父の変遷と水墨画
2017/09/13(Wed) Category : 家族小景
父の惚け防止のためにカルチャースクールに行くことを検討し始めたのが昨年の暮れ。何しろ、冬場になって畑仕事がなくなり、週1回のデイサービスと唯一の生きがいである週1回のダンス以外はボーッと寝ていることが多くなって、物忘れも加速しており気になっていた。
何がいいのかを考える際に振り返ったのが父の過去。やはり、子供時代に熱中したものがいいだろう。
●瀬織津姫の里-----------------------------------------------
父の実家は山中の盆地の中の端っこ(郡境)、しかも山を回り込んだ向こうにあったので、まさに山と小川と田畑以外は何もないポツンと離れた山間の一軒家だった。
車も通れない林道が家の前を通っており、林道の片側が山、片側は数メートル低くなったところに小川の流れる田んぼが広がり、その幅80mくらいでまた向かいの山にぶつかった。
子供の頃、薄暗い黄昏時、その向かいの山の木が刈られている中腹を、全身真っ黒のゴリラのような影が歩いて森の中に入っていったのを覚えている。一体あれはなんだったのか?
現在はそこら辺全てが埋め立てられて大きな駐車場になっているが、この20数件の地域の中では田畑が最も大きかったらしい。ものの本によれば、尾は「小さな開発地」で、「中」はその中心を示すらしい。
林道の山側―その中腹に高塚地蔵尊があり、
林道の谷側には、小滝が小川に流れ落ちていた。
家の前には大きなタブノキがあり、それに藤が見事に絡みついて、春になると山全体が藤のように見える素晴らしい景観だったそうだ。
滝にタブノキに藤に小川・・・なんと、
まさに瀬織津姫の里だ。
上には見事な乳銀杏があり、行基がそこに地蔵尊を開いたのも頷ける。詳しくはいずれ書こうと思うが、ここが紛れもなく瀬織津姫の地の一つであった証拠が沢山ある(父もそういうことは知らないけれど)。
今この景観が残っていれば、地蔵尊に登る参道の上がり口辺りに見事な藤があったわけで、素晴らしく人を惹きつけただろうと思うが、バスを通すために道路を拡張するに際して切り倒された。
●自給自足、健脚の山人--------------------------------------------------
大自然に囲まれた生活。
塩を買う以外は全て自給。味噌も醤油も何から何まで作ったらしい。
肉魚はあまり食べず、山菜、木の実、果物がメイン。
雪深い冬は漬物や乾し飯と薪の囲炉裏。
現金収入はリヤカーで野菜を売って得た。
野菜を牛に乗せて峠の向こうにある小屋に運び入れ、翌朝そこに備えてあるリヤカーに乗せて麓の町に売りに行ったそうだ。そういう家が5,6軒あったという。
戦時中、映画館ではニュース映画をやっていた。そのニュース映画のため、上記の父の実家の様子を撮りに来たそうだ。戦時高揚の折、こんな山奥の村でも頑張っているという題材にしたのだろうか。
「貴船より 奥に人住む 葛の花」の歌を思い出した。
山菜を売る玖珠人―
吉野葛を売っていた国栖人(くずびと)の生活を彷彿とさせる光景だ。
縄文末裔は、日本各地でこのようなほぼ自給自足の生活をしていたのではないだろうか。
山を歩き、菜食中心だったせいか、父はすこぶるタフだった。
人間って、本来100歳くらいまでは普通に生きられるんじゃないかと思う。
(とはいえ、父は父で無意識の別の理由から健康を損ねたがっているが・・・)
かつては私もマラソンが強かったし、娘も陸上短距離で関東大会に行ったこともあるので、脚力は遺伝かも。息子が生まれたときも太ももが太くてビックリ。でも、父も私もそうだったが、息子も幼児期の間に細くなったので、いわば系統発生したのかもしれない。
実家に残っている従兄弟(といっても70代半ば)は太ももが太かった。私は、太ももとふくらはぎの大きさがアンバランスだと言われたことがあるが、ご先祖はあのように逞しい太ももだったんだろう。
●木工--------------------------------------------------
話がそれたが、何もない地故、雪駄や下駄、弓や橇(そり)など遊び道具も全て手作り。父も木工が大好きだったようだ。実用的娯楽である。40代くらいの頃に掘った仏の顔の丸彫りも残っている。
というわけで、まず選んだのが木工。これも仏像彫刻と鎌倉彫などあったが、父に聞くと仏像彫刻がいいというのでそちらにした。
ただ、家でも彫刻をやるにしても、日中の居眠りが増している父にとって月2回程度では間が持たないのでもう一つほしい。
同居を始めた当初のことを思い出した。近隣の公民館でやっているいろんなサークルを紹介したが、結局社交ダンスだけだった。今回は、カルチャーセンターバージョンでサークルを探したわけだが、やはり「乗り気ではない」壁にぶつかった。
そもそも一方的に自分のことは話したがるが、“会話”は成立しにくい人なので、人に向かうのではなくモノに向かったり、技能を学ぶ系の方が合っている。ところが、DIYで何でも自分でできると思っているので、強いて挙げれば絵くらいか・・・。
●水墨画--------------------------------------------------
絵はいいかもしれない。というのも、10年ほど前だったか、母に実家の果樹畑を描いてもらったことがあった。そこは米軍の爆撃でなくなったが、母にとっては幼き日の幻の桃源郷だ。絵というほどでもないつたないものだったが、それでも、それを数年間自室のタンスに貼って眺めているくらい、その絵は母の心を支えていた。
相談者の方にもよく絵を描いてもらうが、そこにうまい下手はなく、本当によく“現れている”のだ。心を表さない父に、せめて絵で見せて欲しいと思った。
それに、父の実家の桃源郷のごとき見事な藤の写真がないのだ。それを描いて欲しいというと少し気持ちが動いたようだ。とはいえ、いろいろと色を使うのは父にとっては敷居が高い。ハガキ絵のように小さくなってもそれは同じ。
そこでヒットしたのが水墨画。形にとらわれない自由さが気に入った。やっていくうちに、しっかりした自然観察眼が必要なんだとわかってくるが、当初はルールなきがごとき自由さに惹かれた。それに、墨の匂いが好きだし。
というわけで、仏像彫刻は父のみ。そして、水墨画は父とともに私と妻も一緒に行くことにした(妻も絵についてはちょっとあるのでね~、誘ったわけです ^^;)。
●社交ダンスの終了-----------------------------------------------
そして、1月下旬にそれぞれ見学に行き、2月から月2回(父は4回)のカルチャーセンター通いが始まった。これでなんとか意欲がわいてくればいいがなぁと思いつつ様子見。
4月になったある日、父が夜行っているダンスサークルから話が来た。よくよく話を伺うと、当初はこの歳でダンスをするということで喜んで迎えられたそうだが、最近入ってくるメンバーからは、父の足下がふらつくので一緒に踊るのが怖いという声が出ているそう。
なるほど・・・確かにそうかも。最近の父の足取りは3年前に比べると明らかにおぼつかない。それは加齢によるものというよりも、父の人生脚本の影響が大きい。自分の意志で歩いていれば、体は全然元気なはずだ。
サークル側としては直接本人に断りにくかったようで、私にアプローチしてきたわけだ。そこで、夜出歩くことが危ないこと(実際、後ろから来る車には気づかないほど難聴の度合いは酷くなっている)、公民館からも安全のために控えて欲しい旨要請が来ていることにして父に伝えると、夜道を歩く危険性を自らも感じていた父も納得。社交ダンスの退会を父から申し入れてもらうことにして、4月を最後にダンス人生に幕を下ろした。
ダンスは70歳頃から始めたと思うが、それは、それまでしぶとく続けていた仕事に取って代わるもので、同居するまでは3つのダンスサークルを掛け持ち(一つは主催)して週5、6日通っていたから、生活の全て、人生そのものと言ってよかっただろう。
社交ダンスの挑戦には終わりがないので、自分から逃げ続けるにはうってつけと無意識が飛びついたのだろう。自分と向き合う時間など全く欲しくないので仕事三昧、さらに定年後も10年間仕事三昧、その次の10年はダンス三昧で、80歳を超えるここまで逃げ延びてきたわけだ。
ダンスがなくなるということはその逃げ場がなくなるということだから、本人も納得していたとはいえダンスがなくなったことの衝撃は大きく、ガタガタッときた。
●「家」と「車」-----------------------------------------------
父にとって、これまでの大きな“喪失”は、同居に際して家と車を手放したことだった。
家は、壊して修理するというマッチポンプ(自作自演)を永遠に続けられるし、あえて補修せずに気になることを置き続けたり、あらゆるモノをため込んだり・・・「自分から逃げるための子宮」として必須だった。
「移動する鉄の子宮」である車も父の大好きな“居場所”の一つで、遠距離出張など全て車でするくらいで、時間つぶしにはもってこいだったから、年を取って運転が危なくなっても手放そうとしなかった。
けれど、老老介護が限界という現実に直面し、その流れで二世帯同居という経緯があったからこそ、家も車も手放すことができた。また、自分だけの部屋があり、交通の便がいい上に近場に畑を借りることもでき、社交ダンスも続けることができたので、お陰様で新たな環境への適応がスムーズに行った。
●デイサービス-----------------------------------------------
けれど社交ダンスは、本人が「頭も使うし体も使うベストな趣味」と思っていただけにガクッときた。一方で、仏像彫刻と水墨画の方はまだ腰掛け程度の感じで、ダンスがなくなった衝撃はこの2つでカバーしきれなかった。
食欲が減り、体調も崩し、どこか虚ろになった感じで一挙に衰え、粗相も増えた。イメージとしては、分水嶺にあった岩がバランスを崩して転がり始めた感じ。転がり始めそうな段階で止めなければ、転がっていけば行くほど加速が付いて止められなくなる。
今でさえ、同年齢の人に比べて「物忘れ」の度合いが強いといわれているので、このままだと一挙に「惚け逃げ」に突入しかねない・・・。
丁度その頃、父の介護認定の面談があった。
面談員の方もご自身の親族も含めていろんな方を見ておられるようで、父の様子に危機を感じたのだろう。「要介護1」の認定が下りた。
そして、父も母と同じく週3回デイサービスに通うようになった。「救われた!」―そう感じた。
その週3回がカルチャースクールと重なったので必然的に彫刻、水墨画ともに終了することになったが、お陰様で、同居した当初は全く行きたがらなかったデイサービスに今は喜んで行っていて、今度はデイサービスが生きがいになっている。デイサービスを始め、地域行政の助けは本当にありがたい。
●リア充に逃げ込んだ人生-------------------------------------------
ざっと振り返ってつくづく思うことは、自然に恵まれていても、その後仕事や趣味他に恵まれていても、人の人生に多大なる影響を与えているのは親との関係だということ―特に、母親。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、父も母も、自分の「脳内母親」のいわば“命令”に従ったまま、とことん忠実に生きている。子供とは、かくも、母親なのだ。
一見、仕事も存分にやり、資格も好きなだけ取り、趣味も存分に熱中し、しかも現実的にそれぞれで成果を上げて評価されているわけだから、もしその途中で亡くなっていれば、リア充のまっただ中で逝ったといううらやましい人生に見えたかもしれない。
けれど、その全てが脚本人生であり、自分自身からの逃走だった。それだけ打ち込み動き回ったのも、ただひとえに自分(感情)から逃げ脚本にしがみついて生きるためだったから、皮肉に聞こえるかもしれないが、リア充をやればやるほど本人は空洞になっていった。
もちろん本人はそんなこと思っていないが、何を言わずとも、現在の姿が自ずと物語っている。
●健康寿命--------------------------------------------------------
自律していない人間が傍にいるという状態は本当に重い。
「脳内母親の手足」であることを貫くために意志を持たず(=人間にならず)、動くためには“指示”や理屈(両親それぞれの脳内母親への言い訳)をこちらが用意しなければ身動きしない。
そのように自分を封じているから透明人間となり、自己存在への飢え(ストローク飢餓)が深いので、あちこちに自分の痕跡を残すし、自分の存在を確認するために無意識にあらゆるゲームを仕掛けてくる。
日々ネタをまき散らしており、それに少しでも引っかかれば不毛な時間を過ごすことになる。というのも、クネクネした理屈が続くだけでこちらの言葉は全く入っていかず、相対している時間は父が自己存在を確認しているだけだからだ。
あたかも、内圧が高くて、口を開けば外に気は放出されるが、外気は絶対に中には入っていかない―そういう「構造」を持っているかのようだ。
その、自分まるごと全てを他人に預けている姿が「存在不安からの逃走+脚本人生」の末期の姿なのだが、それは結果として「親が子供にベッタリ依存」することになる。
いろんな思いを抱えて「心のコップ」をパンパンにさせながら、「子に依存しているつもりのない親」を介護している方もいらっしゃるだろう。それは子を疲弊させるだけではなく、孫にも深刻な影響を与えていく。それは、社会的費用となって社会に負担を強いていくことになる。
一方の親も惚け逃げすることになれば、その一人を管理するために多大な人的資源や社会的費用を費やすことになる。
自律しないままに生き通す人が増えるということは、社会的負担が幾何級数的に増えるということなのだ。
だからといって、家族だけで何とかしようとするとどこかに破綻が来る。最悪悲惨な事件になる。昔はあった地域での支え合いも難しい。特に両親のような転勤族は地縁を持たないので行き場がない。
だから、行政やデイサービスの取り組みはありがたかった。
なんとか、痴呆に陥らぬ晩年に向かえればと思う。
●水墨画処女作-------------------------------------------
さて、そうこうしている内にカルチャーセンターの夏の展示会のシーズン。2月に水墨画を初めてほぼ半年。処女作を7月末に仕上げて提出。
私も妻も、先生が描いてくれた見本の模写だ。
それが下記。


額に「津田沼カルチャーセンター」と映り込んでいるが、実はそこで第1,3の水曜日に習っている(ので、この日はカウンセリングはお休みさせていただきます m--m)。
受講者の作品は、津田沼パルコにあるカルチャーセンターの中に2ヶ月ほど展示されるようです。
なお、先生は松井陽水先生。明るく気さくな方。
昼ドラの「やすらぎの郷」の八千草薫の部屋に、先生の水墨画がかかっていました。
下記作品は、とても水墨画とは思えない先生の作品。凄いよね~。

上記作品は下記本よりコピーです。


父は水墨画教室でも勝手にやっていた。そして、里の風景イメージを描いた。その一点は残った。
将来も水墨画を描いていたら、「父も描いたなぁ」と思うのだろう。
何がいいのかを考える際に振り返ったのが父の過去。やはり、子供時代に熱中したものがいいだろう。
●瀬織津姫の里-----------------------------------------------
父の実家は山中の盆地の中の端っこ(郡境)、しかも山を回り込んだ向こうにあったので、まさに山と小川と田畑以外は何もないポツンと離れた山間の一軒家だった。
車も通れない林道が家の前を通っており、林道の片側が山、片側は数メートル低くなったところに小川の流れる田んぼが広がり、その幅80mくらいでまた向かいの山にぶつかった。
子供の頃、薄暗い黄昏時、その向かいの山の木が刈られている中腹を、全身真っ黒のゴリラのような影が歩いて森の中に入っていったのを覚えている。一体あれはなんだったのか?
現在はそこら辺全てが埋め立てられて大きな駐車場になっているが、この20数件の地域の中では田畑が最も大きかったらしい。ものの本によれば、尾は「小さな開発地」で、「中」はその中心を示すらしい。
林道の山側―その中腹に高塚地蔵尊があり、
林道の谷側には、小滝が小川に流れ落ちていた。
家の前には大きなタブノキがあり、それに藤が見事に絡みついて、春になると山全体が藤のように見える素晴らしい景観だったそうだ。
滝にタブノキに藤に小川・・・なんと、
まさに瀬織津姫の里だ。
上には見事な乳銀杏があり、行基がそこに地蔵尊を開いたのも頷ける。詳しくはいずれ書こうと思うが、ここが紛れもなく瀬織津姫の地の一つであった証拠が沢山ある(父もそういうことは知らないけれど)。
今この景観が残っていれば、地蔵尊に登る参道の上がり口辺りに見事な藤があったわけで、素晴らしく人を惹きつけただろうと思うが、バスを通すために道路を拡張するに際して切り倒された。
●自給自足、健脚の山人--------------------------------------------------
大自然に囲まれた生活。
塩を買う以外は全て自給。味噌も醤油も何から何まで作ったらしい。
肉魚はあまり食べず、山菜、木の実、果物がメイン。
雪深い冬は漬物や乾し飯と薪の囲炉裏。
現金収入はリヤカーで野菜を売って得た。
野菜を牛に乗せて峠の向こうにある小屋に運び入れ、翌朝そこに備えてあるリヤカーに乗せて麓の町に売りに行ったそうだ。そういう家が5,6軒あったという。
戦時中、映画館ではニュース映画をやっていた。そのニュース映画のため、上記の父の実家の様子を撮りに来たそうだ。戦時高揚の折、こんな山奥の村でも頑張っているという題材にしたのだろうか。
「貴船より 奥に人住む 葛の花」の歌を思い出した。
山菜を売る玖珠人―
吉野葛を売っていた国栖人(くずびと)の生活を彷彿とさせる光景だ。
縄文末裔は、日本各地でこのようなほぼ自給自足の生活をしていたのではないだろうか。
山を歩き、菜食中心だったせいか、父はすこぶるタフだった。
人間って、本来100歳くらいまでは普通に生きられるんじゃないかと思う。
(とはいえ、父は父で無意識の別の理由から健康を損ねたがっているが・・・)
かつては私もマラソンが強かったし、娘も陸上短距離で関東大会に行ったこともあるので、脚力は遺伝かも。息子が生まれたときも太ももが太くてビックリ。でも、父も私もそうだったが、息子も幼児期の間に細くなったので、いわば系統発生したのかもしれない。
実家に残っている従兄弟(といっても70代半ば)は太ももが太かった。私は、太ももとふくらはぎの大きさがアンバランスだと言われたことがあるが、ご先祖はあのように逞しい太ももだったんだろう。
●木工--------------------------------------------------
話がそれたが、何もない地故、雪駄や下駄、弓や橇(そり)など遊び道具も全て手作り。父も木工が大好きだったようだ。実用的娯楽である。40代くらいの頃に掘った仏の顔の丸彫りも残っている。
というわけで、まず選んだのが木工。これも仏像彫刻と鎌倉彫などあったが、父に聞くと仏像彫刻がいいというのでそちらにした。
ただ、家でも彫刻をやるにしても、日中の居眠りが増している父にとって月2回程度では間が持たないのでもう一つほしい。
同居を始めた当初のことを思い出した。近隣の公民館でやっているいろんなサークルを紹介したが、結局社交ダンスだけだった。今回は、カルチャーセンターバージョンでサークルを探したわけだが、やはり「乗り気ではない」壁にぶつかった。
そもそも一方的に自分のことは話したがるが、“会話”は成立しにくい人なので、人に向かうのではなくモノに向かったり、技能を学ぶ系の方が合っている。ところが、DIYで何でも自分でできると思っているので、強いて挙げれば絵くらいか・・・。
●水墨画--------------------------------------------------
絵はいいかもしれない。というのも、10年ほど前だったか、母に実家の果樹畑を描いてもらったことがあった。そこは米軍の爆撃でなくなったが、母にとっては幼き日の幻の桃源郷だ。絵というほどでもないつたないものだったが、それでも、それを数年間自室のタンスに貼って眺めているくらい、その絵は母の心を支えていた。
相談者の方にもよく絵を描いてもらうが、そこにうまい下手はなく、本当によく“現れている”のだ。心を表さない父に、せめて絵で見せて欲しいと思った。
それに、父の実家の桃源郷のごとき見事な藤の写真がないのだ。それを描いて欲しいというと少し気持ちが動いたようだ。とはいえ、いろいろと色を使うのは父にとっては敷居が高い。ハガキ絵のように小さくなってもそれは同じ。
そこでヒットしたのが水墨画。形にとらわれない自由さが気に入った。やっていくうちに、しっかりした自然観察眼が必要なんだとわかってくるが、当初はルールなきがごとき自由さに惹かれた。それに、墨の匂いが好きだし。
というわけで、仏像彫刻は父のみ。そして、水墨画は父とともに私と妻も一緒に行くことにした(妻も絵についてはちょっとあるのでね~、誘ったわけです ^^;)。
●社交ダンスの終了-----------------------------------------------
そして、1月下旬にそれぞれ見学に行き、2月から月2回(父は4回)のカルチャーセンター通いが始まった。これでなんとか意欲がわいてくればいいがなぁと思いつつ様子見。
4月になったある日、父が夜行っているダンスサークルから話が来た。よくよく話を伺うと、当初はこの歳でダンスをするということで喜んで迎えられたそうだが、最近入ってくるメンバーからは、父の足下がふらつくので一緒に踊るのが怖いという声が出ているそう。
なるほど・・・確かにそうかも。最近の父の足取りは3年前に比べると明らかにおぼつかない。それは加齢によるものというよりも、父の人生脚本の影響が大きい。自分の意志で歩いていれば、体は全然元気なはずだ。
サークル側としては直接本人に断りにくかったようで、私にアプローチしてきたわけだ。そこで、夜出歩くことが危ないこと(実際、後ろから来る車には気づかないほど難聴の度合いは酷くなっている)、公民館からも安全のために控えて欲しい旨要請が来ていることにして父に伝えると、夜道を歩く危険性を自らも感じていた父も納得。社交ダンスの退会を父から申し入れてもらうことにして、4月を最後にダンス人生に幕を下ろした。
ダンスは70歳頃から始めたと思うが、それは、それまでしぶとく続けていた仕事に取って代わるもので、同居するまでは3つのダンスサークルを掛け持ち(一つは主催)して週5、6日通っていたから、生活の全て、人生そのものと言ってよかっただろう。
社交ダンスの挑戦には終わりがないので、自分から逃げ続けるにはうってつけと無意識が飛びついたのだろう。自分と向き合う時間など全く欲しくないので仕事三昧、さらに定年後も10年間仕事三昧、その次の10年はダンス三昧で、80歳を超えるここまで逃げ延びてきたわけだ。
ダンスがなくなるということはその逃げ場がなくなるということだから、本人も納得していたとはいえダンスがなくなったことの衝撃は大きく、ガタガタッときた。
●「家」と「車」-----------------------------------------------
父にとって、これまでの大きな“喪失”は、同居に際して家と車を手放したことだった。
家は、壊して修理するというマッチポンプ(自作自演)を永遠に続けられるし、あえて補修せずに気になることを置き続けたり、あらゆるモノをため込んだり・・・「自分から逃げるための子宮」として必須だった。
「移動する鉄の子宮」である車も父の大好きな“居場所”の一つで、遠距離出張など全て車でするくらいで、時間つぶしにはもってこいだったから、年を取って運転が危なくなっても手放そうとしなかった。
けれど、老老介護が限界という現実に直面し、その流れで二世帯同居という経緯があったからこそ、家も車も手放すことができた。また、自分だけの部屋があり、交通の便がいい上に近場に畑を借りることもでき、社交ダンスも続けることができたので、お陰様で新たな環境への適応がスムーズに行った。
●デイサービス-----------------------------------------------
けれど社交ダンスは、本人が「頭も使うし体も使うベストな趣味」と思っていただけにガクッときた。一方で、仏像彫刻と水墨画の方はまだ腰掛け程度の感じで、ダンスがなくなった衝撃はこの2つでカバーしきれなかった。
食欲が減り、体調も崩し、どこか虚ろになった感じで一挙に衰え、粗相も増えた。イメージとしては、分水嶺にあった岩がバランスを崩して転がり始めた感じ。転がり始めそうな段階で止めなければ、転がっていけば行くほど加速が付いて止められなくなる。
今でさえ、同年齢の人に比べて「物忘れ」の度合いが強いといわれているので、このままだと一挙に「惚け逃げ」に突入しかねない・・・。
丁度その頃、父の介護認定の面談があった。
面談員の方もご自身の親族も含めていろんな方を見ておられるようで、父の様子に危機を感じたのだろう。「要介護1」の認定が下りた。
そして、父も母と同じく週3回デイサービスに通うようになった。「救われた!」―そう感じた。
その週3回がカルチャースクールと重なったので必然的に彫刻、水墨画ともに終了することになったが、お陰様で、同居した当初は全く行きたがらなかったデイサービスに今は喜んで行っていて、今度はデイサービスが生きがいになっている。デイサービスを始め、地域行政の助けは本当にありがたい。
●リア充に逃げ込んだ人生-------------------------------------------
ざっと振り返ってつくづく思うことは、自然に恵まれていても、その後仕事や趣味他に恵まれていても、人の人生に多大なる影響を与えているのは親との関係だということ―特に、母親。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、父も母も、自分の「脳内母親」のいわば“命令”に従ったまま、とことん忠実に生きている。子供とは、かくも、母親なのだ。
一見、仕事も存分にやり、資格も好きなだけ取り、趣味も存分に熱中し、しかも現実的にそれぞれで成果を上げて評価されているわけだから、もしその途中で亡くなっていれば、リア充のまっただ中で逝ったといううらやましい人生に見えたかもしれない。
けれど、その全てが脚本人生であり、自分自身からの逃走だった。それだけ打ち込み動き回ったのも、ただひとえに自分(感情)から逃げ脚本にしがみついて生きるためだったから、皮肉に聞こえるかもしれないが、リア充をやればやるほど本人は空洞になっていった。
もちろん本人はそんなこと思っていないが、何を言わずとも、現在の姿が自ずと物語っている。
●健康寿命--------------------------------------------------------
自律していない人間が傍にいるという状態は本当に重い。
「脳内母親の手足」であることを貫くために意志を持たず(=人間にならず)、動くためには“指示”や理屈(両親それぞれの脳内母親への言い訳)をこちらが用意しなければ身動きしない。
そのように自分を封じているから透明人間となり、自己存在への飢え(ストローク飢餓)が深いので、あちこちに自分の痕跡を残すし、自分の存在を確認するために無意識にあらゆるゲームを仕掛けてくる。
日々ネタをまき散らしており、それに少しでも引っかかれば不毛な時間を過ごすことになる。というのも、クネクネした理屈が続くだけでこちらの言葉は全く入っていかず、相対している時間は父が自己存在を確認しているだけだからだ。
あたかも、内圧が高くて、口を開けば外に気は放出されるが、外気は絶対に中には入っていかない―そういう「構造」を持っているかのようだ。
その、自分まるごと全てを他人に預けている姿が「存在不安からの逃走+脚本人生」の末期の姿なのだが、それは結果として「親が子供にベッタリ依存」することになる。
いろんな思いを抱えて「心のコップ」をパンパンにさせながら、「子に依存しているつもりのない親」を介護している方もいらっしゃるだろう。それは子を疲弊させるだけではなく、孫にも深刻な影響を与えていく。それは、社会的費用となって社会に負担を強いていくことになる。
一方の親も惚け逃げすることになれば、その一人を管理するために多大な人的資源や社会的費用を費やすことになる。
自律しないままに生き通す人が増えるということは、社会的負担が幾何級数的に増えるということなのだ。
だからといって、家族だけで何とかしようとするとどこかに破綻が来る。最悪悲惨な事件になる。昔はあった地域での支え合いも難しい。特に両親のような転勤族は地縁を持たないので行き場がない。
だから、行政やデイサービスの取り組みはありがたかった。
なんとか、痴呆に陥らぬ晩年に向かえればと思う。
●水墨画処女作-------------------------------------------
さて、そうこうしている内にカルチャーセンターの夏の展示会のシーズン。2月に水墨画を初めてほぼ半年。処女作を7月末に仕上げて提出。
私も妻も、先生が描いてくれた見本の模写だ。
それが下記。


額に「津田沼カルチャーセンター」と映り込んでいるが、実はそこで第1,3の水曜日に習っている(ので、この日はカウンセリングはお休みさせていただきます m--m)。
受講者の作品は、津田沼パルコにあるカルチャーセンターの中に2ヶ月ほど展示されるようです。
なお、先生は松井陽水先生。明るく気さくな方。
昼ドラの「やすらぎの郷」の八千草薫の部屋に、先生の水墨画がかかっていました。
下記作品は、とても水墨画とは思えない先生の作品。凄いよね~。

上記作品は下記本よりコピーです。
父は水墨画教室でも勝手にやっていた。そして、里の風景イメージを描いた。その一点は残った。
将来も水墨画を描いていたら、「父も描いたなぁ」と思うのだろう。
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