「戦争体験の継承」の難しさと大切さ
再び彼の名を聞いたのは、胃ガンと闘っていることを報じた7/5日の朝日朝刊だった。
「えっ、胃ガン? それにもう75なの。親父と同じ年なんだ…」-なんだか一挙にワープして実感がなかった。
そのときの新聞では、『33年の『全権委任法』で、ナチスがワイマール憲法をなし崩しにした過程にそっくりだ。最低投票率制がない国民投票法は、20%ぐらいの投票率であっても改憲可能になる。少数独裁民主主義になるのではないか』と、病床にあっても、国民投票法の成立など政治の動きを心配していることが伝えられていた。
ところで、国民投票法案が衆院通過した時の新聞(4/14朝日)には次のような声が掲載されていた。
『終戦からたった60数年。なのに、戦争ができる国に着々と変わろうとしているように見える。孫たちに同じ思いをさせたくない』【23年前からドームの水彩画を描き続けている原広司さん(75)】
『ついにここまで来たか。(略)あの大空襲の惨禍を今の時代に伝えきれなかったか。だが、私たちは過去の戦争犠牲者と、今の子どもたちの声なき声に耳を傾け続けなければいけない』【作家の早乙女勝元さん(75)】
小田実氏はじめ、いずれも75歳-私の父と同世代である。
早乙女勝元氏が嘆くように、この世代は残念ながら『大空襲の惨禍を今の時代に伝えきれ』ていない。
『語り継ぐこと』に書いたが、語り継がれていない知識は、いざというときに智恵として機能しない。スマトラの大地震の時、奇跡的に全員が助かった村では、“ツナミ”の怖さが親から子へと実感をこめて語り継がれていた。
しかし、『連鎖を断つために過去と向き合う』に書いたように、過去を見たくない人々にとって、実感を持って語り継ぐことはとても辛い行為なのだ。ここに戦争体験を継承することの「体験者側の難しさ」がある。
むしろこの世代は、悲惨な過去を振り払うかのように前だけを見て突進してきたのではないだろうか。前途には輝かしい未来が開けていた。
ちなみに父の場合は、1年分の給与をつぎ込んで真空管ラジオを購入…から始まってモノを揃えていった。貧しいが故、そして焼け野原になったが故の物欲が高度成長を押し上げた。
一方、会社で学歴差別に苦しんだ父から、大学だけは行けというプレッシャーを受けて私は育った。当然、中学時代から反発をするようになる。そして、高校時代に家族が転勤になって私一人「間借り」暮らしを始めてから救われ、私は息を吹き返した。
間借りだから、朝夕は「まるまん」という同級生の親がやっている食堂で食事した。
そして、そのまるまんの親父から、シベリア抑留の話など毎日のように聞かされたものだ。まぁ批判的反抗期だからね、私がそうだったように息子(同級生)は話を聞かないだろう。だから、自分の息子に話せないことを私に話していたんだろうと思う。
抑留から解放されて帰国の船上、抑留中に高圧的で反感を買っていた2名の日本人を残る全員で海にたたき落とした話など、今でも覚えている。
私も、自分の親からであれば聞かなかったかもしれない。何しろ話の内容ではなく、父親という存在そのものが、今の言葉で言えばうざかったから。これが戦争体験を「受け継ぐ側の難しさ」である。
だから、前世代の経験をいろんなルートで後世代が受け継げるような多世代混住社会が望ましい。
幸い私は親以外の年配者と接する機会も多く、あちこちで戦争体験を聞いた。だから自然と、戦争に対する関心も培われた。
そして今は、親の人生をきちんと聴くことが親の生涯を全うさせることであり、その戦争体験をきちんと聴くことが「世代間引き継ぎ」の完了だと思っている。逆に、それをさせなければ、民族に経験が残っていかない。
8/7の「天声人語」によると、小田実氏は、大阪空襲に遭い黒焦げの死体を片付けたという体験から、ベトナム戦争の写真を見てその悲惨さを実感し、「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」を立ち上げたそうだ。
体験があるから「におい」がわかり、においがわかるから行動する-これは、私にもよくわかる。スマトラの村が助かったように、「におい」を共有できる人を増やすことが、(パワーバランスなどの頭でっかちの危うい抑止力ではなく)戦争の本当の抑止力になる。
奇しくも、氏が暴走を懸念した自民が大敗を喫した日、氏は亡くなった。
時代の変化の兆しを見届けたのだろうか。
合掌。