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押しつけのパラドックス(1)-ささやかな夢が現実を破壊することがある

2007/03/25(Sun) Category : 自律(自由と責任)への道
「理想」と「現実」との間にはギャップがある。
ギャップがあるから悩み葛藤するのだが、その「理想」が自分が設定したものであれば、ギャップは自分を高めてくれる克服目標となる。

たとえばスポーツ選手。アスリートはイメージトレーニングをして、自分を望ましい姿に近づけていこうとする。つまり、「理想(イメージ)」に自分という「現実」を近づけていこうとする。

しかし、その理想が自分が望んだものではなく押しつけられたものであるとき、押しつけられた理想と現実の自分の間に生まれたギャップの克服は、嫌々取り組まなくてはならない砂をかむような作業となる。


たとえば、親子。子にこうなってほしいという思い(イメージ)が親にある限り、子はその思いに答えようと嫌でも頑張らざるを得ない。
たとえば、夫婦。夫婦とはこういうものだという思い(イメージ)がある限り、相手を縛ろうとするか、バトルを続けるか、どうしようもないとあきらめるか…、いずれにせよ叶わぬ現実と理想の狭間で葛藤し続けることになる。

それがどのような理想(イメージ)であれ、それが押しつけられたものである限り、押しつける方も押しつけられた方も、苦悩の中に身を置くことになるのだ。

それは、何とかコントロールしようという努力とそれに素直になれずに抵抗する拮抗を生み、
やがて、支配と無抵抗不服従、強制介入とレジスタンスあるいは攻撃的防御による泥沼のバトルへと進展していく…。





それでも尚、
夫は言う。「ごく当たり前のことしか要求していないんですがねぇ…」
妻は言う。「私は、ただ家族全員で楽しい団らんがしたかっただけなのよ」
親は言う。「明るく素直で活発な子になってほしいのは、誰でも思うことですよね」

自分が望んでいることは、誰もが望むようなこと。
自分が望んでいることは、大それたことではなくほんのささやかなこと。
自分が望んでいることは、ごく普通の小さな幸せ。

だから、それを「相手」に望むことを「当然」だと思っている。
相手は、それに協力(努力)すべきだと思っている。
それにすら協力(努力)できないとすれば、それは相手がおかしいと思っている。

この、ささやかな「理想」と「現実」のギャップに思い悩み、苦しみ、そして問題が起こっている家庭がいかに多いことか…。





小さなことであれば、押しつけてもいいのか。
ささやかなことであれば、押しつけてもいいのか。

押しつける質の高低(レベル)や、
押しつける量の大小(ボリューム)の問題ではない。

それは、押しつけられる側の立場に立って考えてみるといい。
「押しつけられる」ということ自体が嫌なのだ、ということが分かるだろう。

なぜ、嫌なのか?
それは「理想」を押しつけられることは、「現実」を認めてもらっていないということ。
つまり、「あるがままの自分」を認めてもらっていないということだからだ。



<続く>





押しつけのパラドックス
(1)ささやかな夢が現実を破壊することがある
(2)手放すことで救われる
(3)親の望みと正反対の子供が育つわけ
(4)作られた自分の「性格」に気づこう
(5)本当の自分を発見するために
(6)自分探しでのカウンセラーの選び方




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>夫は言う。「ごく当たり前のことしか要求していないんですがねぇ…」
夫ではなく当時の彼にですが、全く同じ事を言われました。
当たり前のことだったら要求してもいいとか、
今ならてめーふざけんなくらいは言ってるでしょうね。
当時言えたらもっとよかったんですが。
まあもう顔も見たくないので一生言うことはないです。

>それは「理想」を押しつけられることは、「現実」を認めてもらっていないということ。
>つまり、「あるがままの自分」を認めてもらっていないということだからだ。
まさにこれだと、今なら胸を張って言えますね。
全くその通りだと思います。
長年の疑問にようやく終止符が打てそうです。
ありがとうございました。

 

使えない人間の価値とは?

私は寺に生まれ、物心ついた頃には「生まれた事を後悔」して来ました。
親・親戚、その他の周囲が望む些細な期待なら良かったのかも知れません。親戚中が寺で私と弟には、複数寺の後継者に成るべき様に育ちました。
私には理解する事が出来ません。
彼等の考え方も、選民思想的な見方も理解する事が出来ません。 学校も大嫌いで、中学から行かないと決めました。家族に殺される覚悟でした事ですが(実際に死んでも構わない)、何とか彼等の為に『短大』は卒業しました。
今、私はリストカッターで精神科にも長年通って居ますが、やはり私が生きる意味、価値はないと思います。
宗教も嫌いだし、私のせいで専門の勉強をせざるを得なかった、大好きな彼も意味不明な人になってしまいました。家にとっては、彼は必要不可欠な人材でしょうが、私は要らないのです。使えない、面倒を掛けるだけのゴミでしょう。
彼等のワガママに応える力は残っていません。

それでも死んではいけないのか、私には分かりません。

 
    
 
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