モラハラ被害者に特徴はあるのか
本日は、メディアからの問い合わせなどでよくある質問について書きます。(なお、本記事は2013.01.19に追記修正しております)
■10,モラハラ被害者に特徴はあるのか
ということをよく訊かれるわけですが、その奥には「真面目な人は鬱になりやすい」(←これもまた、まことしやかな嘘ですが・・)という類いのわかりやすいレッテルを期待されているわけです。
そういう意味で言えば、誰でも被害者になり得ます。
つまり、被害者に共通の特徴はないということです。
ただ、ここでいう特徴とは、いわゆる目に見えるキャラクターの部分です。
たとえば、
外交的積極的キャラがハラッサーで
内向的消極的キャラがハラッシーだとすればわかりやすいでしょうか?
けれど、
積極的キャラでも無主体で受皿的にそうしている人もいれば、
消極的キャラでも防御攻撃的に生きている人もいます。
まぁ、こんな例を挙げてもせんないので、人の問題を見るときの基本原則を3つ挙げておきましょう。
1.人は環境の動物(情況の囚人)であること
2.問題は「関係性の問題」であること
3.問題の背景には、本人も気づいていない人生脚本他があること
★1.人は情況の囚人(人は環境の動物)である---------------------------
『ゼロトレランスとは』に書いた有名な「監獄実験」では、普通の善良な大学生達が、もののみごとに「看守」と「囚人」そのものに変わっていきましたね。
なぜ変貌してしまったのか。それは、
片方に絶対権力という「立場」、
片方に閉塞された無力な「環境」を与えたからです。
ただ、それだけのこと…。
そう、“それだけ”のことなのに、その環境(情況)が「心」を変貌させたのです。
スタンフォード大学で行われたこの心理学実験は、「立場」と「環境」が人間を変えることを“証明”しました。「人間は環境の動物(情況の囚人)」なのです。
結婚は、
夫に権力者という「立場」を、
妻に閉塞「環境」を与えます。
そう。実は、「監獄実験」そのものの状況下に人を置くのです。その結果どうなるか。スタンフォード大の「監獄実験」が示しているとおりです。
そして『モラ夫の妻が無力になるストレスの法則』に書きましたが、『積極的な対処行動の芽はつみ取られ、 自分の気持ちをごまかすことでかろうじて精神バランスをとらざるを得なくなり、 自信、自尊心、矜持を奪われ自己効力感(セルフエフィカシー)がなくなり、 外からも孤立し… 這い上がろうともがけば落ちるツマジゴク… そう、穴の底からツマめがけてパッパッと砂つぶてが飛んできます。 もがいてももがいても引きずり込まれる無力感の中で、人生の底へと沈んでいくのです。』
★2.問題は「関係性の問題」である--------------------------------
誰でも持つAC(アダプティッドチャイルド)の部分が、
誰でも持つCP(クリティカルペアレント)の部分をフックする(引き出す)ように、
逆に自分のCPは相手のACをフックします。
人を責めるCPの強い人は受け皿役のACの強い人を求め、
自分を責めるACの強い人は、責め役のCPの強い人を求めます。
このように相互補完的な関係になってしまうと、互いの特徴がどんどん強化されていき、方やCPがますます強い人間となり、方やACがますます強い人間となっていくことがあります。
このように互いに背を押し合って加速し合うまで行かなくとも、互いのデメリットが互いのメリットとなる関係はあります。
たとえば、夫が厳しくて妻が優しい場合。
子をなしたとき、「厳父優母」で一見いいように見えますが、それが本当にそうかどうかは子を見れば分かります。もし、子どもが歪んでしまったとすれば、そこには「厳父―子―優母」の間で「迫害者―犠牲者―救援者」の三角形のドラマが展開されている可能性があります。
なぜそうなるかというと、この夫婦が共依存だったからです。共依存とは、互いを道具にし合う関係。この夫婦の場合、奥さんを見るとわかりやすいですが、夫のデメリット(優しくないこと)が自分のメリットとなっています。夫は夫で奥さんに甘えて、自分は厳しいままでいられるわけです。
このように相手の存在が自分の役割(価値)を強調してくれるので、相手が変わることを望みません。つまり、自分の価値を際立たせるためにその相手を道具にしているわけで、このような夫婦は結婚した時点で成長はストップ―いえ、退化していきます。子は、互いの存在を更に強調するための道具になっているに過ぎません。
この場合、夫の方をわかりやすくハラッサーといえば、奥さんの方はハラッシーハラッサーでしょうか・・・そういう区分も、いらなくなっていきますよね。
<参考>「家族自我像」を描いてみよう の「三角形ドラマ」の家族
★3.問題の背景には、本人も気づいていない人生脚本他があること-----
さて、上記に書いたことも、まだある意味表面的なことです。
なぜなら、そういう状況に自分を追い込むことも、そのような相手を自分の人生の土俵に登場させることも、自分の人生脚本がやってしまうからです。
それが、前項「モラハラを親に理解させることができるか?」で書いたことでした。
結局、「外」の現象はすべて、「自分」を深く知るための鏡に過ぎません。その鏡を通して、目をそらさずに己の姿をしっかりと見つめることです。