いは聖武に伝わったのではないでしょうか。また、左遷されてなお歌壇をつくって言挙げし続けた憶良の気骨が、聖武天皇を育てたのでしょう。

その気骨よ、
いやさかに―


それでは、項を変えて「瞿麦」について調べてみましょう。









【子安武人 「遥かなる河」】






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