特急電車内女性暴行事件(3)-犯罪者が育つメカニズム
2007/04/24(Tue) Category : 社会事件簿
ところで、なぜこのような男ができるのか。
かつて、150人の部門のシステムを隠然と牛耳る天皇のごとき男と闘ったことがある。その男Aは、システムインフラの唯一の責任者(課長)として莫大な予算を握り、上司である部長はシステムに素人であるため、その課長に丸投げしており好き放題にされていた。そして居並ぶ10数名の部長たちは手も足も出ず、猫の首に鈴をつける者は誰もいなかった。
「あきらめの壁をぶち破った人々」(日本経済新聞社)にいろんなタイプの抵抗勢力が出てくる。読まれた方はおわかりの通り、強烈なパワハラを受け精神的に追い詰められたのは岩山だったが、実はもっとも「難題」だったのは、予算と権力を手放そうとしないこの陰の天皇だった。
この男Aとは3年闘い続け、岩山を外に出したのと同様、Aも最終的には出て行くことになる。「あいつを潰してやる」と私のことを言っていたAとの闘いも書きたかったが、そこまで書くとストーリーが複雑になり過ぎ、本も2分冊になるため一切割愛したのである。
さて…
権勢をふるって好き放題のAであったが、実は最初からそうであったわけではないようだ。
最初は、小さな逸脱をする。
それでお咎めなしだと、次にもう少し大きな逸脱をして、上司の出方を見る。
それでお咎めなしだと、上司を完全になめてしまう。
あとは、やりたい放題だ。
このように咎めを受けないことが、逸脱行為を助長させていくのだ。
小心者であればあるほど、権力を握ったときに尊大になっていく。
ヒトラーがいい例だ。
少年Aが酒鬼薔薇となって暴走していく初期も同様な課程をたどった。
『そして、Aが淳君を殴った翌月、Aは万引きをします。その万引きが見つかり親と無言で対峙したとき、Aは親を試しました。
私のこれまでの経験からすると、人は最初から大胆な行動ができるわけではありません。最初はちょっと手を出して当たりを見ます。その時点で、命にかかわるようなことであればガツンとわからせなければなりません。最初が肝心なのです。
が、そこでお咎めなしだともう少し手を出します。そして、再び相手の出方を伺うのです。このときは既に、相手が与しやすいかどうかを判断しています。ここが社会規範としての親の出番なのです。
ところが、母親は最悪の行動をしました。
Aが認めようとしないからといって親が品物を返しに行き、お金を払ってけりをつけてしまったのです。親はAと対決せず、言って聞かせるという自分のためのアリバイ作りをしただけでした。この時点で、Aは母親をなめました。
彼は、「懲役十三年」で、こう書いています。
『良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。
しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた』
『破滅させられそうになった敵』は、恐らく母親なのでしょう。かつて、『まかいの大ま王』だった母親も、今や『とるに足りぬちっぽけな存在』であることがわかったのです。』
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
つまり、「最初が肝心」なのだ。
たかが、ではすまされない。
本当に相手のためを思うのであれば、人間の尊厳と気迫を持って、ダメなものはダメと教えることが大切なのである。
この電車内レイプ男も、とある情報によると地元田舎町でもわいせつ行為を繰り返していたようだ。女子高生の後をつけ、家に入るところを狙って押し入り、家人が居ると逃げ、いなければわいせつ行為をしたという。ということは、その男の素行を知る地域の人間はたくさんいただろうし、親も知り得たであろう。
しかし、親からお咎めなしで、地域も沈黙していれば、この男は親をなめ、地域社会をなめただろう。そして、行為は大胆になっていく。警察に捕まっても留置されるだけ。大したことはないと、経験も積んでいく。やがて、日本という社会自体をなめるようになる。
電車内で平然と暴行に及んだということは、この男が日本という国を完全になめきっていることを現している。
なめられたあなたは、怒りが湧かないか?
事件が起こるたびに犯人が断罪されて終わりになる。
しかし、赤ん坊は犯人として生まれてくるわけではない。
そこには、育ったプロセスがある。
そのプロセスには、人が関わっている。
少年Aが母親との関係の中でその独自の世界観を育んだように、その男は、親をはじめとする身近な関係の中で社会をなめていった。
親と地域は、人を人として育てる器であることを忘れてはいけない。
そして、間違ったことを見たら、きちんと叱らなければ子供は分からない。
些細なこと-その最初が肝心なのだ。
かつて、150人の部門のシステムを隠然と牛耳る天皇のごとき男と闘ったことがある。その男Aは、システムインフラの唯一の責任者(課長)として莫大な予算を握り、上司である部長はシステムに素人であるため、その課長に丸投げしており好き放題にされていた。そして居並ぶ10数名の部長たちは手も足も出ず、猫の首に鈴をつける者は誰もいなかった。
「あきらめの壁をぶち破った人々」(日本経済新聞社)にいろんなタイプの抵抗勢力が出てくる。読まれた方はおわかりの通り、強烈なパワハラを受け精神的に追い詰められたのは岩山だったが、実はもっとも「難題」だったのは、予算と権力を手放そうとしないこの陰の天皇だった。
この男Aとは3年闘い続け、岩山を外に出したのと同様、Aも最終的には出て行くことになる。「あいつを潰してやる」と私のことを言っていたAとの闘いも書きたかったが、そこまで書くとストーリーが複雑になり過ぎ、本も2分冊になるため一切割愛したのである。
さて…
権勢をふるって好き放題のAであったが、実は最初からそうであったわけではないようだ。
最初は、小さな逸脱をする。
それでお咎めなしだと、次にもう少し大きな逸脱をして、上司の出方を見る。
それでお咎めなしだと、上司を完全になめてしまう。
あとは、やりたい放題だ。
このように咎めを受けないことが、逸脱行為を助長させていくのだ。
小心者であればあるほど、権力を握ったときに尊大になっていく。
ヒトラーがいい例だ。
少年Aが酒鬼薔薇となって暴走していく初期も同様な課程をたどった。
『そして、Aが淳君を殴った翌月、Aは万引きをします。その万引きが見つかり親と無言で対峙したとき、Aは親を試しました。
私のこれまでの経験からすると、人は最初から大胆な行動ができるわけではありません。最初はちょっと手を出して当たりを見ます。その時点で、命にかかわるようなことであればガツンとわからせなければなりません。最初が肝心なのです。
が、そこでお咎めなしだともう少し手を出します。そして、再び相手の出方を伺うのです。このときは既に、相手が与しやすいかどうかを判断しています。ここが社会規範としての親の出番なのです。
ところが、母親は最悪の行動をしました。
Aが認めようとしないからといって親が品物を返しに行き、お金を払ってけりをつけてしまったのです。親はAと対決せず、言って聞かせるという自分のためのアリバイ作りをしただけでした。この時点で、Aは母親をなめました。
彼は、「懲役十三年」で、こう書いています。
『良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。
しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた』
『破滅させられそうになった敵』は、恐らく母親なのでしょう。かつて、『まかいの大ま王』だった母親も、今や『とるに足りぬちっぽけな存在』であることがわかったのです。』
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
つまり、「最初が肝心」なのだ。
たかが、ではすまされない。
本当に相手のためを思うのであれば、人間の尊厳と気迫を持って、ダメなものはダメと教えることが大切なのである。
この電車内レイプ男も、とある情報によると地元田舎町でもわいせつ行為を繰り返していたようだ。女子高生の後をつけ、家に入るところを狙って押し入り、家人が居ると逃げ、いなければわいせつ行為をしたという。ということは、その男の素行を知る地域の人間はたくさんいただろうし、親も知り得たであろう。
しかし、親からお咎めなしで、地域も沈黙していれば、この男は親をなめ、地域社会をなめただろう。そして、行為は大胆になっていく。警察に捕まっても留置されるだけ。大したことはないと、経験も積んでいく。やがて、日本という社会自体をなめるようになる。
電車内で平然と暴行に及んだということは、この男が日本という国を完全になめきっていることを現している。
なめられたあなたは、怒りが湧かないか?
事件が起こるたびに犯人が断罪されて終わりになる。
しかし、赤ん坊は犯人として生まれてくるわけではない。
そこには、育ったプロセスがある。
そのプロセスには、人が関わっている。
少年Aが母親との関係の中でその独自の世界観を育んだように、その男は、親をはじめとする身近な関係の中で社会をなめていった。
親と地域は、人を人として育てる器であることを忘れてはいけない。
そして、間違ったことを見たら、きちんと叱らなければ子供は分からない。
些細なこと-その最初が肝心なのだ。