5-田口ランディさんの兄
■「労働」と「所有」----------------------------
少し、寄り道をしたい。
以前、『労働と所有って…… 』と題する田口ランディさんのコラムを読んだことがある。
それによると、彼女の兄は一切の労働を拒否し、ただ横になったまま餓死したそうである。
『兄が生きていたころ、私や両親が兄に言い続けた言葉。それは「働きなさい」だった。特に父と母は口を開けば「働け、働け、働け」と兄に言い続けた。』
そして、働かず家にいる兄に彼女はこう言った。
『お兄ちゃん、この世の中は働かないと生きていけないんだよ。労働して、お金を稼がないと何もできない。あらゆる場所は誰かの所有物で、家でも土地でも自分で獲得するためには、まずお金がないとダメなんだよ。こうしていても水道代もガス代もかかるんだよ。住民税もかかるんだよ。とにかく働かなかったら……日本では生きていけないんだよ』
自分でそう言った瞬間に次のように思っている。
『そう言って、自分の言葉にびっくりしたのだ。そうだなあ……と、改めて思ったのだ。そして、苦しいなあ……と思った。なんだかすごく息苦しいなあ……って。貧乏な家に生まれるってことは、一生涯働き続けてお金の心配をするってことなのかって 』
そして、兄が亡くなった後、次のように思っている。
『私は、「働いてお金を稼ぐって楽しい」と思って二十代、三十代を生きてきた。「おいしい生活」の時代だったから。だけど、いまは、なんだか怖くなる。生きるために、労働と所有以外の、別の根拠が欲しい。「おかしいのはオマエらの方だ」という兄の言葉が、忘れられないんだ』
この田口ランディさんの疑問の中に、今の社会の不自然さが現れている。
ケルト人やブッシュマン(サン族)、インディアンやアイヌに「所有」の概念はないだろう。なぜなら、人もまた生態系の一部と考えているからだ。
自然に生かされていると考える彼らは、自然が創ったもの(自然の恵み)に感謝し、人が創ったモノだけに価値を置いてはいない。
自然は循環するものであって誰のものでもない。だから、自然の一部を切り取って「所有」するなどと言うことを考えない。「所有」という概念がないのだ。
かつて米ソが対立できたのは、同じ土俵(価値)に立つことができたからだ。それは「所有」という概念だ。そして、「私有」が優秀か、「共有」が優秀かで争ったわけである。「所有」という概念を持たない民族にとって、それらの争いは空しいものであり、土俵に登ることさえしない。
ソ連が倒れたのは、資本(私有)vs共産(共有)の闘いに勝敗がついたことを意味しているのではない。本質的には「所有」の概念の文明が行き詰まったことを示している。
その時点で、「開発」と「所有」の競争はおしまいにしなければならなかった。なぜなら、その競争は循環を壊し、地球の息の根を止めていくだけだからである。
3日「ブランドバーグ」(テレビ東京)を見たが、世界最古の砂漠ナミブ砂漠に住むヒンバ族は、アフリカ一頑固な民族といわれているらしい。なぜ頑固かというと生活スタイルを変えないから。彼らは、40人ほどの部族ごとに、自然と共生し家族とともに暮らしていた。
なぜ暮らし方を変えないのかという問いに長老は答えた。
自然と共にある生活、家族と共に生きる喜び-これに勝るものはないのだ、と。
そして、砂漠の中に屹立するブランドバーグ(炎の山)には、4500万年前の「グラディエーター」という昆虫が現在も生きていた。
また、岩に残る壁画に描かれた人々の様子は、現在のサン族(ブッシュマン)の姿と変わらなかった。サン族の青年が「ご先祖に親近感を覚える」と言った言葉が私にも実感として伝わると共に、感動した!
彼らは太古の昔から自然と共に変わらぬ生を営んでいるのである。
彼らの狩りは労働ではない。
そして、狩りをしていないときは、大人も子供も男も女も一緒になって遊んでいる。
彼らは労働をせずに生活をしている。
生活できるのは、自然に生かされる範囲の中で自然を利用する知恵を身につけているからだ。
私は、彼らの生き方が「美しい」と思った。
どこぞの国の生き方を伴わない形だけのスローガンなど足元にも及ばない。
田口ランディのお兄さんと話したいと思った。
彼の言葉が、響く。
「おかしいのはオマエらの方だ」
<続く>
拒否→餓死
<家族カウンセリング的に見た日本>■1-ケルトとヤマト ■2-アメリカと日本 ■3-「欠乏欲求」の国アメリカ■4-「自己実現欲求」に近... ...