「光市母子殺害事件」(1)-「謝る」意味と謝らない親
2007/06/29(Fri) Category : 少年犯罪・家族事件簿
光市母子殺害事件差し戻し裁判は、とても嫌な思いをしている。
それは当事者を道具にしたこの法制度の争いが、人々の健全な自我の発達を妨げる恐れがあるからだ。どのような悪影響があるのかを家族心理学の観点から見てみよう。
基本的なことから見ていきたい。
そこをおろそかにした議論は、たとえどのような理屈があっても人の社会に害をなすからだ。以下のように記していく。
★「光市母子殺害事件」目次
1,「謝る」ということ
2,謝らない親
3,被害者が謝罪を要求する意味
4,謝罪しない姿から加害者が学ぶこと
5,加害者を成長させない構造
6,「人」を「道具」にしてはいけない
■1,「謝る」ということ
【さて、命にかかわることと同時に生きる上で教えなくてはならないもう一つのこと。それは、“謝る”ということです。なぜなら、誰も傷つけずに生きていくことはできないからです。また、傷つけたことに気づいたときが成長のチャンスでもあるからです。
気づくということは、傷つけた相手の気持ちを共感的に受け止めることができたということです。自分を離れて相手の気持ちを受け止めることができたときに人間の幅が広がります。
そして、謝るという行為は、相手の気持ちを自分が受け止めたことを相手に伝える行為なのです。傷つけられた相手は謝罪の姿を見て、持って行き場のなかった自分の気持を相手が分け持ってくれたことがわかるでしょう。そして、謝罪の言葉を聞きその姿を見ることによって、もう二度と同じ過ちは繰り返さないという決意も感じるでしょう。
ここに、傷つけ傷つけられた関係は解消され、人間関係を紡ぎなおすことができます。
謝るとは、終わらせる行為ではなく、スタートさせる行為なのです】
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
■2,謝らない親
【Aが女生徒の靴を燃やした上に、その子の鞄を男子トイレに隠すという問題を起こしたときのことです。関係者が集まって話したときに、Aの母親は『被害にあわれたお嬢さんのお母さんの前で、「女の子は口が達者やから」と発言』しています。『あの場でそんなことを軽々しく口にしてしまった自分は、やはり愚かで無神経だった』と書いてはいます。が、一方で自分がその暴言を吐いた理由を書き、その裏にAの言い分があること、そして、そのAの言い分を肯定して結局謝罪はしていません。
実の親である自分ですら『靴を燃やすというAの度はずれた執念深さにショックを受け』ているできごとです。被害者の女性の立場に立つことができれば、そのときの恐怖やショック、その後も引きずるかもしれない人間不信などへの影響の深さがわかるはずです。
すると、先ずはその傷をやわらげたい、癒したい、傷つけたことを許してほしい、そういう気持ちが前面に出てくるのではないでしょうか。理由のいかんを問う余地はありません。
このように相手の気持ちを共感的に受け止める心があれば、自然と謝罪の言葉は出てくるものです。先に書いたように、謝罪とは傷つけた相手の気持ちを自分が受け止めたことを相手に伝える行為だからです。
『愚かで無神経だった』という反省も、『軽々しく口にしてしまった』自分の行為に対する反省であって相手の気持ちを受け止めた言葉ではないように思います】
【Aが拳に時計を巻きつけて親友を殴って歯を折った時のことです。
「それにいくら殴っても、人の口に戸は立てられへんよ」
母親は話の流れの中でそう言っているのですが、この一言で、母親は無意識のうちに殴ったこと自体をお咎めなしにしてしまっているのです】
【さらにこの言葉には、「人の口に戸を立てるためには殴る以上のことをしなければならない」という隠されたメッセージさえ含まれています。
ですから、その後で言われる「なにがあっても絶対、人に暴力を振るったらあかん」という言葉も単なる儀礼にしか聞こえません。なぜなら、殴られて歯まで折られた相手の身になって考える言葉が会話の中に微塵も出てこないからです】
【『淳』(新潮社)の中で土師さんはこう書いています。淳君がAから苛められ、土師さんの奥さんがAの母親に電話したときのことです。
「あの子は、六年生になってから仲の良かった友達とクラスが別々になって、きっと寂しかったんやは」と、そんな言いわけばかりしたそうです。最後まで、“ごめんね”という謝罪の言葉は口から出なかったそうです】
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
拙著「あなたの子どもを加害者にしないために」から長々と引用した。
本書を読むと、親との関係の中から、少年Aの中に酒鬼薔薇とあの独特の世界観が生まれたことが分かるだろう(詳しくは読んでほしい)。ここでは、謝ることにまつわる親の態度から少年Aが何を学んだかを押さえておきたい。
<続く>
それは当事者を道具にしたこの法制度の争いが、人々の健全な自我の発達を妨げる恐れがあるからだ。どのような悪影響があるのかを家族心理学の観点から見てみよう。
基本的なことから見ていきたい。
そこをおろそかにした議論は、たとえどのような理屈があっても人の社会に害をなすからだ。以下のように記していく。
★「光市母子殺害事件」目次
1,「謝る」ということ
2,謝らない親
3,被害者が謝罪を要求する意味
4,謝罪しない姿から加害者が学ぶこと
5,加害者を成長させない構造
6,「人」を「道具」にしてはいけない
■1,「謝る」ということ
【さて、命にかかわることと同時に生きる上で教えなくてはならないもう一つのこと。それは、“謝る”ということです。なぜなら、誰も傷つけずに生きていくことはできないからです。また、傷つけたことに気づいたときが成長のチャンスでもあるからです。
気づくということは、傷つけた相手の気持ちを共感的に受け止めることができたということです。自分を離れて相手の気持ちを受け止めることができたときに人間の幅が広がります。
そして、謝るという行為は、相手の気持ちを自分が受け止めたことを相手に伝える行為なのです。傷つけられた相手は謝罪の姿を見て、持って行き場のなかった自分の気持を相手が分け持ってくれたことがわかるでしょう。そして、謝罪の言葉を聞きその姿を見ることによって、もう二度と同じ過ちは繰り返さないという決意も感じるでしょう。
ここに、傷つけ傷つけられた関係は解消され、人間関係を紡ぎなおすことができます。
謝るとは、終わらせる行為ではなく、スタートさせる行為なのです】
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
■2,謝らない親
【Aが女生徒の靴を燃やした上に、その子の鞄を男子トイレに隠すという問題を起こしたときのことです。関係者が集まって話したときに、Aの母親は『被害にあわれたお嬢さんのお母さんの前で、「女の子は口が達者やから」と発言』しています。『あの場でそんなことを軽々しく口にしてしまった自分は、やはり愚かで無神経だった』と書いてはいます。が、一方で自分がその暴言を吐いた理由を書き、その裏にAの言い分があること、そして、そのAの言い分を肯定して結局謝罪はしていません。
実の親である自分ですら『靴を燃やすというAの度はずれた執念深さにショックを受け』ているできごとです。被害者の女性の立場に立つことができれば、そのときの恐怖やショック、その後も引きずるかもしれない人間不信などへの影響の深さがわかるはずです。
すると、先ずはその傷をやわらげたい、癒したい、傷つけたことを許してほしい、そういう気持ちが前面に出てくるのではないでしょうか。理由のいかんを問う余地はありません。
このように相手の気持ちを共感的に受け止める心があれば、自然と謝罪の言葉は出てくるものです。先に書いたように、謝罪とは傷つけた相手の気持ちを自分が受け止めたことを相手に伝える行為だからです。
『愚かで無神経だった』という反省も、『軽々しく口にしてしまった』自分の行為に対する反省であって相手の気持ちを受け止めた言葉ではないように思います】
【Aが拳に時計を巻きつけて親友を殴って歯を折った時のことです。
「それにいくら殴っても、人の口に戸は立てられへんよ」
母親は話の流れの中でそう言っているのですが、この一言で、母親は無意識のうちに殴ったこと自体をお咎めなしにしてしまっているのです】
【さらにこの言葉には、「人の口に戸を立てるためには殴る以上のことをしなければならない」という隠されたメッセージさえ含まれています。
ですから、その後で言われる「なにがあっても絶対、人に暴力を振るったらあかん」という言葉も単なる儀礼にしか聞こえません。なぜなら、殴られて歯まで折られた相手の身になって考える言葉が会話の中に微塵も出てこないからです】
【『淳』(新潮社)の中で土師さんはこう書いています。淳君がAから苛められ、土師さんの奥さんがAの母親に電話したときのことです。
「あの子は、六年生になってから仲の良かった友達とクラスが別々になって、きっと寂しかったんやは」と、そんな言いわけばかりしたそうです。最後まで、“ごめんね”という謝罪の言葉は口から出なかったそうです】
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より】
拙著「あなたの子どもを加害者にしないために」から長々と引用した。
本書を読むと、親との関係の中から、少年Aの中に酒鬼薔薇とあの独特の世界観が生まれたことが分かるだろう(詳しくは読んでほしい)。ここでは、謝ることにまつわる親の態度から少年Aが何を学んだかを押さえておきたい。
<続く>