「長いお別れ」~父のこと 6.「帰る」場所を探し続ける理由
2019/07/12(Fri) Category : 二世帯同居・介護
【「長いお別れ」~父のこと】
★その瞬間をストロークを得るために生きている--------------------
さて、医師によれば、普通の人の海馬(記憶領域)を壺にたとえるとすると、父のは皿だそうで、記憶がたまる間もなくこぼれ落ちていくそうです。なるほど、30分前のことも覚えていません。
なので、積み上げも蓄積も無い中で、常にあるのは自分の存在を確認したいという飢え(ストローク飢餓)です。
自分自身で利用するのが五感―痛み、痒み、暑すぎ寒すぎ、臭い等、それらが発生するようなことをしでかします。
あちこちを傷つけたり、壊したり、汚したり、という痕跡残しもあります。そこを見ることは、そこに傷を付けた自分がいるという存在証明になっているわけです(無意識ですが)。
外に出ると、そこは視線(ストローク)を得る“食卓”のようなものですから、目を引くことであれば何でも仕掛けようとしますので、気が抜けません。
また、世界を用意してくれる脳が活躍し始めます。夢や白昼夢を見せ、またそれを現実と見なすわけですね。虚構を生き続けている人は元々現実無視なので、虚実の堺が無くなっていくだけではなく、むしろ虚構の方を信じていくようになるのも当然なのでしょう。
幸い、徐々に介護度が上がって、デイに通うことが週1→週2→週3→週
5と増えていったことは、父にとっても私たちにとっても、とても救いになっています。デイの方々のご尽力には感謝のみです。
★帰る場所(=自分自身)がない「ろくろ首」-----------------------
デイは3カ所ほど行っていますが、どこへ行っても「そろそろ帰る」ということがありました。それは妹宅に泊まったときでも、また我が家にいるときでもそうです。
「帰る」衝動に突き動かされているわけですが、帰る場所を探しているのは一体誰でしょう。
気持ちを疎外しているということは、気持ちの居場所が自分の中にないわけですから、気持ち(自分の本体)は“居場所”を探し続けるわけです。
けれど当人は、首から下の肉体が切り離された仏頭にシンボライズされる生き方を貫いていますから、「脳」(思考)という存在はそこにあっても、「心」(感情)という存在はありません。
ふと、ろくろ首を思い出しました。首が抜け出している間に体を隠すと、帰る場所が無くなって困るというあれですね。
脚本人生を生きるということは、まさに肉体を失って頭だけでフワフワと生きている「ろくろ首」ようなものですね。
昨日の記事で、父の歩き方が『頭が先行し、足は意志なく引きずられるようについて行っています。首から下に存在感が無く、中空を首が飛んでいる感じです。』と書きましたが、まさにろくろ首です。
(六道もそうですが、最近は、妖怪もまた脚本人生の諸相を現しているなぁと思うことがあります。いずれ研究できれば、日本人の知恵の深さが見えてくるかも)
老人が徘徊するのも「帰る」場所を探しているのかもしれません。心の居場所は自分自身なのですが、自分がその心を追い出していて、かつそのことにさえ気づいていないので、心の帰る場所がありません。
帰る場所は自分自身なのです。
★「どうぞゆきなさい」------------------------------------
親の言動に怒ったり嘆いたりしている間は、まだ期待がある証拠。「気持ちがある人間」と見なしたい証拠です。
色んなことが頭で分かってきても、尚、怒りや嘆きが出てきますが、フェーズが変わっています。この時は、それらの感情を強く感じることによって、まだ諦めていないぞと自己洗脳するための「演出感情」に変わっています。
親のことを諦められないのは、他愛のない会話をしたい、共感を味わいたいというささやかな望みを捨てられないからですが、自分の気持ちを自分で実感すればスッキリできることを体感してくると、自分のことを分かって欲しいという欲求は消えます。
けれど、親のチャイルドを救いたいというエゴに代わって、「諦めないちゃん」がさらに仕掛け続けます。
こうしてやり合って分かることは、両親それぞれが決意して生きていると言うこと。
最後は、痴呆症となった親は、その瞬間だけを生きるようになります。その仕掛けには乗らず、かつ親が人の形を保ったまま晩年を過ごしていくことができれば…その具体的な対応とそういう祈りにも似た思いになっていきます。
ハナミズキの歌詞を思い出します。
僕から気持ちは重すぎて
一緒に渡るには
きっと船が沈んじゃう
連鎖は1代で断てるものではありません。
沈みゆく親を、目を背けずに見ること。
その実相を見ることで、自らが作った虚構から抜け出すことができます。
そういう意味で、親はあなたが虚構から抜け出すために、壁になり続けている。だから、都合のよい脳の解釈や演出感情を交えず、親を見ましょう。それでこそ、親が救われます。
気持ちの交流はできませんでしたが、(まぁそうなると、今の私は居ないわけですが)と書いた通り、この両親でなければ、そしてこの経緯でなければ今の私は居ませんでした。全ての人生イベントの背景に親の影があります。
そして、両親の出自、転勤した土地地域が私を縄文の歴史にも導きました。
今も、脚本人生の末路はどうなるのかを赤裸々に見せてくれています。
親の魂は、
「どうぞゆきなさい」
と言っています。
親が子にできることは「邪魔をしないこと」。
子が親にできることは「親の在り方を認め、そこから学ぶこと」。
子が親にできる恩返しは「親から卒業して生き直すこと」。
今はそういう心境です。
★その瞬間をストロークを得るために生きている--------------------
さて、医師によれば、普通の人の海馬(記憶領域)を壺にたとえるとすると、父のは皿だそうで、記憶がたまる間もなくこぼれ落ちていくそうです。なるほど、30分前のことも覚えていません。
なので、積み上げも蓄積も無い中で、常にあるのは自分の存在を確認したいという飢え(ストローク飢餓)です。
自分自身で利用するのが五感―痛み、痒み、暑すぎ寒すぎ、臭い等、それらが発生するようなことをしでかします。
あちこちを傷つけたり、壊したり、汚したり、という痕跡残しもあります。そこを見ることは、そこに傷を付けた自分がいるという存在証明になっているわけです(無意識ですが)。
外に出ると、そこは視線(ストローク)を得る“食卓”のようなものですから、目を引くことであれば何でも仕掛けようとしますので、気が抜けません。
また、世界を用意してくれる脳が活躍し始めます。夢や白昼夢を見せ、またそれを現実と見なすわけですね。虚構を生き続けている人は元々現実無視なので、虚実の堺が無くなっていくだけではなく、むしろ虚構の方を信じていくようになるのも当然なのでしょう。
幸い、徐々に介護度が上がって、デイに通うことが週1→週2→週3→週
5と増えていったことは、父にとっても私たちにとっても、とても救いになっています。デイの方々のご尽力には感謝のみです。
★帰る場所(=自分自身)がない「ろくろ首」-----------------------
デイは3カ所ほど行っていますが、どこへ行っても「そろそろ帰る」ということがありました。それは妹宅に泊まったときでも、また我が家にいるときでもそうです。
「帰る」衝動に突き動かされているわけですが、帰る場所を探しているのは一体誰でしょう。
気持ちを疎外しているということは、気持ちの居場所が自分の中にないわけですから、気持ち(自分の本体)は“居場所”を探し続けるわけです。
けれど当人は、首から下の肉体が切り離された仏頭にシンボライズされる生き方を貫いていますから、「脳」(思考)という存在はそこにあっても、「心」(感情)という存在はありません。
ふと、ろくろ首を思い出しました。首が抜け出している間に体を隠すと、帰る場所が無くなって困るというあれですね。
脚本人生を生きるということは、まさに肉体を失って頭だけでフワフワと生きている「ろくろ首」ようなものですね。
昨日の記事で、父の歩き方が『頭が先行し、足は意志なく引きずられるようについて行っています。首から下に存在感が無く、中空を首が飛んでいる感じです。』と書きましたが、まさにろくろ首です。
(六道もそうですが、最近は、妖怪もまた脚本人生の諸相を現しているなぁと思うことがあります。いずれ研究できれば、日本人の知恵の深さが見えてくるかも)
老人が徘徊するのも「帰る」場所を探しているのかもしれません。心の居場所は自分自身なのですが、自分がその心を追い出していて、かつそのことにさえ気づいていないので、心の帰る場所がありません。
帰る場所は自分自身なのです。
★「どうぞゆきなさい」------------------------------------
親の言動に怒ったり嘆いたりしている間は、まだ期待がある証拠。「気持ちがある人間」と見なしたい証拠です。
色んなことが頭で分かってきても、尚、怒りや嘆きが出てきますが、フェーズが変わっています。この時は、それらの感情を強く感じることによって、まだ諦めていないぞと自己洗脳するための「演出感情」に変わっています。
親のことを諦められないのは、他愛のない会話をしたい、共感を味わいたいというささやかな望みを捨てられないからですが、自分の気持ちを自分で実感すればスッキリできることを体感してくると、自分のことを分かって欲しいという欲求は消えます。
けれど、親のチャイルドを救いたいというエゴに代わって、「諦めないちゃん」がさらに仕掛け続けます。
こうしてやり合って分かることは、両親それぞれが決意して生きていると言うこと。
最後は、痴呆症となった親は、その瞬間だけを生きるようになります。その仕掛けには乗らず、かつ親が人の形を保ったまま晩年を過ごしていくことができれば…その具体的な対応とそういう祈りにも似た思いになっていきます。
ハナミズキの歌詞を思い出します。
僕から気持ちは重すぎて
一緒に渡るには
きっと船が沈んじゃう
連鎖は1代で断てるものではありません。
沈みゆく親を、目を背けずに見ること。
その実相を見ることで、自らが作った虚構から抜け出すことができます。
そういう意味で、親はあなたが虚構から抜け出すために、壁になり続けている。だから、都合のよい脳の解釈や演出感情を交えず、親を見ましょう。それでこそ、親が救われます。
気持ちの交流はできませんでしたが、(まぁそうなると、今の私は居ないわけですが)と書いた通り、この両親でなければ、そしてこの経緯でなければ今の私は居ませんでした。全ての人生イベントの背景に親の影があります。
そして、両親の出自、転勤した土地地域が私を縄文の歴史にも導きました。
今も、脚本人生の末路はどうなるのかを赤裸々に見せてくれています。
親の魂は、
「どうぞゆきなさい」
と言っています。
親が子にできることは「邪魔をしないこと」。
子が親にできることは「親の在り方を認め、そこから学ぶこと」。
子が親にできる恩返しは「親から卒業して生き直すこと」。
今はそういう心境です。
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