「死」の捉え方で「生」が変わる
2007/02/06(Tue) Category : 自然が教えてくれた
「死」をどう意識するかで、生き方が変わってくると思います。
小学校3年生前後だったでしょうか。死ぬことが、とても怖かった覚えがあります。その時の「死」のイメージは次のようなものでした。

テレビを見ている。
真っ暗な宇宙を背景に、地球が音もなく自転している。
自分が死ぬ(地球上で死を迎える)。
すると、何やら文字が浮かび上がってくる。
その文字は、やがて画面中央に大写しになり、「おわり」と書いてあるのが分かる。
その「おわり」と書かれた文字の後ろで、
地球は音もなく、ただ静かに自転している ……
当時の幼い私は、自分が死んだ後に、永劫の時間が流れるのを恐怖したのでした。
人生という時間には限りがあり、しかし、自分が死んだ後も「時」は無限に積み重なっていく……それが、怖かったのです。
そのイメージが、私の「死」に対する認識の原点になりました。
言い換えれば、いかに生きるか、という姿勢の原点になりました。
どうせ生きるなら精一杯生きてやれ、幼い私はそう思いました(← ウソ ^^;)。
少なくとも、「やろうと思ったことはやろう。しなかった後悔はしないで生きよう」-そう、思うようになりました。一言で言えば、
「“今”を大事にして生きよう」
ということです。
この生き方が、私の言動の原点にあり、そして、今の私を作っています。
「死」をどう理解し、「生」をどう理解するか。
これは哲学的な問題ではなく、誰もが子供の頃に自分なりに乗り越えなければならない「発達課題」です。人生をスタートさせるに当たって、最初にクリアしなければならない課題だと言ってもよいでしょう。
そして、
抱きしめられることによって「命の大切さ」を実感し、
おんぶされることによって「人への信頼」を実感するように、
「死と生」も実感して自分なりに理解するものなのです。
「命」も「信頼」も「死」も「生」も、教えられて学ぶものではありません。
実感して分かるものなのです。
私は、自分が観念的に捉えた「死」ということを、昆虫や動物と接する中で実感していきました。
明日から、毎週水曜日に『自然が教えてくれた「死生観」』 のシリーズを始めたいと思います(正月に宣言して1ヶ月の遅れですが…^^;)
小学校3年生前後だったでしょうか。死ぬことが、とても怖かった覚えがあります。その時の「死」のイメージは次のようなものでした。

テレビを見ている。
真っ暗な宇宙を背景に、地球が音もなく自転している。
自分が死ぬ(地球上で死を迎える)。
すると、何やら文字が浮かび上がってくる。
その文字は、やがて画面中央に大写しになり、「おわり」と書いてあるのが分かる。
その「おわり」と書かれた文字の後ろで、
地球は音もなく、ただ静かに自転している ……
当時の幼い私は、自分が死んだ後に、永劫の時間が流れるのを恐怖したのでした。
人生という時間には限りがあり、しかし、自分が死んだ後も「時」は無限に積み重なっていく……それが、怖かったのです。
そのイメージが、私の「死」に対する認識の原点になりました。
言い換えれば、いかに生きるか、という姿勢の原点になりました。
どうせ生きるなら精一杯生きてやれ、幼い私はそう思いました(← ウソ ^^;)。
少なくとも、「やろうと思ったことはやろう。しなかった後悔はしないで生きよう」-そう、思うようになりました。一言で言えば、
「“今”を大事にして生きよう」
ということです。
この生き方が、私の言動の原点にあり、そして、今の私を作っています。
「死」をどう理解し、「生」をどう理解するか。
これは哲学的な問題ではなく、誰もが子供の頃に自分なりに乗り越えなければならない「発達課題」です。人生をスタートさせるに当たって、最初にクリアしなければならない課題だと言ってもよいでしょう。
そして、
抱きしめられることによって「命の大切さ」を実感し、
おんぶされることによって「人への信頼」を実感するように、
「死と生」も実感して自分なりに理解するものなのです。
「命」も「信頼」も「死」も「生」も、教えられて学ぶものではありません。
実感して分かるものなのです。
私は、自分が観念的に捉えた「死」ということを、昆虫や動物と接する中で実感していきました。
明日から、毎週水曜日に『自然が教えてくれた「死生観」』 のシリーズを始めたいと思います(正月に宣言して1ヶ月の遅れですが…^^;)