「笑顔の国」から「怒りの国」へ
2007/06/04(Mon) Category : 世相・社会
雑誌「Newton」(2007.07)にモースの「日本その日その日」を参考にした記事が掲載されていた。そこにモースコレクションから転載された写真が載っていた。
「明治時代の子どもたち」という写真だ。

私は、講演帰りの列車の中で、この子どもたちの屈託のない笑顔に見入ってしまっていた。
みんな心から笑っている。
どの子も、とてもいい笑顔だ。
しっかりした顔をしている。
後ろに立つ大人も笑っている…。
あぁ、この写真の時代にワープしたい。
どんなにか、心豊かに暮らせるだろう…。
実は、私は昔の写真を見るのが大好きだ。
ゆとりのある空と大地。
大木のある風景。
木造の家々。
窮屈な縛り(禁止令)も、急かされること(ドライバー)もない
気持ちのテンポとともに、ゆっくりと時が流れている
みんなが幸せだから、自分も幸せだ
それを実感できるコミュニティ
ナントカ主義(←好きな言葉を入れてください)がどんなに頑張っても望めないものが、そこにはある。
モースは書いている。
『自分の国で人道の名に於いて、道徳的教訓の重荷になつている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持つているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あつさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持つている特質である」。(明治10年(1877)6月下旬)
『世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰を見たことがない」。(明治10年10月上旬東京)
思いやりの民族。
朝から晩までニコニコと幸福である民族。
体罰のない民族。
モースは確かにその時、世界でもまれに見るユートピアの国にいた―
それから、たったの130年後。
私は、「怒り」の国にいる。
列島全土に怒りが充満している国-全国を歩く私は、それを肌で感じる。
もはや「笑顔の国」は、微塵もない。
細かく言わずとも、自分たちが選んだトップを見ればよい。
「きちんと」「しっかりと」「誠実に」「まじめに」……
目に光なく、自分の言葉でものを言えず、はたいても一般論しか出てこない
一点を見つめて話すその様子は、まるでロボットのようだ
そして…民族の心の象徴である天皇家-雅子様は心の病だ。
怒りもろとも感情を抑圧している父親とうつ病の母親。
その姿を象徴しているように思える…。
130年前より豊かなはずなのに、人間の生存権さえ奪われつつあるこの国。
人を道具扱いするハラスメントが横行し、笑顔を失ったこの国。
もう一度、写真を見てほしい。
130年前のこの子たちと、今の子どもたちと
一体どちらが幸せなのか…
今の日本は、「中央」からは変わり得ない。
子どもたちに笑顔を取り戻すことが出来るのは、「地域」しかない。
「美しい」形はいらない。
「心からの笑顔」がほしい。
地域の行政マンよ、意志を持って立ち上がれ。
「明治時代の子どもたち」という写真だ。

私は、講演帰りの列車の中で、この子どもたちの屈託のない笑顔に見入ってしまっていた。
みんな心から笑っている。
どの子も、とてもいい笑顔だ。
しっかりした顔をしている。
後ろに立つ大人も笑っている…。
あぁ、この写真の時代にワープしたい。
どんなにか、心豊かに暮らせるだろう…。
実は、私は昔の写真を見るのが大好きだ。
ゆとりのある空と大地。
大木のある風景。
木造の家々。
窮屈な縛り(禁止令)も、急かされること(ドライバー)もない
気持ちのテンポとともに、ゆっくりと時が流れている
みんなが幸せだから、自分も幸せだ
それを実感できるコミュニティ
ナントカ主義(←好きな言葉を入れてください)がどんなに頑張っても望めないものが、そこにはある。
モースは書いている。
『自分の国で人道の名に於いて、道徳的教訓の重荷になつている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持つているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あつさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持つている特質である」。(明治10年(1877)6月下旬)
『世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰を見たことがない」。(明治10年10月上旬東京)
思いやりの民族。
朝から晩までニコニコと幸福である民族。
体罰のない民族。
モースは確かにその時、世界でもまれに見るユートピアの国にいた―
それから、たったの130年後。
私は、「怒り」の国にいる。
列島全土に怒りが充満している国-全国を歩く私は、それを肌で感じる。
もはや「笑顔の国」は、微塵もない。
細かく言わずとも、自分たちが選んだトップを見ればよい。
「きちんと」「しっかりと」「誠実に」「まじめに」……
目に光なく、自分の言葉でものを言えず、はたいても一般論しか出てこない
一点を見つめて話すその様子は、まるでロボットのようだ
そして…民族の心の象徴である天皇家-雅子様は心の病だ。
怒りもろとも感情を抑圧している父親とうつ病の母親。
その姿を象徴しているように思える…。
130年前より豊かなはずなのに、人間の生存権さえ奪われつつあるこの国。
人を道具扱いするハラスメントが横行し、笑顔を失ったこの国。
もう一度、写真を見てほしい。
130年前のこの子たちと、今の子どもたちと
一体どちらが幸せなのか…
今の日本は、「中央」からは変わり得ない。
子どもたちに笑顔を取り戻すことが出来るのは、「地域」しかない。
「美しい」形はいらない。
「心からの笑顔」がほしい。
地域の行政マンよ、意志を持って立ち上がれ。