「長いお別れ」~父のこと 3.山は自分を封じたまま自分の存在を確認できる場所
2019/07/09(Tue) Category : 二世帯同居・介護
【「長いお別れ」~父のこと】
★山を歩き続けた理由1----------------------------------------
父が山を歩ける仕事に就きたかったのは、山歩きが好きだったからではないことは、色々と訊いてみて分かりました。とはいえ、本人にも判然とした答えがあるわけではありません。
なぜ、山を歩き続けたのか…推測してみましょう。
赤ちゃんを負ぶって山越えするとき、その赤ちゃんは自分にしがみついてくるわけで、ぬくもりや手応えと共に自分の存在感を強烈に感じたでしょう。それに、赤ちゃんの泣き声に淋しくなって自分も泣きながら歩いたという、無感情な父にしては珍しく気持ちを吐き出した思い出もあります。
表層意識では、早く赤ちゃんを下ろして友人と遊びたいという思いだったようですが、赤ちゃんが離乳後もひたすら山を歩き回ったのは、次のような無意識があっただろうと思われます。
・山中を歩くことが代理母(長兄の嫁)へ向かうことだったこと
・歩いている間、ぬくもりと共感を感じたこと
歩いているときに一人ではなく、その先には待ってくれている人が居る―赤ちゃんと一緒に泣きながら歩いていても、その時心の底では幸せだったのかもしれません。山中を歩いているときは、無意識にその記憶とともに歩いているのかもしれません。
★山は自分の存在確認ができる場所-------------------------------
でも、山に惹かれる最大の要因は、上記の記憶だけではなく、山中に一人居ると否応無しに感じる「感覚」があるからでしょう。
「海獣の子供」の漫画家・五十嵐大介さんも、次のように話されていました。
『森の中は独特な世界で、すごく緊張感もあるし、生命の密度も高い』『360度に注意を払いながら歩かないといけない』
360度に注意を払う―これですね。360度に注意を払うということは、その中心に注意を払っている自分という存在があるという逆証になります。つまり、山にいるだけで自動的に自分の存在確認ができるということです。
少し詳しくいえば、山も海も同じく全方位に感覚レーダーを研ぎ澄ませて何らかの気配を嗅ぎ取ろうとし、結果些細なこともキャッチして敏感に反応する自分が現出し、その自分の反応で自分の存在を確認できます。
イルカと同じですね。イルカも常に自らクリック音を出し、それが物体から跳ね返ってくるのを利用して物体と自分との距離を測っています。言い換えれば、跳ね返って自分に当たったときに「ここに自分がいる」と分かるわけですが、緊張を迫られる環境の中にあるとこれが自動的に起こるわけです。
私も八雲の夜に、ゴウゴウたる吹雪にまみれる人気の無い通りで感じたのですが、大自然に呑み込まれそうになる畏れのようなもの。人などちっぽけな存在に過ぎないと思えるほどの圧倒的な自然の前だからこそ、逆に痛切に感じる「天上天下唯我独“存”」とも言うべき「実存」の感覚。
と難しく書いたけれど、危険な環境の中に身を置くと命を奪われそうな凄みを感じるので、命そのもがさらけ出されたかのような不安感とともに、「自分の存在」を自分自身で強く実感できるのです。
それに緊張状態にあれば気持ちが出てくることはありません。つまり、気持ち(自分の本体)を封じたまま自分の存在確認ができる、というミラクルな場所が山だったわけです。
<続く>
★山を歩き続けた理由1----------------------------------------
父が山を歩ける仕事に就きたかったのは、山歩きが好きだったからではないことは、色々と訊いてみて分かりました。とはいえ、本人にも判然とした答えがあるわけではありません。
なぜ、山を歩き続けたのか…推測してみましょう。
赤ちゃんを負ぶって山越えするとき、その赤ちゃんは自分にしがみついてくるわけで、ぬくもりや手応えと共に自分の存在感を強烈に感じたでしょう。それに、赤ちゃんの泣き声に淋しくなって自分も泣きながら歩いたという、無感情な父にしては珍しく気持ちを吐き出した思い出もあります。
表層意識では、早く赤ちゃんを下ろして友人と遊びたいという思いだったようですが、赤ちゃんが離乳後もひたすら山を歩き回ったのは、次のような無意識があっただろうと思われます。
・山中を歩くことが代理母(長兄の嫁)へ向かうことだったこと
・歩いている間、ぬくもりと共感を感じたこと
歩いているときに一人ではなく、その先には待ってくれている人が居る―赤ちゃんと一緒に泣きながら歩いていても、その時心の底では幸せだったのかもしれません。山中を歩いているときは、無意識にその記憶とともに歩いているのかもしれません。
★山は自分の存在確認ができる場所-------------------------------
でも、山に惹かれる最大の要因は、上記の記憶だけではなく、山中に一人居ると否応無しに感じる「感覚」があるからでしょう。
「海獣の子供」の漫画家・五十嵐大介さんも、次のように話されていました。
『森の中は独特な世界で、すごく緊張感もあるし、生命の密度も高い』『360度に注意を払いながら歩かないといけない』
360度に注意を払う―これですね。360度に注意を払うということは、その中心に注意を払っている自分という存在があるという逆証になります。つまり、山にいるだけで自動的に自分の存在確認ができるということです。
少し詳しくいえば、山も海も同じく全方位に感覚レーダーを研ぎ澄ませて何らかの気配を嗅ぎ取ろうとし、結果些細なこともキャッチして敏感に反応する自分が現出し、その自分の反応で自分の存在を確認できます。
イルカと同じですね。イルカも常に自らクリック音を出し、それが物体から跳ね返ってくるのを利用して物体と自分との距離を測っています。言い換えれば、跳ね返って自分に当たったときに「ここに自分がいる」と分かるわけですが、緊張を迫られる環境の中にあるとこれが自動的に起こるわけです。
私も八雲の夜に、ゴウゴウたる吹雪にまみれる人気の無い通りで感じたのですが、大自然に呑み込まれそうになる畏れのようなもの。人などちっぽけな存在に過ぎないと思えるほどの圧倒的な自然の前だからこそ、逆に痛切に感じる「天上天下唯我独“存”」とも言うべき「実存」の感覚。
と難しく書いたけれど、危険な環境の中に身を置くと命を奪われそうな凄みを感じるので、命そのもがさらけ出されたかのような不安感とともに、「自分の存在」を自分自身で強く実感できるのです。
それに緊張状態にあれば気持ちが出てくることはありません。つまり、気持ち(自分の本体)を封じたまま自分の存在確認ができる、というミラクルな場所が山だったわけです。
<続く>