押しつけのパラドックス(3)―親の望みと正反対の子供が育つわけ
親が我が子に、「明るく素直で活発な子」を望んでいたとしよう。
その反対は、「暗くひねくれてぼーっとした子」だ。
すると、「明るく素直で活発な子」にしたいがために
親のセンサーは「暗くひねくれてぼーっとした」言動に敏感に反応し、そこを無意識のうちにチェックするようになる。
子供をあるがままに受け止めることが出来れば気にならないことがどうしても気になり、その言動を注意するようになる。
注意する部分は、「暗くひねくれてぼーっとした」言動だ。
「暗くひねくれてぼーっとした」部分に注意を受けると言うことはどういうことだろうか。
「暗くひねくれてぼーっとした」部分に注意を向けさせられる=意識させられると言うことである。前頭葉が日常的に刺激を受け続けると言うことである。
すると、注意を受け続ける子供の方は、「暗くひねくれてぼーっとした」部分を過剰に意識するようになる。そして、自分は「暗くひねくれてぼーっとした」子なんだと思うようになる。
親が望んでいる方向と、全く逆の方向に子供が育ってしまう。
このカラクリが、実はとてもシンプルであることがおわかりだと思う。
さほど注意をすることでもないことに注意する。
注意とは、その言葉通り、「意識を注ぐ」と言うことだ。
相手のエネルギーが自分のその部分に注がれ、介入してくるわけだ。
介入された方は、嫌でもその部分を意識せざるを得ない。
言われなければ素通りしていたことを、日常的に気にするようになる。
それは、「常に意識せよ」というメッセージが親から来ているからである。
意識するということはアンテナが立つということだ。
意識したことに合致する事実をアンテナは拾い始める。
やがて、過剰に注意を受け続ける中で「自分は暗くひねくれてぼーっとした子なんだ」と思うようになる。
いつしか、それを説明する「言葉」に出逢う。
たとえば、「うどの大木」という言葉だ。まるでそれが自分のことを象徴しているように思える。こうして、言葉を得たとき、自分に対する「レッテル貼り」が完成する。
生まれたときの子供は、どのようにも育つ可能性を秘めている。
しかし、親との関係の中で「自分とこの世の関係」が形成され、「自己概念(自分に対する自分の持つイメージ)」が形成され、さらに親の言動がその自己概念を強化していく。
でも、実は、その子は「暗くひねくれてぼーっとした」子なんかではないのだ。
というか、そもそも生まれつきでそういう子などいないのだ。
<続く>
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