親の期待に自分の人生を売ることなかれ
2006/11/08(Wed) Category : 自殺・自傷
今朝のスーパーモーニングで岐阜でいじめ自殺にいたった「ありささん」の特集があり、その中で父親へのインタビューがあった。
印象に残ったのは、次の2つの言葉である。
「自分は人格者を目指していたし、ありさには自分を越える人格者に30代でなってほしいと思っていた」
「私たち夫婦は、娘からサインをもらえなかった。今悩みを持っている子は、親は最後の砦だから、親に話しをしてほしい」
以前、「頑張ってはいけない」で書いた「それにとどまらないもの」の答えが見えた気がした。
ありささんの遺書が訴えていたことが、いじめに対する憎しみではなく、『がんばることに疲れました』であることに対する答えである。
先ずは、『「鋳型成形」が子を追いつめる』を読んでみてほしい。
『「鋳型成形」が子を追いつめる』で書いたのは、「自分で自分の進路を決めることのできる小6」になれるよう望んでいるお母さんが、無自覚的に子どもを追いつめていた事例。子どもは、幼稚園に上がって急に粗暴になったのではなく、生まれて以来の見えない「期待圧力」の持続ストレスが粗暴さを生み出した。
このように、親の頭の中に漠然とある「かくあるべし」という脳内イメージが、子どもを追いつめていることは、至る所で見てきた。やっかいなのは、親がそれを当たり前のように持っているため、無自覚に子どもに押しつけることである。相手が無自覚なので、子どもは抵抗のしようがない。
まして、子どもは親の期待を敏感に感じ、そして親の期待に添おうと努力する。親に愛されたいからだ。ありささんは、勉強もスポーツも、さらにリーダーシップも…極めて優秀な子どもだった。それは、親がそう望んだからだ。子どもは親の思うとおりに育つのである。
しかし、それが期待であれ評価であれ、人の思いに自分を合わせて生きることがどれほど疲れることか、やったことのある人なら誰でもわかるだろう。親の喜ぶ顔を見るのは自分も嬉しい。しかし、その裏で実は疲れ果てているのである。
私は、「小6で自分の道を決める」という言葉にも違和感を覚えたが、「30代で人格者」という言葉にも違和感を覚えた。自分で自分の道を決めることのできる大人がほとんどいないように、人格者になれる大人もほとんどいないのではないだろうか。
大人は、自分ができないことを平気で子どもに要求する。
「人格者」という縛りはきつかっただろうと思う。
私は、「人格者たれ」というプレッシャーが、もしかするとダブルバインドになって、ありささんをがんじがらめにしていたのではないかとも思えるのである。
「人格者たれ」とは、言い換えるとこうなる。
「人に対して人格者たらざるを禁ず」(第一次禁止令)
-つまり、リーダーシップや弱きがいれば助ける、という行動の暗黙の強制につながる。
「自分に対して人格者たらざるを禁ず(異議申し立てを禁ず)」(第二次禁止令)
-つまり、愚痴や言い訳、泣き言など、「でも、私だって…」という申し立てを禁ずるのである。
逃げ場がない。
人間弱みもあれば、不得手もある。愚痴を言ったり嘆いたりしたいことだってあるだろう。そして、それを言うことが許されているのが、本来は「癒し」と「回復」の機能を持つ家庭だ。しかし、家庭でそれが許されていなければ、あるいは、家庭でも親の期待に添うように頑張っているとすれば…疲れた自分を回復する場所がない。
『がんばることに疲れました。それでは、さようなら』
ありささんは、ほんとうに疲れたのだと思う。
今、同じように疲れ果てている子供たち。
死を選ばないでほしい。
なぜなら、休めば回復できるから。
学校へは行かなくてもいいし、疲れたら休んでいい。
そして、ありささんのお父さんが言っているように、親は最後の砦。
無自覚に押しつけてはいても、あなたが本気で疲れたと訴えれば、必ず聴いてくれる。
もし、親がダメなら「チャイルドライン」というのもある。電話して気持ちを聴いてもらうといい。
印象に残ったのは、次の2つの言葉である。
「自分は人格者を目指していたし、ありさには自分を越える人格者に30代でなってほしいと思っていた」
「私たち夫婦は、娘からサインをもらえなかった。今悩みを持っている子は、親は最後の砦だから、親に話しをしてほしい」
以前、「頑張ってはいけない」で書いた「それにとどまらないもの」の答えが見えた気がした。
ありささんの遺書が訴えていたことが、いじめに対する憎しみではなく、『がんばることに疲れました』であることに対する答えである。
先ずは、『「鋳型成形」が子を追いつめる』を読んでみてほしい。
『「鋳型成形」が子を追いつめる』で書いたのは、「自分で自分の進路を決めることのできる小6」になれるよう望んでいるお母さんが、無自覚的に子どもを追いつめていた事例。子どもは、幼稚園に上がって急に粗暴になったのではなく、生まれて以来の見えない「期待圧力」の持続ストレスが粗暴さを生み出した。
このように、親の頭の中に漠然とある「かくあるべし」という脳内イメージが、子どもを追いつめていることは、至る所で見てきた。やっかいなのは、親がそれを当たり前のように持っているため、無自覚に子どもに押しつけることである。相手が無自覚なので、子どもは抵抗のしようがない。
まして、子どもは親の期待を敏感に感じ、そして親の期待に添おうと努力する。親に愛されたいからだ。ありささんは、勉強もスポーツも、さらにリーダーシップも…極めて優秀な子どもだった。それは、親がそう望んだからだ。子どもは親の思うとおりに育つのである。
しかし、それが期待であれ評価であれ、人の思いに自分を合わせて生きることがどれほど疲れることか、やったことのある人なら誰でもわかるだろう。親の喜ぶ顔を見るのは自分も嬉しい。しかし、その裏で実は疲れ果てているのである。
私は、「小6で自分の道を決める」という言葉にも違和感を覚えたが、「30代で人格者」という言葉にも違和感を覚えた。自分で自分の道を決めることのできる大人がほとんどいないように、人格者になれる大人もほとんどいないのではないだろうか。
大人は、自分ができないことを平気で子どもに要求する。
「人格者」という縛りはきつかっただろうと思う。
私は、「人格者たれ」というプレッシャーが、もしかするとダブルバインドになって、ありささんをがんじがらめにしていたのではないかとも思えるのである。
「人格者たれ」とは、言い換えるとこうなる。
「人に対して人格者たらざるを禁ず」(第一次禁止令)
-つまり、リーダーシップや弱きがいれば助ける、という行動の暗黙の強制につながる。
「自分に対して人格者たらざるを禁ず(異議申し立てを禁ず)」(第二次禁止令)
-つまり、愚痴や言い訳、泣き言など、「でも、私だって…」という申し立てを禁ずるのである。
逃げ場がない。
人間弱みもあれば、不得手もある。愚痴を言ったり嘆いたりしたいことだってあるだろう。そして、それを言うことが許されているのが、本来は「癒し」と「回復」の機能を持つ家庭だ。しかし、家庭でそれが許されていなければ、あるいは、家庭でも親の期待に添うように頑張っているとすれば…疲れた自分を回復する場所がない。
『がんばることに疲れました。それでは、さようなら』
ありささんは、ほんとうに疲れたのだと思う。
今、同じように疲れ果てている子供たち。
死を選ばないでほしい。
なぜなら、休めば回復できるから。
学校へは行かなくてもいいし、疲れたら休んでいい。
そして、ありささんのお父さんが言っているように、親は最後の砦。
無自覚に押しつけてはいても、あなたが本気で疲れたと訴えれば、必ず聴いてくれる。
もし、親がダメなら「チャイルドライン」というのもある。電話して気持ちを聴いてもらうといい。