先生を育てる社会
2007/06/10(Sun) Category : 学校・教育・いじめ
英文科出のお嬢様は、まさか自分が小学校の先生になるとは思わなかった。
第一、子どもが好きではない。
その上、校舎も子どもたちも汚い-自分とは別世界。
しかし、人手不足で引っ張られ、無我夢中で取り組んだ。
教員免許がないのだから、悩んでいる暇はなかった。
ひたむきな姿を子どもたちは見守った。
「先生、字を書いてみて。教えてあげる」
英語は得意だったが、実は漢字の書き順は苦手だった。
「先生、野球やろう!」
男の子は手を引っ張った。
打ったらどちらに走るのかさえ知らない。
しかし、楽しかった!
こうして、子どもたちは自分たちの得意分野で先生を育ててくれた。
<私は、こんなに子どもが好きだったんだ>
いつの間に感自分の中に芽生えていた感情に、自分で驚いていた。
土方仕事をする母親もいた。
近くの現場で仕事をしているとき、昼休みに我が子の姿を見に来ていた。
給食費の300円を一度に払えず、毎週100円づつ持ってくる母親もいた。
先生に迷惑がかかるかも知れないからと、家庭の事情を話してくれる母親もいた。
どの母親も、若輩者の自分を「先生」として接してくれた。
テストは、子どもの成績評価ではなく自分の教え方の評価だった。
バツをつける度に、その子に対して申し訳なく思った。
だから、できなかった子どもたちを集めて補習授業をした。
クラスに一人知恵遅れの子がいた。
ある母親が、授業進度が遅れるからその子を外せ、と主張した。
同じクラスに校長先生の子どももいた。
校長先生の奥さんは、一人の母親として、その子がいることによって学べることがあることを主張した。
その後、校長先生が授業に顔を出すようになった。
そして、その子の隣に座って個別に指導してくれた。
その子も無事、友達と一緒に小学校を卒業した。
教員免許も持たず
子ども嫌いだったその人は、
子どもたちから育てられ、
母親たちから育てられ、
校長先生から育てられ、
そして、
子どもたちに慕われる立派な先生になった。
まだ勤務評定などなく、
人を育てる余裕のあった時代の
昭和30年代頃の
日本という国のお話しである。
私は、
そういう国に行ってみたい。
第一、子どもが好きではない。
その上、校舎も子どもたちも汚い-自分とは別世界。
しかし、人手不足で引っ張られ、無我夢中で取り組んだ。
教員免許がないのだから、悩んでいる暇はなかった。
ひたむきな姿を子どもたちは見守った。
「先生、字を書いてみて。教えてあげる」
英語は得意だったが、実は漢字の書き順は苦手だった。
「先生、野球やろう!」
男の子は手を引っ張った。
打ったらどちらに走るのかさえ知らない。
しかし、楽しかった!
こうして、子どもたちは自分たちの得意分野で先生を育ててくれた。
<私は、こんなに子どもが好きだったんだ>
いつの間に感自分の中に芽生えていた感情に、自分で驚いていた。
土方仕事をする母親もいた。
近くの現場で仕事をしているとき、昼休みに我が子の姿を見に来ていた。
給食費の300円を一度に払えず、毎週100円づつ持ってくる母親もいた。
先生に迷惑がかかるかも知れないからと、家庭の事情を話してくれる母親もいた。
どの母親も、若輩者の自分を「先生」として接してくれた。
テストは、子どもの成績評価ではなく自分の教え方の評価だった。
バツをつける度に、その子に対して申し訳なく思った。
だから、できなかった子どもたちを集めて補習授業をした。
クラスに一人知恵遅れの子がいた。
ある母親が、授業進度が遅れるからその子を外せ、と主張した。
同じクラスに校長先生の子どももいた。
校長先生の奥さんは、一人の母親として、その子がいることによって学べることがあることを主張した。
その後、校長先生が授業に顔を出すようになった。
そして、その子の隣に座って個別に指導してくれた。
その子も無事、友達と一緒に小学校を卒業した。
教員免許も持たず
子ども嫌いだったその人は、
子どもたちから育てられ、
母親たちから育てられ、
校長先生から育てられ、
そして、
子どもたちに慕われる立派な先生になった。
まだ勤務評定などなく、
人を育てる余裕のあった時代の
昭和30年代頃の
日本という国のお話しである。
私は、
そういう国に行ってみたい。